第99話「ありがと、いろいろ」
朝、ロクスの顔を見た瞬間に決めた。
聞かない。
理由は——うまく言えない。でも、聞いたら何かが変わる。変わらなくていいことが、変わる。
食堂に入ったら、ロクスが朝食の準備をしていた。パンが焼けた匂いがした。小麦粉がまだ貴重な時期だから、パンは小さい。でも焼きたての香ばしさは大きさに関係なく食欲を刺激する。窓から入る朝の光が食卓を斜めに照らして、パンの表面の焦げ目が金色に光っていた。
「おはようございます、お嬢様。本日の予定を申し上げましょうか」
「うん。お願い」
いつも通りだ。いつも通りの挨拶。いつも通りの声。
ロクスの手元を見た。白手袋。きちんと手首まで覆っている。その下に何があるか、昨日見た。見てしまった。
でも——普通に話す。
「今日の予定は?」
「新住民の住居修繕の進捗確認と、ラディス殿への報告書の仕上げです。午後はグリムとの共同出荷の月次確認もございます」
「多いね」
「お嬢様の計画が順調な証拠です」
普通だ。普通に話せている。ロクスの右手が手袋を引き直すのが見えたけれど、見なかったことにした。
内心で自分を褒めた。普通に話せてる。偉い。わたし偉い。
お茶をすすった。ロクスが注いでくれた薬草茶。いつもの、枯れ草と花の混じった穏やかな香り。温かい液体が舌先に触れて、喉を下りていく。一日の最初のお茶は、体を中から温めてくれる。
***
書斎で書類を整理していた。
午後の光が窓から差し込んでいた。秋が深まって、光の角度が低くなっている。窓枠の影が机の上に長く伸びて、木板の端にかかっていた。
ラディスへの報告書は仕上がった。グリムとの月次確認も終わった。出荷量は先月より少し増えている。薬草の品質は安定していた。
ロクスが書斎の棚を整理している。背中がこちらを向いている。黒い執事服の背中。長身で、背筋がまっすぐで、何の問題もないように見える。
手袋の下の鱗。瞳の金色。動物が怖がること。夜の外出。工房の夜。
知っている。知ってしまっている。全部繋がる先が何なのかは分からないけれど、ロクスが何かを隠していることは確かだ。
聞かない。
昨夜、布団の中で決めたはずだった。でも実際に目の前にロクスがいると、口が開きそうになる。「ロクス、手袋の下に何があるの」と。「どうして瞳が光るの」と。
口を閉じた。代わりに、別のことを言った。
「ロクス」
「はい」
「ありがと。いろいろ」
自分でも唐突だと思った。何の脈絡もない。書類整理の合間に、突然「ありがとう」と言う令嬢。おかしい。絶対におかしい。
ロクスの手が止まった。棚の整理をしていた左手が、本を持ったまま動かなくなる。
一拍の沈黙。
「突然ですね。何のことでしょう」
声は穏やかだった。いつもの口調。でも体がこちらを向いた。
「別にいい。なんでもない。忘れて」
顔が熱い。なんで言ったんだ。言わなくてよかったのに。感謝なんて普段しないのに。心の中ではしている。でも口に出すのは違う。
窓の外を見た。目を逸らしたかった。秋の風が木の枝を揺らしている。葉が何枚か落ちて、地面に散っていく。
ロクスが動いた。気配で分かった。
手元のペンを一度置いた。棚から離れて、窓の方に一歩近づいた。窓の外に視線を向けている——のが、視界の端で分かった。
沈黙が長かった。
普段のロクスなら、ここで煽りが来る。「ありがとう、を言い換えますと」とか「お嬢様がお礼を仰るとは、明日は雪でしょうか」とか。煽って、茶化して、距離を元に戻す。いつものパターン。
でも来なかった。
ロクスが窓の外から視線を戻した。こちらを見ている。わたしは窓の外を見ていたけれど、視線の重さが分かった。
「お嬢様」
声のトーンが違った。
普段の軽さがない。煽りでも、からかいでも、丁寧語の武器でもない。ただ、静かな声。ロクスの声がこんなに低く、こんなに穏やかに響くことを、わたしは知らなかった。
「今の判断は、正しかったかと存じます」
耳に入ってきた言葉を、頭が処理するのに時間がかかった。
「判断?」
「はい」
ロクスの琥珀色の瞳が、まっすぐこちらを見ていた。窓からの光が横顔を照らしている。表情はいつもと変わらない。でも——目の奥に、何かがあった。煽りじゃない。からかいでもない。
「聞かないことも、正しい判断です」
固まった。
聞かない。わたしが決めたこと。手袋の下の鱗のことも、瞳の金色のことも、聞かないと決めたこと。
——ロクスは知っている。わたしが気づいていることを。
気づいていて、聞かないことを選んだことを。
それを「正しい」と言った。この人が。いつも煽って、茶化して、距離を保つこの人が。
「え」
声にならない声が漏れた。
ロクスが微かに目を細めた。笑ったのではない。でも、何かが緩んだ。
「失礼。お気になさらず」
いつもの距離に戻った。声のトーンが半音上がって、普段のロクスに戻る。棚の整理の手が再開して、本の背が棚板を擦る音が静かに響いた。何事もなかったかのように。
わたしは、まだ固まっていた。
褒められた。この人に。
煽りでも皮肉でもなく、まっすぐに。「正しい」と言われた。
喉が詰まった。何か言わなければいけない気がした。でも何を言えばいいのか分からない。「ありがとう」はもう言った。「うん」は軽すぎる。黙っているのも変だ。
結局、口から出たのは全然違う言葉だった。
***
「お茶、もう一杯もらっていい?」
ロクスが振り返った。
「はい。ちなみに、三杯目ですが」
——要は「飲みすぎ」。うるさいな。飲みたいから飲むの。
「三杯目で何か問題ある?」
「何も。強いて申せば、お手洗いが近くなることくらいでしょうか」
「それは言わなくていい情報だよ」
お茶が来た。温かい。湯気が立ち上って、書斎の乾いた空気に溶けていく。カップを両手で包むと、指先に温度が移る。秋の午後の光がお茶の表面に映って、小さな金色の円を作っていた。
一口飲んだ。いつもの味だ。でも、何かが違う。お茶が、じゃない。空気が。
言葉にするのは難しい。硬かった何かが、少しだけ柔らかくなったような。ロクスとの間にある透明な壁——あるのかないのか分からないくらい薄い壁が、ほんの少しだけ薄くなったような。
気のせいかもしれない。でも、気のせいだとしても、嫌じゃなかった。
書斎を出る時、ロクスの声が聞こえた気がした。小さな、独り言のような。
振り返ったら、ロクスは窓の外を見ていた。秋の午後の光が、灰銀色の髪を柔らかく照らしている。
「何か言った?」
「いえ。独り言です」
わたしは——たぶん、聞かなくてよかったんだと思う。
聞かないことが正しいかどうかは、まだ分からない。でも今日の選択を、ロクスが「正しい」と言ってくれた。それだけで、今は十分だった。
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