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辺境令嬢と、退屈知らずの執事  作者: 猫野ひかる
第5章「半年の答え合わせ」

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第99話「ありがと、いろいろ」

 朝、ロクスの顔を見た瞬間に決めた。


 聞かない。


 理由は——うまく言えない。でも、聞いたら何かが変わる。変わらなくていいことが、変わる。


 食堂に入ったら、ロクスが朝食の準備をしていた。パンが焼けた匂いがした。小麦粉がまだ貴重な時期だから、パンは小さい。でも焼きたての香ばしさは大きさに関係なく食欲を刺激する。窓から入る朝の光が食卓を斜めに照らして、パンの表面の焦げ目が金色に光っていた。


「おはようございます、お嬢様。本日の予定を申し上げましょうか」


「うん。お願い」


 いつも通りだ。いつも通りの挨拶。いつも通りの声。


 ロクスの手元を見た。白手袋。きちんと手首まで覆っている。その下に何があるか、昨日見た。見てしまった。


 でも——普通に話す。


「今日の予定は?」


「新住民の住居修繕の進捗確認と、ラディス殿への報告書の仕上げです。午後はグリムとの共同出荷の月次確認もございます」


「多いね」


「お嬢様の計画が順調な証拠です」


 普通だ。普通に話せている。ロクスの右手が手袋を引き直すのが見えたけれど、見なかったことにした。


 内心で自分を褒めた。普通に話せてる。偉い。わたし偉い。


 お茶をすすった。ロクスが注いでくれた薬草茶。いつもの、枯れ草と花の混じった穏やかな香り。温かい液体が舌先に触れて、喉を下りていく。一日の最初のお茶は、体を中から温めてくれる。


***


 書斎で書類を整理していた。


 午後の光が窓から差し込んでいた。秋が深まって、光の角度が低くなっている。窓枠の影が机の上に長く伸びて、木板の端にかかっていた。


 ラディスへの報告書は仕上がった。グリムとの月次確認も終わった。出荷量は先月より少し増えている。薬草の品質は安定していた。


 ロクスが書斎の棚を整理している。背中がこちらを向いている。黒い執事服の背中。長身で、背筋がまっすぐで、何の問題もないように見える。


 手袋の下の鱗。瞳の金色。動物が怖がること。夜の外出。工房の夜。


 知っている。知ってしまっている。全部繋がる先が何なのかは分からないけれど、ロクスが何かを隠していることは確かだ。


 聞かない。


 昨夜、布団の中で決めたはずだった。でも実際に目の前にロクスがいると、口が開きそうになる。「ロクス、手袋の下に何があるの」と。「どうして瞳が光るの」と。


 口を閉じた。代わりに、別のことを言った。


「ロクス」


「はい」


「ありがと。いろいろ」


 自分でも唐突だと思った。何の脈絡もない。書類整理の合間に、突然「ありがとう」と言う令嬢。おかしい。絶対におかしい。


 ロクスの手が止まった。棚の整理をしていた左手が、本を持ったまま動かなくなる。


 一拍の沈黙。


「突然ですね。何のことでしょう」


 声は穏やかだった。いつもの口調。でも体がこちらを向いた。


「別にいい。なんでもない。忘れて」


 顔が熱い。なんで言ったんだ。言わなくてよかったのに。感謝なんて普段しないのに。心の中ではしている。でも口に出すのは違う。


 窓の外を見た。目を逸らしたかった。秋の風が木の枝を揺らしている。葉が何枚か落ちて、地面に散っていく。


 ロクスが動いた。気配で分かった。


 手元のペンを一度置いた。棚から離れて、窓の方に一歩近づいた。窓の外に視線を向けている——のが、視界の端で分かった。


 沈黙が長かった。


 普段のロクスなら、ここで煽りが来る。「ありがとう、を言い換えますと」とか「お嬢様がお礼を仰るとは、明日は雪でしょうか」とか。煽って、茶化して、距離を元に戻す。いつものパターン。


 でも来なかった。


 ロクスが窓の外から視線を戻した。こちらを見ている。わたしは窓の外を見ていたけれど、視線の重さが分かった。


「お嬢様」


 声のトーンが違った。


 普段の軽さがない。煽りでも、からかいでも、丁寧語の武器でもない。ただ、静かな声。ロクスの声がこんなに低く、こんなに穏やかに響くことを、わたしは知らなかった。


「今の判断は、正しかったかと存じます」


 耳に入ってきた言葉を、頭が処理するのに時間がかかった。


「判断?」


「はい」


 ロクスの琥珀色の瞳が、まっすぐこちらを見ていた。窓からの光が横顔を照らしている。表情はいつもと変わらない。でも——目の奥に、何かがあった。煽りじゃない。からかいでもない。


「聞かないことも、正しい判断です」


 固まった。


 聞かない。わたしが決めたこと。手袋の下の鱗のことも、瞳の金色のことも、聞かないと決めたこと。


 ——ロクスは知っている。わたしが気づいていることを。


 気づいていて、聞かないことを選んだことを。


 それを「正しい」と言った。この人が。いつも煽って、茶化して、距離を保つこの人が。


「え」


 声にならない声が漏れた。


 ロクスが微かに目を細めた。笑ったのではない。でも、何かが緩んだ。


「失礼。お気になさらず」


 いつもの距離に戻った。声のトーンが半音上がって、普段のロクスに戻る。棚の整理の手が再開して、本の背が棚板を擦る音が静かに響いた。何事もなかったかのように。


 わたしは、まだ固まっていた。


 褒められた。この人に。


 煽りでも皮肉でもなく、まっすぐに。「正しい」と言われた。


 喉が詰まった。何か言わなければいけない気がした。でも何を言えばいいのか分からない。「ありがとう」はもう言った。「うん」は軽すぎる。黙っているのも変だ。


 結局、口から出たのは全然違う言葉だった。


***


「お茶、もう一杯もらっていい?」


 ロクスが振り返った。


「はい。ちなみに、三杯目ですが」


 ——要は「飲みすぎ」。うるさいな。飲みたいから飲むの。


「三杯目で何か問題ある?」


「何も。強いて申せば、お手洗いが近くなることくらいでしょうか」


「それは言わなくていい情報だよ」


 お茶が来た。温かい。湯気が立ち上って、書斎の乾いた空気に溶けていく。カップを両手で包むと、指先に温度が移る。秋の午後の光がお茶の表面に映って、小さな金色の円を作っていた。


 一口飲んだ。いつもの味だ。でも、何かが違う。お茶が、じゃない。空気が。


 言葉にするのは難しい。硬かった何かが、少しだけ柔らかくなったような。ロクスとの間にある透明な壁——あるのかないのか分からないくらい薄い壁が、ほんの少しだけ薄くなったような。


 気のせいかもしれない。でも、気のせいだとしても、嫌じゃなかった。


 書斎を出る時、ロクスの声が聞こえた気がした。小さな、独り言のような。


 振り返ったら、ロクスは窓の外を見ていた。秋の午後の光が、灰銀色の髪を柔らかく照らしている。


「何か言った?」


「いえ。独り言です」


 わたしは——たぶん、聞かなくてよかったんだと思う。


 聞かないことが正しいかどうかは、まだ分からない。でも今日の選択を、ロクスが「正しい」と言ってくれた。それだけで、今は十分だった。

お読みいただきありがとうございました!


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