第三話 再び交わる運命
王都の石畳を、アストレア伯爵家の馬車がゆっくりと進んでいた。
窓の外を眺めながら、リシェルは父の言葉を思い返す。
――婚約とは、家と家の信頼の上に成り立つものだ。
あの穏やかな声が、今も耳に残っている。
婚約とは、当人同士の約束だけではない。
多くの人々との信頼によって、支えられているもの。
自分はまだ、知らないことが多い。
だからこそ、もっと学ばなければならない。
「お嬢様、間もなくエルド商会本部でございます。」
マリアの声に、リシェルは顔を上げた。
「ありがとう。」
馬車はゆっくりと速度を落とし、一棟の重厚な石造りの建物の前で静かに停まる。
建物の正面には、落ち着いた金文字でこう刻まれていた。
――エルド商会 本部。
王都でも有数の老舗商会。
代々、王国の貴族や領主たちとの信頼を築き上げ、多くの領地経営を支えてきた名門商会である。
御者が扉を開けると、一人の男性が静かに歩み寄ってきた。
年の頃は五十代半ば。
落ち着いた身なりに隙のない所作は、長年この商会を支えてきたことを感じさせる。
「ようこそお越しくださいました、リシェルお嬢様。」
男性は深々と一礼した。
「お待ちしておりました。」
リシェルも優雅に一礼を返す。
「本日はお時間をいただき、ありがとうございます。」
「商会長がお待ちしております。こちらへどうぞ。」
男性に案内され、リシェルは本部の中へ足を踏み入れた。
外観と同様、館内も落ち着いた雰囲気に包まれている。
磨き上げられた床。
無駄な装飾を抑えた調度品。
壁には王都や各領地を結ぶ街道の地図が飾られ、その傍らには各地の特産品が品よく並べられていた。
華美ではない。
しかし、一つひとつが丁寧に手入れされ、この商会が長年積み重ねてきた信頼を静かに物語っている。
すれ違う商会員たちは足を止め、リシェルへ恭しく一礼する。
慌ただしく行き交ってはいるものの、館内に慌てた様子はない。
誰もが自分の役割を理解し、静かに仕事を進めていた。
「こちらでございます。」
案内されたのは、陽当たりの良い応接室だった。
大きな窓から、柔らかな陽光が差し込み、季節の花がさりげなく飾られている。
「商会長をお呼びしてまいりますので、どうぞごゆっくりお待ちください。」
「ありがとうございます。」
男性が退室すると、マリアが小さく微笑んだ。
「相変わらず、落ち着いた商会でございますね。」
「ええ。」
リシェルも穏やかに頷く。
「小さい頃、お父様に連れられて来たことを思い出すわ。」
幼い頃には分からなかったが、今なら分かる。
ここにある落ち着きも、秩序も、長い年月をかけて築かれた信頼の証なのだ。
「お待たせいたしました。」
扉が静かに開き、一人の老紳士が穏やかな笑みを浮かべて部屋へ入ってきた。
年の頃は六十を少し過ぎた頃。
白髪交じりの髪をきちんと整え、落ち着いた灰色の上着を品良く着こなしている。
その柔和な笑みの奥には、長年商会を率いてきた者だけが持つ鋭い眼差しが宿っていた。
「ご無沙汰しております、リシェルお嬢様。」
商会長、アルベルト・エルドは、深く一礼した。
「お待たせいたしました。」
扉が静かに開き、一人の老紳士が穏やかな笑みを浮かべて部屋へ入ってきた。
年の頃は六十を少し過ぎた頃。
白髪交じりの髪をきちんと整え、落ち着いた灰色の上着を品良く着こなしている。
その柔和な笑みの奥には、長年商会を率いてきた者だけが持つ鋭い眼差しが宿っていた。
「ご無沙汰しております、リシェルお嬢様。」
商会長、アルベルト・エルドは深く一礼する。
リシェルも立ち上がり、優雅に礼を返した。
「こちらこそ、ご無沙汰しております、アルベルト様。」
「本日は父より書類を預かってまいりました。」
封書を差し出すと、アルベルトは両手で丁寧に受け取る。
封蝋を確かめ、小さく頷いた。
「確かに、お預かりいたしました。」
「伯爵様にも、後ほど改めてご返事をお送りいたします。」
「ありがとうございます。」
リシェルが微笑むと、アルベルトも穏やかに目を細めた。
「リシェルお嬢様も、すっかりご立派になられましたな。」
「幼い頃は、伯爵様の後ろに隠れていらしたのを昨日のことのように覚えております。」
思いがけない話に、リシェルは少しだけ頬を染める。
「……そんな頃もありましたね。」
「ええ。」
アルベルトは懐かしそうに笑った。
「伯爵様は、『いずれ娘にも家のことを学ばせる』と、よく仰っておられました。」
「本日こうして大切な書類を託されたことが、その何よりの証でしょう。」
父の言葉が脳裏によみがえる。
──これも、いずれお前が家を支える時のためだ。
リシェルは自然と背筋を伸ばした。
「父の期待に応えられるよう、まだまだ学ばなければなりません。」
その返事に、アルベルトは満足そうに頷く。
「そのお気持ちがあれば十分でございます。」
「伯爵様も、安心してお任せになれることでしょう。」
アルベルトは、ふと窓の外へ目を向けた。
「今日は良い天気でございます。」
「せっかく王都までいらしたのです。」
「お帰りまで少しお時間がおありでしたら、中央通りへ足を運ばれてはいかがでしょう。」
「最近は新しい紅茶専門店もできまして、当商会でもおすすめしております。」
「奥様がお好きそうなお店もございますよ。」
リシェルは思わず微笑んだ。
「母も似たようなことを申しておりました。」
「帰りはゆっくり寄り道をしてきなさい、と。」
「それは何よりでございます。」
アルベルトも柔らかく笑う。
「王都は季節ごとに表情を変えます。」
「どうぞ、今日という一日をお楽しみください。」
リシェルは静かに立ち上がった。
「書類の件、よろしくお願いいたします。」
「確かに承りました。」
アルベルトは深く一礼する。
「伯爵様、伯爵夫人様にも、よろしくお伝えください。」
「はい。」
応接室をあとにすると、先ほど案内してくれた男性が玄関まで見送ってくれた。
「本日はありがとうございました。」
「こちらこそ、お世話になりました。」
本部を出ると、柔らかな風が頬を撫でる。
王都の街は今日も多くの人々で賑わっていた。
「さて、まずはお母様がおっしゃっていた紅茶のお店へ参りましょうか。」
「はい、お嬢様。」
マリアが嬉しそうに頷く。
二人はゆっくりと中央通りへ向かって歩き出した。
穏やかな昼下がり。
誰もが、いつもと変わらない一日になると信じていた。




