第四話 見過ごせない未来
「お嬢様?」
護衛の声に、リシェルははっと我に返った。
「あ……。」
視線の先では、一人の男性が足早に人混みの中を歩いている。
頭上に浮かぶ白い付箋だけが、鮮明に脳裏へ焼き付いていた。
【三日後 横領が発覚します】
「どうかなさいましたか。」
心配そうな護衛の問い掛けに、リシェルは小さく首を横へ振る。
「……何でもないわ。」
そう答えながらも、胸の鼓動は静まらなかった。
横領。
その二文字が、何度も頭の中で繰り返される。
(追い掛ける……?)
一瞬、そんな考えがよぎる。
けれど、すぐに首を振った。
(駄目。)
(付箋を見ただけで、その方を疑うなんて……。)
リシェルは静かに目を閉じる。
エルネストの言葉が胸によみがえった。
――噂に振り回されるのではなく、事実を見極めること。
(そう……。)
(私は何も知らない。)
(付箋だけを理由に、人を悪人だと決めつけてはいけない。)
小さく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。
胸のざわめきは消えない。
それでも、少しだけ冷静さを取り戻していた。
「行きましょう。」
護衛へ穏やかに声を掛ける。
「かしこまりました。」
リシェルはもう一度だけ、その男性の背中へ、視線を向けた。
人混みの中へ消えていく後ろ姿。
その頭上には、まだ白い付箋が静かに揺れていた。
リシェルは護衛とともに、馬車へ向かって歩き始めた。
けれど、足は前へ進んでいても、心だけは先ほどの場所に取り残されたままだった。
【三日後 横領が発覚します】
その文字が、何度も頭の中によみがえる。
横領。
それは誰かを欺き、信頼を裏切る行為。
婚約破棄とも、恋愛とも違う。
初めて目にした"罪"の未来だった。
(付箋は……。)
リシェルはそっと拳を握る。
(今まで、一度もはずれたことはない。)
だからこそ、恐ろしい。
もし、あの付箋も現実になるのだとしたら――。
「お嬢様。」
護衛の穏やかな声が、耳に届く。
「馬車は、こちらでございます。」
「あ……ありがとう。」
考え込んでいたことに気付き、リシェルは小さく微笑んだ。
護衛が馬車の扉を開く。
リシェルはゆっくりと乗り込み、窓際へ腰を下ろした。
馬車が静かに動き出す。
石畳を進む振動が、規則正しく身体へ伝わってくる。
窓の外では、王都の日常が流れていく。
楽しそうに笑う子どもたち。
店先で客を呼び込む商人。
荷物を抱えて足早に歩く人々。
誰もが、それぞれの一日を過ごしている。
その中に、あの男性もいる。
何事もない顔で。
三日後に、自分の未来が大きく変わることも知らずに。
リシェルは静かに窓の外へ視線を向けた。
(私は……。)
その先の言葉は、最後まで形にならなかった。
馬車は、静かに伯爵邸へ到着する。
「お帰りなさいませ、お嬢様。」
使用人たちの迎えを受け、リシェルは小さく微笑んだ。
「ただいま、戻りました。」
いつもと変わらない光景。
それなのに、心だけが落ち着かなかった。
自室へ戻ると、マリアが紅茶を用意してくれる。
「お疲れでは、ございませんか。」
「少し、考え事をしていただけよ。」
そう答えると、マリアは安心したように微笑み、一礼して部屋を出ていった。
部屋に静けさが戻る。
リシェルは窓辺へ歩み寄り、庭を眺めた。
風が木々を揺らし、鳥のさえずりが聞こえてくる。
平和な午後だった。
それでも、心は王都に置いてきたままだ。
【七日後 婚約破棄します】
最初に見えた未来。
【十四日後 破産します】
婚約破棄のあと、書き換わった未来。
【裏切られます】
ミレーユの未来。
そして今日。
【三日後 横領が発覚します】
恋愛ではない。
家族でもない。
見ず知らずの、誰かの未来。
リシェルは、ゆっくりと目を閉じた。
(付箋は……。)
(人を選んではいない。)
幸せも、悲しみも、罪さえも。
ただ静かに、その人の未来を映している。
胸の奥が、小さく痛んだ。
もし――。
あの男性が、本当に横領をするのだとしたら。
もし――。
横領ではなく、誰かに罪を着せられる未来なのだとしたら。
付箋は結果しか、教えてくれない。
理由までは、分からない。
(私は……。)
窓ガラスへ映る自分を見つめる。
(未来を知るだけで、本当にいいの……?)
答えは出ない。
けれど、一つだけ分かったことがあった。
この力は、婚約者の未来を見るためだけに、与えられたものではない。
もっと広く――。
もっと多くの人の、人生と関わる力なのだ。
その重さを知った今、以前の自分には、もう戻れない。
リシェルは静かに、窓の外へ視線を向けた。
春風が、木々を優しく揺らしている。
その穏やかな景色とは裏腹に、胸の奥では新たな歯車が、ゆっくりと動き始めていた。




