第三話 噂の真相
「もちろんです。」
リシェルの申し出に、エルネストは穏やかに微笑んだ。
「ですが、ここでは落ち着いてお話しできませんね。」
そう言って、周囲へ視線を向ける。
王都の大通りは、多くの人々で賑わっていた。
行き交う馬車の音。
商人たちの威勢のよい呼び声。
足を止めて話すには、人目も多すぎる。
「この近くに、貴族の方々も利用される喫茶店があります。」
「衝立で仕切られた席もございますので、そちらでしたら、ゆっくりお話しいただけるかと。」
リシェルは静かに頷いた。
「お願いいたします。」
二人は並んで歩き始める。
その少し後ろを、護衛たちが一定の距離を保ちながら静かについてくる。
しばらく歩くと、一軒の落ち着いた喫茶店が見えてきた。
派手さはない。
けれど、丁寧に磨かれた木の扉と、季節の花が飾られた店先からは、長年愛され続けてきた店であることが伝わってくる。
エルネストが扉を開くと、店員がすぐに一礼した。
「いらっしゃいませ。」
「二名、席をお願いできますか。」
「かしこまりました。」
店員に案内され、二人は店内の奥へと進む。
案内されたのは、高い衝立で周囲と緩やかに仕切られた席だった。
完全な個室ではない。
けれど、落ち着いて話をするには十分な空間だった。
護衛たちも店内へ入り、二人の様子が見える位置へ控える。
それを確認したリシェルは、小さく安堵の息をついた。
向かい合って席へ着くと、店員がメニューを差し出す。
「本日のおすすめは、春摘みの紅茶でございます。」
エルネストは、リシェルへ視線を向けた。
「リシェル様、いかがなさいますか。」
「私は……春摘みの紅茶をお願いいたします。」
「かしこまりました。」
エルネストも同じものを注文すると、店員は一礼して席を離れた。
穏やかな静けさが、二人を包む。
店内には、控えめな話し声と食器が触れ合う音だけが響いていた。
ほどなくして、湯気を立てる紅茶が運ばれてくる。
店員が音を立てないよう丁寧にカップを置き、一礼して下がる。
ふわりと立ち上る紅茶の香りが、張りつめていた心を少しだけ和らげた。
エルネストはカップへ手を添えながら、穏やかな笑みを浮かべる。
「どうぞ、ご遠慮なくお話しください。」
その声音は、問い詰めるものではない。
話したくなるまで待ってくれる、そんな優しさがあった。
リシェルは、両手でカップを包み込んだ。
立ち上る湯気が、ほんの少しだけ張りつめた心をほぐしてくれる。
それでも、何から話せばよいのか分からなかった。
付箋のことは話せない。
未来が見えることも。
けれど、このまま胸の内へしまい続けることもできない。
「……実は最近、少し気になる噂を耳にしたのです。」
エルネストは急かすことなく、小さく頷いた。
「どのような噂でしょうか。」
リシェルは視線を紅茶へ落とす。
「人づてに聞いた話なのですが……。」
言葉を選ぶように、ゆっくりと続ける。
「それが事実なのか、それとも、ただの噂なのか……私には分からなくて。」
静かな沈黙が流れた。
エルネストは考え込むようにカップへ手を添え、それから穏やかに口を開く。
「難しいご質問ですね。」
その言葉に、リシェルは顔を上げる。
「私でしたら、最初から信じることも、最初から否定することもいたしません。
噂は、人から人へ伝わるうちに形を変えるものです。」
エルネストは、そのままひとくちカップに口をつける。
「……ですが、ごく稀に、事実の一部が含まれていることもあります。」
リシェルは静かに耳を傾けた。
エルネストは続ける。
「ですから、大切なのは噂そのものではありません。その噂と、どう向き合うかです。」
「……どう向き合うか。」
リシェルは、小さく繰り返した。
「はい。」
エルネストは、柔らかく微笑む。
「噂に振り回される必要はありません。ですが、気になるのであれば、落ち着いて事実を確かめれば良いのです。」
さらに続ける。
「思い込みで決めつけず、冷静に見極める。
それが一番大切だと、私は思っています。」
「……もし。」
リシェルは小さく息を吸った。
「その噂が、本当だったとしたら……。」
言葉はそこで途切れる。
何をどう続ければよいのか、自分でも分からなかった。
エルネストは急かすことなく、その続きを待っている。
「誰かが傷つく未来だと分かっていても……。何もできないことも、あるのでしょうか。」
その問いに、エルネストは静かに目を伏せた。
すぐには答えない。
一つひとつ、言葉を選ぶように、小さく息をついてから口を開いた。
「ございます。」
その一言は、決して冷たいものではなかった。
「人には、それぞれ立場があります。知ることのできることにも、手を差し伸べられることにも、限りがあります。」
リシェルは黙って耳を傾ける。
「ですが。」
エルネストは穏やかな眼差しを向けた。
「だからといって、何も考えなくてよいということではありません。できることを考え、できる範囲で行動する。それだけでも、誰かを救えることはあります。」
リシェルは、その言葉を胸の中で静かに繰り返した。
――できることを考える。
それは、未来を変えられるという意味なのだろうか。
「……ありがとうございます。」
自然と、肩の力が抜けていた。
エルネストは優しく微笑む。
「私のお話が、お役に立てたのでしたら幸いです。」
店員が頃合いを見計らい、新しいお湯を運んできた。
二人は互いに微笑み、短く礼を交わす。
それ以上、この話を深く掘り下げることはなかった。
相談は終わった。
けれど、リシェルの胸には一つの灯がともっていた。
答えをもらったわけではない。
それでも、一人で抱え込まなくてもいいのだと思えた。
二人は静かに席を立った。
「本日は、お時間をいただき、ありがとうございました。」
リシェルは穏やかに微笑む。
「こちらこそ、お声掛けいただき、ありがとうございました。」
エルネストも、柔らかな笑みを返した。
二人は店員の案内で席を離れ、店の入口へ向かう。
店の外では、護衛たちが静かに待機していた。
リシェルの姿を認めると、そのうちの一人が歩み寄り、恭しく一礼する。
「お嬢様、お話はもうよろしいのでしょうか。」
「ええ。待たせてしまったわね。」
「とんでもございません。」
護衛は短く答え、一歩後ろへ下がった。
その様子を見届けたエルネストは、改めてリシェルへ向き直る。
「お気を付けてお帰りください。」
「ありがとうございます、エルネスト様。」
リシェルは小さく会釈する。
エルネストも静かに一礼を返した。
「また何かございましたら、いつでもお声掛けください。」
「はい。その時は、よろしくお願いいたします。」
穏やかな笑みを交わし、別れる。
リシェルは護衛とともに、馬車へ向かって歩き始めた。
王都の通りは、昼を迎えようとしている人々で賑わっている。
楽しげに会話を交わす親子。
荷馬車を引く商人。
忙しそうに足早に歩く役人。
その何気ない日常の中を、リシェルも静かに歩いていた。
――噂に振り回されるのではなく、事実を見極めること。
エルネストの言葉が、胸の奥で静かに響く。
その時だった。
一人の男性が、リシェルの前を足早に横切る。
何気なく、その頭上へ視線が向いた。
白い付箋が、春風に揺れている。
【三日後 横領が発覚します】
「……え?」
思わず足が止まった。
「お嬢様?」
護衛が、不思議そうに振り返る。
けれど、リシェルの耳には届かなかった。
横領。
その二文字が、頭の中で何度も繰り返される。
男性は何事もないように、人混みの中へ消えていく。
リシェルは、その後ろ姿を見つめたまま動けなかった。
――横領。
今まで見てきた付箋とは違う。
恋でもない。
婚約でもない。
誰かの人生を左右する、不正の未来。
エルネストの言葉が、再び胸に蘇る。
――まずは、事実を見極めること。
リシェルは小さく息をのんだ。
その未来を知ってしまった自分は、どうすればいいのだろうか。




