第96話「お茶にしましょうか、と彼は言った」
朝の光の中で見ると、工房の被害は想像より小さかった。
壁の一面が黒く焦げ、乾燥棚が二つ倒れ、薬草の束が燃えた匂いが残っている。
——全部は、壊れなかった。
焦げた木の表面に手を当てた。昨夜はまだ熱を帯びていたけれど、今はもう冷たい。表面の炭がぱらぱらと剥がれて、指先が黒く汚れた。黒い粉が爪の間に入り込む。こすっても取れない。半年分の作業の痕跡とは違う種類の、嫌な汚れだった。
朝日が壁を照らすと、焼け跡の輪郭がはっきり見えた。黒い部分と、焼けていない茶色の木の境界線。ここまで来て、ここで止まったのだ。
「土壁の仕切りが、よく持ちましたね」
ロクスが壁の向こう側を確認しながら言った。仕切りの表面に煤が薄くこびりついているけれど、ひび割れはなかった。その向こうの乾燥棚は無傷で、薬草の束がきちんと並んでいる。グリムが毎日確認してくれていた、大事な棚。
「壁一面と乾燥棚が二つ。薬草の損失は全体の一割以下です。修繕に必要な木材と土壁材は、三日あれば調達できます」
ロクスが淡々と報告する。いつもの声。いつもの口調。朝の冷たい空気の中で、白い息がかすかに立ち上っている。秋が深くなっている。朝の工房はもう、上着なしでは肌寒い。
でも、声がほんの少し低い。昨夜からずっとそうだ。半音とまではいかない。気のせいかもしれない程度の——でも、わたしには分かる低さ。
焼け焦げた薬草の匂いがまだ残っていた。甘さの消えた苦い匂い。鼻の奥にまとわりつくように染みて、息をするたびに思い出す。半年かけて作ったもの。壊しに来た人がいる。
「修繕の手配を進めましょう。ロクス、木材はダーヴォに頼める?」
「既に朝一番で伝書を出してございます」
「早い」
「お嬢様が起きる前に出しました。効率の問題です」
いつも通りだ。いつも通りのはず。でも、ロクスの右手がまた手袋を引き直した。左手で、右の手袋の端をつまんで。
見なかったふりをした。
***
屋敷に戻って、応接間でラディスと向き合った。
机の上に、あの革袋を置いた。刻印を上にして。ラディスの視線が革袋に落ちる。ペンを持つ手が、一瞬だけ止まった。
「昨夜、薬草工房が放火されました」
声は震えなかった。昨夜はさすがに震えたけれど。肩に力が入っているのが自分でも分かる。背筋を伸ばした。令嬢の姿勢を作る。怒りは中にしまう。
「この革袋が現場に残されていました。刻印は——ガレド殿の取引先のものです」
ラディスが革袋を手に取った。刻印を指でなぞる。表情は動かない。いつも通り事務的な目。
「ガレドの仕業でしょ」
思わず口に出た。令嬢モードを忘れている。隣のロクスがかすかに目を細めた。
「断定は控えましょう。ただ、革袋の刻印がガレド殿の取引先のものであることは事実です」
「それ断定してるのと同じでしょ」
「事実を並べただけです」
——わたしの代わりに断定してくれる気はないらしい。
ラディスがペンを置いた。「調査はします」と言った。それから一拍。「ただ、これだけでは」
「証拠が必要、ですね」
先回りして答えた。ラディスの目が、ほんの一瞬だけ動いた。驚いたわけではない。何かを値踏みするような、確かめるような視線。
「評価期間中の妨害行為として記録いたします。書面でまとめてお出しください」
書面。はい。事実だけ書く。推測は入れない。証拠を並べて、判断はラディスに委ねる。
内心で段取りを組み立てた。事実と推測を分けて報告する。「何が起きたか」「何が残っていたか」「何が分からないか」。三つに分ければいい。推論は書かない。書いたら隙になる。
「証拠をお確かめいただければ」
令嬢モードに切り替えた。完璧な微笑み——のつもりだった。
内心は全然違う。証拠ならもっとある。ガレドの物資封鎖の時系列、傭兵の靴跡の大きさ、革袋の刻印の製造元。でもここで全部出したら手の内がバレる。チラ見せで留める。
ラディスが立ち上がった。椅子の脚が床を擦る音がした。「近日中に報告書の提出を」と言い残して、応接間を出ていく。背中は最後まで真っ直ぐだった。あの人はいつだってそうだ。感情が読めない。
ペトラが玄関まで案内する足音が遠ざかっていった。
***
応接間に二人きりになった。
窓の外から秋の風が入ってきた。冷たい空気の中に、かすかに枯れ草の匂いが混じっている。季節が動いている。半年前にここに来た時は春だった。
ラディスが座っていた椅子を見つめた。さっきまでの緊張がゆっくりと抜けていく。伝えるべきことは伝えた。あとは書面を書いて、証拠を整理して、ラディスの判断を待つ。
でも待つだけじゃない。修繕もある。新しい乾燥棚も作らないと。ガレドの上訴もまだ終わっていない。一つ片づけたら次が来る。いつもそう。
「お茶にしましょうか」
ロクスの声が、考え事を遮った。
「戦略は温かい飲み物とともに、です」
——要は「落ち着け」。まあ、落ち着いた方がいいのは確か。
「この状況でお茶の話するの、ある意味すごいと思う」
「お茶は状況を選びません。お嬢様が選ぶべきは、次の一手です」
いつものお茶煽り。でも——声が、やっぱりいつもより少し低い気がする。
ロクスが手際よくお茶を淹れた。湯気が立ち上る。薬草茶の、枯れ草と花が混じったあの香り。カップが机に置かれる小さな音。陶器と木の、かちりという控えめな接触音。
一口飲んだ。温かい液体が喉を通って、体の芯まで下りていく。肩の力が抜ける。お茶にこういう効果があるのか、それともロクスが淹れるお茶にだけあるのか、よく分からない。
「次の一手、ね」
木板を引き寄せた。炭筆を握る。修繕計画、書面の作成、ガレドへの対策。書き出すと、意外と整理できる。手が動くと頭も動く。
お茶を飲み終えた頃、ロクスが何気なく言った。
「そういえば、下流の集落で噂が広がっているようですね。カルセド領が存続したと」
「いい噂?」
「住みたいという人がいる、と」
——え。今? このタイミングで?
炭筆が止まった。握っていた手が、ゆっくりと机に下りる。
嬉しいはずだ。人が来るのは嬉しい。半年前は誰もいなかった場所に人が来たいと言ってくれている。それは——すごいことのはずだ。
でも。
「住む場所、ある?」
「現状ではありません」
「食糧は?」
「人数分には足りておりません」
「……受け入れ態勢、全然ないじゃない」
嬉しいのに困る。成功したはずなのに、また問題が増える。
いつものことだった。
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