第ニ話 消えない疑問
朝の柔らかな陽光が、窓辺のレース越しに、部屋へ差し込んでいた。
小鳥のさえずりが、庭から聞こえてくる。
リシェルは読みかけの本を閉じ、小さく息をついた。
婚約解消から数日。
慌ただしかった日々もようやく落ち着き、屋敷には穏やかな時間が戻っていた。
「お嬢様、おはようございます。」
控えめなノックのあと、侍女のマリアが部屋へ入ってくる。
「おはよう、マリア。」
穏やかに微笑み返し、リシェルは立ち上がった。
窓の外には、手入れの行き届いた庭園が広がっている。
変わらない景色。
変わらない朝。
それだけで、どこか心が落ち着いた。
身支度を整え、食堂へ向かう。
廊下ですれ違う使用人たちは、いつもと変わらぬ笑顔で頭を下げた。
誰も必要以上に、婚約の話へ触れようとはしない。
その気遣いが、かえってありがたかった。
食堂の扉を開けると、両親が既に席についていた。
「おはようございます、お父様、お母様。」
食堂へ入ると、両親は既に席についていた。
「おはよう、リシェル。」
伯爵が穏やかに頷く。
「おはよう。昨夜はよく眠れた?」
伯爵夫人は、優しく目を細めた。
「はい。おかげさまで。」
そう答えると、母はほっとしたように微笑む。
「それなら良かったわ。」
リシェルも自然と笑みを返し、席へ腰を下ろした。
窓から差し込む朝日が食堂を明るく照らし、庭からは小鳥のさえずりが聞こえてくる。
焼きたてのパンの香りが漂い、温かな朝の空気が広がっていた。
朝食は穏やかに始まった。
領地で収穫された果物の出来や、新しく咲いた庭の薔薇の話。
最近仕入れた紅茶の香りが、とても良かったこと。
母は時折、「今度、一緒に選びに行きましょう」と微笑み、父も静かに相槌を打つ。
婚約の話は、一度も出なかった。
それが両親なりの優しさだと、リシェルには分かっていた。
食後のお茶が運ばれ、三人でゆっくりとカップを傾ける。
しばらく穏やかな時間が流れたあと、伯爵がふと思い出したように口を開いた。
「そうだ、リシェル。」
「はい。」
伯爵は、執事へ視線を向ける。
執事は一礼すると、あらかじめ用意していた封書を恭しく差し出した。
「エルド商会へ、この書類を届けてもらえるかな。」
「私が、ですか?」
「ああ。急ぎではない。」
伯爵は紅茶を一口飲み、穏やかな口調で続ける。
「向こうも、お前の顔を見れば安心するだろう。」
リシェルは封書を受け取り、小さく頷いた。
「承知しました。」
その返事に伯爵は満足そうに頷く。
すると伯爵夫人も、優しく微笑みながら言った。
「帰りは、少し寄り道をしていらっしゃい。新しいリボンや紅茶も入ったと聞いたわ。」
「ありがとうございます、お母様。」
思いがけない言葉に、リシェルの表情がふっと和らぐ。
伯爵はそんな娘を見つめ、静かに口を開いた。
「そういえば、侯爵家との契約整理も、ようやく一段落した。」
リシェルは、父へ視線を向けた。
「契約整理……ですか?」
「ああ。」
伯爵は表情を変えない。
「婚約を前提としていた共同事業や出資は、すべて見直した。」
その声は、淡々としていた。
まるで、日々の仕事を報告するかのように。
リシェルは少し驚いたように、父を見つめた。
「それは……侯爵家にとって、大きな痛手ではありませんか?」
伯爵は静かに頷いた。
「そうだろう。」
否定もしない。
責めることもしない。
ただ、事実として認める。
「だが、婚約とは当人同士だけの約束ではない。家と家の信頼の上に、成り立つものだ。
婚約が解消された以上、その前提で結ばれていた契約を見直すのは、当然のこと。」
伯爵は紅茶を一口含んだ。
「私は、侯爵家を罰したわけではない。元の形へ、戻しただけだ。」
その言葉に、リシェルは小さく息をのむ。
婚約とは、互いの想いだけで結ばれるものではない。
多くの人の信頼と約束の上に成り立つものだったのだ。
伯爵夫人も静かに頷いた。
「お父様も、決して簡単に決めたわけではないのよ。長いお付き合いでしたもの。」
伯爵は少しだけ苦笑する。
「商会も、職人も、皆それぞれの生活を背負っている。
情だけで契約を続けることは、かえって無責任だからな。」
その静かな言葉に、リシェルは父らしさを感じていた。
誰かを、打ち負かすためではない。
守るべき人々を守るために、伯爵としての責務を果たしただけなのだ。
「……勉強になりました。」
リシェルが頭を下げると、伯爵は穏やかに微笑んだ。
「これも、いずれお前が家を支える時のためだ。」
「はい。」
その返事に、伯爵夫人がふっと表情を和らげる。
「難しいお話は、このくらいにしましょう。
せっかくの、お出掛けですもの。
帰りは、ゆっくり街を見ていらっしゃい。
新しい紅茶も入ったと聞いたし、リボンのお店にも可愛い品が並んでいる頃よ。」
「ありがとうございます、お母様。」
自然と、笑みがこぼれる。
伯爵も静かに頷いた。
「急ぎの用ではない。商会へ届けたあとは、お前の好きに過ごしてくるといい。」
「はい。では、行ってまいります。」
リシェルは立ち上がり、両親へ一礼した。
「行ってらっしゃい。」
二人の優しい声に見送られながら、リシェルは封書を大切に抱えて食堂をあとにする。
廊下を歩く足取りは、朝よりも少しだけ、軽くなっていた。
父と母の変わらぬ、温かさに触れたからだろう。
玄関では、執事と侍女のマリアが待っていた。
「馬車の準備が、整っております。」
「ありがとう。」
リシェルは軽く頷き、屋敷の扉をくぐる。
夏を思わせるやわらかな陽射しが、優しく彼女を迎えた。
向かう先は、エルド商会。
その何気ない外出が、再び運命を動かすことになるとは、この時のリシェルはまだ知る由もなかった。




