第九話 交わした言葉
リシェルは、静かに背筋を伸ばした。
先ほどまでの緊張は、まだ胸に残っている。
それでも、伯爵令嬢として礼を尽くさなければならない。
そう思い、ゆっくりと一歩前へ出る。
「アストレア伯爵家の娘、リシェルと申します。」
優雅に一礼すると、蜂蜜色の髪がさらりと肩を流れた。
レオンもまた、静かに一礼を返す。
「王国騎士団長、レオン・ヴァルフォードと申します。」
その声は、先ほどまで犯人へ向けられていた鋭さとは違う。
穏やかで、落ち着いた響きだった。
「やはり、アストレア伯爵家のご令嬢でしたか。」
そこに驚きも、詮索するような色もない。
ただ、社交界で見かけた記憶と、目の前の令嬢が一致しただけ。
そんな自然な響きだった。
「社交の場で、お姿だけはお見掛けしておりました。」
「私も、お名前は存じ上げておりました。」
リシェルは、柔らかく微笑む。
「騎士団長としてご活躍のお噂は、父から聞いております。」
レオンは、わずかに目を細める。
「そうでしたか。」
短く応じると、静かに続けた。
「アストレア伯爵には、日頃より騎士団へのご理解をいただいております。
騎士団としても、大変助けられております。」
「父も、そのように申しておりました。」
リシェルは、穏やかに微笑んだ。
「王都の平穏は、騎士団の皆様のお力あってこそだと。」
「……身に余るお言葉です。」
短いやり取りだった。
それでも、不思議と居心地の悪さはない。
互いに、礼節を重んじる者同士だからだろうか。
穏やかな空気が、二人の間に流れていた。
レオンの視線が、ふとリシェルの右手へ止まる。
白い手袋の指先が、わずかに擦れていた。
先ほど男を避けた際、石壁へ触れてしまったのだろう。
本人は気付いていないようだった。
「失礼。」
レオンは、懐へ手を入れる。
取り出したのは、一枚の白いハンカチだった。
余計な装飾のない、上質な麻のハンカチ。
騎士らしい、実用性を重んじた品だった。
「宜しければ、お使いください。」
差し出されたハンカチに、リシェルは少しだけ目を見開く。
「え……。」
突然のことに、言葉が続かない。
その隣で、マリアも思わずレオンとハンカチを見比べていた。
「ですが……。」
伯爵令嬢として、見知らぬ男性から物を受け取ることには、ためらいがある。
それを察したのか、レオンは静かに続けた。
「汚れたままでは、お屋敷へお戻りになった際、ご家族もご心配なさるでしょう。」
その言葉に、リシェルは自分の右手へ視線を落とした。
「あ……。」
白い手袋の指先には、確かに薄く汚れが付いている。
先ほどまで、気付いていなかった。
「申し訳ございません。」
リシェルは、小さく頭を下げる。
「では、お言葉に甘えさせていただきます。」
リシェルは、両手でハンカチを受け取る。
「ありがとうございます。」
白い布は、驚くほど手触りが良かった。
騎士が普段から持ち歩く物とは思えないほど、丁寧に手入れされている。
リシェルは、指先の汚れをそっと拭い、小さく息をついた。
「助かりました。」
ようやく、少しだけ表情が和らぐ。
その様子を見て、レオンも静かに頷いた。
「安心いたしました。」
それだけ、だった。
必要以上の言葉はない。
相手を気遣いながらも、一歩踏み込むことはしない。
その距離感が、かえって心地よかった。
その様子を見つめながら、リシェルは小さく口を開く。
「あの……。」
リシェルが口を開こうとした、その時だった。
「団長。」
ノアが、足早に駆け寄る。
「現場の確認が、終わりました。」
「目撃者の聞き取りも、進めています。」
レオンは頷く。
「分かった。」
リシェルへ、軽く一礼する。
「失礼いたします。」
それだけ言うと、ノアと共に現場へ戻っていった。
「あ……。」
リシェルは呼び止めることもできず、その背中を見送る。
両手には、一枚の白いハンカチだけが残っていた。




