第97話「嬉しいのに、困る」
人が来る、と聞いた時、まず思ったのは「嬉しい」だった。
次に思ったのは「どこに住むの?」で、その次は「何を食べるの?」だった。
——受け入れ態勢、全然ない。
翌朝、屋敷の玄関に立っていたのは、二組の家族だった。一組は農家崩れの夫婦と年配の母親。もう一組は木工職人の男と、幼い娘が一人。娘は父親の脚にしがみついて、大きな目でこちらを見上げている。
荷物は少なかった。布袋が二つに、使い込まれた道具箱が一つ。道具箱を地面に下ろした時、中の工具がかちゃりと鳴った。土埃がうっすり積もっている。遠くから歩いてきたのだろう。靴底が擦り減って薄くなっていた。木工職人の娘がこちらを見上げたまま、父親の脚を離さない。小さな手が布地をぎゅっと握っている。
「ようこそカルセド領へ。歓迎いたしますわ」
令嬢モードで微笑んだ。完璧な笑顔のつもりだ。
内心は「歓迎する余裕がない。でも追い返せない。追い返さない」で渋滞していた。
「カルセド領が存続すると聞きまして。こちらで働き口はありませんでしょうか」
農家崩れの夫が、帽子を胸に当てて言った。声が低い。緊張しているのだ。この人たちも、必死なのだ。
「もちろんです。お話をお聞かせくださいますか」
笑顔を保ったまま、ロクスを横目で見た。ロクスはいつも通りの無表情——いや、口元がかすかに上がっている。
「お嬢様、正確には、お嬢様の計画が想定以上に早く成果を出した結果、準備が追いつかないということですね。大変結構なことです」
「結構じゃないよ! 住む場所ないの!」
令嬢モードが一瞬で剥がれた。農家の夫婦が目を丸くしている。木工職人の娘が「おねえちゃん、おこってる?」と父親に聞いた。怒ってない。焦ってるだけだ。
落ち着いてから、改めて話を聞いた。農家崩れの夫婦は隣領の小作を辞めたという。木工職人の男は、使い込んだ道具箱を撫でながら口を開いた。
「前はガレドの商会の下請けで、木箱を作っておりました。半年前までは安定していたんですが——急に条件が変わりまして。支払いが遅れるようになって、納品数を倍にしろと」
断ったら切られた、と男は淡々と言った。うちだけじゃない、周りの職人も何人か離れている、と。
ガレド。その名前に、一瞬だけ意識が引っかかった。因果応報。——それより、この人の娘さん、上着が薄い。秋風が冷たくなってきたのに。
「左様でございますか」
ロクスが一言だけ返して、手袋を引き直した。それ以上は何も言わない。
木工の経験がある。ということは、空き家の修繕を頼めるかもしれない。目の前の問題が一つ、形を変えた。人手不足が、人手に変わる。
***
書斎に戻って、木板を広げた。窓から差し込む秋の日差しが、机の上に薄い四角を描いている。
まず屋根。次に飯。仕事は春からでいい。冬を越すのが先だ。
人が増えるのは喜ばしい。でも受け入れ側の負荷は確実に上がる。歓迎する気持ちと、やりくりの不安が同時に来る。
空き家は三軒ある。でも屋根が抜けている家が二軒。まともに住めるのは一軒だけ。冬までに残り二軒の修繕を終わらせないと、越冬できない。
「木材は工房の修繕分と合わせてダーヴォに頼みましょう。食糧は備蓄の再計算が必要です」
ロクスが木板に数字を書き込んでいく。炭筆がさらさらと木の表面を滑る音がする。秋の光が窓から差し込んで、木板の上に四角い影を落としていた。
「あと、仕事の割り振り。農家崩れの方は畑に入ってもらえる。木工職人の方は——修繕をお願いできるかもしれない。技術がある人が来てくれたのは助かる」
「成功の代償を記録しておきます」
ロクスが新しい木板を取り出した。表に「成果と課題」と書いている。
「記録するな」
「後世の参考になるかと」
「後世じゃなくて今を助けて」
——要は「また仕事が増えたな」を上品に言っただけだ。記録するなって言ったのに、もう書き始めている。
木板に炭筆を走らせた。優先順位を整理する。一番目、住居の修繕。二番目、食糧備蓄の再計算。三番目、冬季の暖房用の薪の確保。四番目、新住民の仕事の割り当て。
書き出してみると、いける気がした。一つ一つは大きな問題じゃない。ただ、全部を同時にやらないといけないのが辛い。
炭筆を置いて、指を組んだ。関節がこきりと鳴った。最近、こうやって考え込む時間が増えた。半年前は考える材料すらなかったのに。
「ロクス、木工職人の方に修繕を頼むなら、報酬はどうする?」
「住居の提供と食事を現物で。冬の間は領の共有事業として」
「それで納得してもらえる?」
「住む場所と食べるものを確保する。それが最優先だと理解している方々です。条件に異論は出ないかと」
ロクスの声は穏やかだった。窓の外の畑を見つめながら、淡々と話す。秋の畑は収穫を終えて土が見えている。来年の春には、この畑をもう少し広げないといけない。人が増えるということは、食べる口が増えるということだ。
炭筆の先が丸くなってきた。小刀で削りながら考える。炭の粉が指先について、黒い筋がついた。拭こうとして、袖口で拭いてしまった。令嬢としては最悪の所作だけれど、今は気にしている場合じゃない。
***
午後遅くになって、ロクスが書面を持ってきた。
封蝋で閉じられた手紙。蝋の色は深い赤。紋章は——見覚えがある。
「ガレド殿からの書面です」
ロクスの声が、一段階事務的になった。
封を切った。指先に蝋の欠片が残った。紙が上質だった。手触りが滑らかで、厚みがある。こういう紙を使える人間だ、あの商人は。インクの匂いがした。良い紙に良いインクを使っている。金持ちの商人の余裕が、紙の質に滲んでいた。こちらが木板と炭筆で必死にやりくりしている間に、あちらは上質な紙に滑らかなインクで上訴状を書いている。腹が立つ。
内容は短かった。
——上訴手続きの完了通知。一審判決への不服申し立てを、王都の上級裁判所に正式提出。
「一つ解決すると、次が来る」
声に出した。木板を机に置いた。ガレドの書面を、その横に並べた。
物資封鎖。工房放火。そして上訴。あの商人は、何重にも手を打ってくる。一つ潰されたら次の手を出す。執拗で、しつこくて、金がある。
でも。
「前よりは、怖くない」
声に出して、自分の声を聞いた。震えていない。
自分でも不思議だった。半年前にラディスの名前を聞いた時は足が震えた。ガレドの訴状が届いた時は目の前が暗くなった。でも今は——怖くないわけじゃない。怖いけれど、震えない。手が動く。頭が動く。次にやることが見える。
「上訴の答弁は、一審の時の記録を基にすればよいかと。新たに作る必要はありません」
ロクスの声が、静かに返ってきた。
「そうだね。あの時の木板、全部残してある」
木板の山を思い出した。あの訴訟の準備で書き散らした記録。捨てなくてよかった。過去の自分が、未来の自分を助けてくれることもある。
ガレドの書面を片づけた後、ふとロクスの手元を見た。白手袋の端に、まだ洗い切れていない染みが残っている。
——あの夜のことを、ちゃんと聞いた方がいいのかもしれない。
でも、聞いたら何かが変わる気がして。
窓の外で、風が枯れ葉を散らしていた。秋が深くなっている。冬が来る前に、やることが山ほどあった。
でも——不思議と、それが嫌じゃなかった。やることがあるのは、守るものがあるということだから。
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