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辺境令嬢と、退屈知らずの執事  作者: 猫野ひかる
第5章「半年の答え合わせ」

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第98話「目を逸らさないで」

 その日のロクスは、いつもと少しだけ違った。


 何が違うのかは、すぐには分からなかった。


 右手の白手袋を、いつもの三倍は直していた。それだけだったのに。


 書斎で書類の整理をしていた。ロクスが新住民の受け入れ計画をまとめた報告書を持ってきた。木板ではなく紙。ラディスに提出する正式な書面だ。


「こちらが修繕の進捗と、食糧備蓄の再計算です」


 報告書を受け取る時だった。


 ロクスの右手が伸びてきた。紙の端を持った指先。白い手袋。


 手袋の端が——ずれた。


 手首に、何かが見えた。


 一瞬だった。ランプの光が揺れて、白い手袋の端と手首の肌の境目に——模様。いや、模様とは違う。肌の色ではないもの。鱗のような、硬そうな、光を微かに反射する何か。


「ロクス、手——」


 口が先に動いた。


 ロクスの手が引っ込んだ。速かった。報告書をわたしに渡しきる前に、もう右手は背中の後ろに回っていた。左手だけで紙を差し出す。


「ああ、失礼。手袋が緩みまして」


 左手で右手の手袋を直す。端をきちんと整えて、袖口の下に隠す。いつもの動作。いつもの声。


 でも——見た。一瞬だけれど。


 鱗のように見えた。目の錯覚かもしれない。ランプの光の加減かもしれない。でも、確かに見た。肌の色じゃなかった。硬くて、光を反射していた。


「ロクス」


「はい」


「いや、なんでもない」


 なんでもなくない。でも、何を聞けばいいのか分からなかった。「手首に何かついてない?」とは聞けない。聞いたら——何が返ってくるか、怖い。心臓が速く打っている。さっきの一瞬が、まぶたの裏に焼きついている。


 報告書を受け取った。紙の擦れる音が、静かな書斎にやけに大きく響いた。ランプの光がちらちら揺れている。秋になって日が短くなった。午後の早い時間からランプが必要になる。


 ロクスはいつも通り書斎に立っていた。背筋が伸びて、表情は穏やかで、何一つおかしいところがない——ように見える。でも右手の手袋を、無意識のように直し続けている。


 焼け焦げた薬草の匂いは、もう工房から消えていた。修繕が進んで、新しい木の匂いがそこらじゅうに漂っているらしい。でも今この書斎には、紙とインクの匂いしかない。それが妙に物足りない。


***


 夜中に目が覚めた。


 喉が渇いていた。秋の空気が乾燥してきて、夜中に水が欲しくなることが増えた。


 裸足で部屋を出た。石畳の廊下が冷たい。足裏から冷気が這い上がってくる。窓から入る秋の夜風が、薄い寝間着を通り抜けて肌に触れた。


 台所に向かう途中、廊下の角を曲がったところで——ロクスとすれ違った。


「お嬢様。こんな時間にどちらへ」


「水を飲みに。ロクスこそ」


「屋敷の見回りです。このところ物騒ですので」


 暗い廊下だった。ランプは壁に一本だけ。ロクスの背中側に掛かっている。つまり、ロクスの顔は逆光になっている。


 その時だった。


 ロクスの瞳が光った。


 琥珀色の瞳が——金色に。暗い廊下の中で、ランプの光が届かないはずの位置で、瞳だけが金色に輝いていた。猫の目のように光るのとは違う。瞳そのものが内側から光っているような。


 息を呑んだ。足が止まった。石畳の冷たさが急に遠くなった。


「前から気になってたんだけど」


 声が出た。自分でも驚くほど、平坦な声だった。


「あんたの目、たまに光らない?」


 ロクスが一拍置いた。


 一拍。いつものロクスなら即座に返す。冗談でも、煽りでも、事実の説明でも。ロクスの返答に間が空くことは、ほとんどない。


「ランプの反射でしょう。廊下は暗いですから」


 嘘だ。


 ランプは背中側にある。反射じゃない。わたしは理系じゃないけれど、光の方向くらいは分かる。背後から光が当たっているなら、正面の瞳には光源が映るはずがない。


 でも——追及する言葉が出なかった。


 ロクスの金色の瞳が、静かにこちらを見ていた。光は消えていた。元の琥珀色に戻っている。暗い廊下で、二人の間に冷たい空気が流れている。窓の外で風が木の枝を揺らす音がした。


「水を汲んでまいります。お部屋でお待ちください」


「いい。自分で行く」


「お嬢様」


「自分で行くって言ってるの」


 ロクスの横を通り過ぎた。すれ違う時、ロクスの右手が手袋を直すのが視界の端に映った。


 台所で水を汲んだ。井戸水を陶器のコップに注ぐ。冷たい水が喉を通り過ぎていく。体温との差が胸の奥まで沁みた。水を飲み込む音が、静まりかえった台所に響く。


 手が震えていた。水面が揺れて、コップの中で小さな波が立つ。陶器の縁が歯にかちりと当たった。


 何が怖いのか分からない。それでも、手が止まらなかった。


***


 部屋に戻って、布団に入った。


 眠れなかった。


 天井を見つめた。窓から入る秋の夜風が、カーテンの端を揺らしている。布団の中はまだ冷たくて、体温が行き渡るまで時間がかかる。足先が冷えている。


 ミケが足元で丸くなっていた。小さな体の温もりが、足首のあたりに触れている。猫の寝息と、微かなゴロゴロという喉の音が聞こえる。規則正しくて、穏やかで、何も心配していない音。


 考えた。


 手袋の端の、鱗のようなもの。


 瞳の金色。


 動物が怖がること。馬が後ずさりして、鳥が逃げて、ミケだって最初は近づかなかった。


 ペトラが言っていた。ロクスが夜遅くに屋敷を出ること。


 工房の夜、ロクスが先に来ていたこと。一人で消火して、傭兵を追い払って、かすり傷だけ。


 白手袋の赤い染み。


 全部繋がる。何に繋がるのかは分からないけれど、線が見える。一本ずつ引いたら、どこかの一点で交わりそうだ。


 ロクスは何かを隠している。


 それは確かだった。確信に近い。手袋の下には、普通じゃない何かがある。瞳が光るのは、ランプの反射じゃない。


 でも。


 聞いたら変わる。聞かなければ、今のままでいられる。今のこの距離が。ロクスが毎朝お茶を淹れてくれて、煽ってきて、わたしが文句を言って、書類を整理して。その日常が。


 どちらがいいのか、分からなかった。


 聞くべきだ。理屈ではそう思う。隠し事があるなら向き合うべきだ。でも——理屈で動けないことがある。頭では分かっている。でも体が動かない。口が開かない。布団の中で、両手をぎゅっと握った。爪が掌に食い込む感触が、やけにはっきりしていた。


 明日、ロクスに会ったら。


 聞こうか。聞くべきだ。——でも。


 聞いたら変わる気がする。今のこの距離が、壊れる気がする。


 ミケが、にゃあ、と鳴いた。


「うん。わたしも分からない」


 猫に相談しても答えは出ない。でも、隣に温かいものがいるだけで、少しだけ息がしやすくなる。


 窓の外が白んでくる前に、いつの間にか目を閉じていた。

お読みいただきありがとうございました!


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