第一話 揺らぎ始める日常
侯爵家の朝は、静かだった。
窓から差し込む陽光が白いテーブルクロスを照らし、磨き上げられた銀食器が、柔らかな光を返している。
いつもと変わらぬ朝。
そのはずだった。
セドリックは紅茶を口に運びながら、何気なく新聞へ目を落とす。
婚約破棄から数日。
ようやく慌ただしさも落ち着き始め、侯爵家にも日常が戻ってきた――そう思っていた。
「セドリック。」
低く落ち着いた声が食堂に響く。
父である侯爵だった。
新聞から視線を上げると、侯爵は食事の手を止め、真っ直ぐこちらを見ている。
その表情は厳しい。
「食事が終わったら、書斎へ来なさい。」
「……はい。」
短く返事をする。
理由は分からない。
だが、その声音から、軽い話ではないことだけは、伝わってきた。
静かな食堂には、食器の触れ合う小さな音だけが響いている。
母も何も口を開かない。
その沈黙が、かえって胸をざわつかせた。
(何か、あったのだろうか。)
婚約破棄の件なら、すでに終わった話のはずだ。
父も了承していた。
今さら、呼び出される理由など思い当たらない。
それでも、胸の奥に小さな違和感が残った。
食後、セドリックは書斎の扉を叩いた。
「入りなさい。」
低い声が返ってくる。
「失礼いたします。」
部屋へ入ると、侯爵は執務机の前に立っていた。
机の上には、数枚の書類が広げられている。
いつものように、椅子へ座るよう促されることもなかった。
「そこに立ちなさい。」
その一言に、セドリックは小さく息を呑む。
父がここまで、険しい表情を見せるのは珍しい。
侯爵は一枚の書類を手に取ると、それを机の上へ置いた。
「これが、何か分かるか。」
セドリックは、書類へ目を落とす。
商会の印章。
契約書。
そして――。
『共同事業計画 中止』
その文字が、目に飛び込んできた。
「これは……。」
「アストレア伯爵家との共同事業だ。」
侯爵は、感情を抑えた声で続ける。
「婚約が解消されたことで、契約は白紙となった。」
セドリックは一瞬、言葉を失う。
「ですが……共同事業が一つなくなっただけでは……。」
その言葉に、侯爵の眉がぴくりと動いた。
「一つだけ、だと?」
静かな声音。
だが、その静けさが何よりも恐ろしかった。
侯爵は、一枚目の書類を脇へ置く。
そして、新たな書類を手に取った。
「これは、王都商会との契約見直し通知だ。」
セドリックは目を通す。
契約先には、王都でも名の知れた商会の名が並んでいた。
「契約見直し……?」
「アストレア伯爵家の紹介で、取引を始めた商会だ。」
侯爵は淡々と告げる。
「婚約解消に伴い、今後の取引条件を再協議したいとの申し出が届いた。」
「ですが、それは……。」
「当然の判断だ。」
侯爵は言葉を遮る。
「彼らに義理立てする理由は、もうない。」
セドリックは黙り込む。
侯爵はさらに一枚、書類を差し出した。
「こちらは、新規共同事業への出資取り下げ。」
続いて、もう一枚。
「領地開発計画の、白紙撤回。」
さらにもう一枚。
「人材派遣の中止。」
机の上へ置かれた書類は、一枚では終わらなかった。
セドリックの表情から、少しずつ余裕が消えていく。
「……こんなに。」
思わず漏れた声は、自分でも驚くほど小さかった。
侯爵は静かに頷く。
「全て、アストレア伯爵家との婚姻を前提として結ばれていた話だ。」
セドリックは目を見開く。
「私は……何も聞いておりません。」
セドリックの声は、先ほどまでの自信を失っていた。
侯爵は返事をする前に、一度机の上へ視線を落とした。
積み重ねられた書類を静かに整え、一枚一枚を重ねていく。
その動作は、まるで話を終える準備をしているようだった。
「知らせていなかったからだ。」
短い返答だった。
侯爵は最後の書類を机へ置くと、ゆっくりとセドリックへ向き直る。
その眼差しには怒りではなく、静かな失望が滲んでいた。
「お前は、家督を継ぐ立場ではある。だが、まだ経営を任せる段階ではないと判断していた。」
セドリックは、何も言えない。
侯爵は窓辺へ歩み寄る。
窓の外には、手入れの行き届いた庭園が広がっていた。
しばらく、その景色を見つめる。
「だから、お前は知らなかった。」
背を向けたまま、侯爵は静かに言った。
「我が侯爵家が、どれほどアストレア伯爵家との信頼関係に、支えられていたのかを。」
その言葉だけが、静まり返った書斎に落ちる。
セドリックは、机の上の書類へ目を落とした。
共同事業。
出資。
契約。
どれも、自分の知らないものばかりだった。
侯爵は、ゆっくりと振り返る。
「今日は、ここまでだ。」
その声に、先ほどまでの厳しさはなかった。
「もう一度、自分が何を失ったのか考えなさい。」
書斎を出ても、父の言葉は耳から離れなかった。
共同事業。
出資。
商会。
そのどれもが、自分の知らないところで動いていた。
(そんな話……聞いたことがない。)
いや、聞かなかったのではない。
知ろうとも、しなかったのだ。
婚約は、自分とリシェルだけのものだと思っていた。
家と家を結ぶもの。
未来を支えるもの。
そんな、当たり前のことさえ知らなかった。
廊下の窓から、庭が見える。
穏やかな景色は、何ひとつ変わっていない。
それなのに――。
セドリックには、侯爵家を取り巻く景色が、少しずつ音もなく、崩れ始めているように思えた。




