第十話 迫る明日
騒ぎのあった大通りを離れると、街は再び穏やかな表情を取り戻していた。
「先ほどは、驚きましたね。」
マリアが、ほっとしたように微笑む。
「ええ。でも、大きな怪我をされた方がいなくて、安心したわ。」
リシェルも、穏やかに頷いた。
先ほどの出来事が嘘のように、人々はいつもの日常へ戻っている。
露店には笑顔が戻り、子どもたちは楽しそうに、駆け回っていた。
「お嬢様、本屋はこちらです。」
案内された店は、表通りから一本入った、静かな場所にあった。
木製の扉を開くと、紙と革の香りがふわりと漂う。
壁一面に並ぶ書物は、歴史、地理、法律、薬学と実に様々だった。
「これほど、揃っているのね……。」
思わず、感嘆の声が漏れる。
「王都でも評判のお店だそうですよ。」
店主へ軽く会釈を返しながら、ゆっくりと棚を眺めていく。
その時、一冊の背表紙が目に留まった。
『王国法規集』
自然と、手が伸びる。
ぱらりと頁をめくると、税や商取引についての記述が並んでいた。
さらに読み進めると、一つの項目で指先が止まる。
『公金横領』
その四文字に、胸が小さく波立った。
(……横領。)
付箋に書かれていた言葉。
あまりにも現実味のない文字だったはずなのに、今は違う。
王国にも法があり、罪があり、それを裁く人々がいる。
事件は、誰か一人で解決するものではない。
文官が調べ、役人が記録し、必要があれば騎士団も動く。
そうして、真実へ辿り着く。
本を閉じたリシェルは、小さく息をついた。
(私は……。)
未来だけを見て、焦っていたのかもしれない。
けれど、未来を変えたいのなら。
まずは、この世界を知らなければならない。
その思いは、先ほどまでよりも少しだけ、強くなっていた。
店を出ると、午後の日差しが石畳をやわらかく照らしていた。
「ゆっくり、拝見できましたね。」
「ええ。思っていた以上に、興味深かったわ。」
マリアと穏やかに言葉を交わしながら、歩き出す。
先ほどまで胸を占めていた焦りは、不思議と少しだけ薄れていた。
未来は見える。
けれど、その未来を変えるためには、この世界を知ることも必要なのだ。
そんな当たり前のことに、ようやく、気付けた気がした。
「お嬢様、そろそろ馬車へ戻りましょう。」
護衛の一人が、周囲を見回しながら声を掛ける。
「そうね。」
リシェルは頷き、来た道を引き返す。
人々は思い思いに休日を楽しみ、街には穏やかな時間が流れていた。
――その時。
ふと、人混みの中に見覚えのある後ろ姿が映る。
昨日も、今日も見かけた男性。
思わず足を止め、その頭上へ視線が向いた。
そこに浮かぶ付箋は――。
【明日 横領が発覚します】
静かに、しかし確かに変わっていた。
(三日後が、二日後になって……。)
そして、今日。
明日。
運命は、すぐそこまで近付いている。
リシェルは、無意識に胸元で手を握りしめた。
未来は、変えられるのか。
それとも――。
まだ、その答えは分からない。
けれど――。
「……必ず。」
誰にも聞こえないほど、小さな声で呟く。
その瞳には、不安だけではない光が宿っていた。
未来から目を逸らさない。
そう決めた少女の一歩が、静かに、動き始めていた。




