第95話「炎と影と、それから」
目が覚めたのは、煙の匂いだった。
窓の外が赤い。遠くに、炎が見える。
——薬草工房の方向だ。
体が動いていた。布団を蹴って起き上がる。裸足のまま廊下に飛び出した。石の床が足裏に刺すように冷たい。
「ロクス!」
叫んだ。返事がない。
彼の部屋の前を通る。扉が開いていた。中にはいない。
玄関に走った。扉が開いている。夜の冷気が一気に流れ込んできた。吐く息が白い。
外に出た。空の一角が赤く染まっている。煙が風に流されて、焦げた匂いが鼻の奥を刺す。木が燃える匂い。それに混じって、薬草の——乾燥させた草が一気に燃えた時の、甘くて苦い焦臭。
半年分の薬草が、あそこに。
走った。道を覚えている。夜だけど、赤い光が方向を教えてくれる。
***
工房に着いた時、炎はほとんど消えていた。
息が上がっていた。裸足の足裏が痛い。石を踏んだのか、何か尖ったものを踏んだのか、感覚が曖昧になっている。走っている間は気づかなかった痛みが、立ち止まった途端に押し寄せてくる。
壁の一面が黒く焼け焦げている。木の柱が一本、半分まで炭になっていた。屋根の端が崩れかけている。でも——全壊ではなかった。
土壁の仕切りがあった。あれが延焼を防いだのだ。仕切りの向こう側——乾燥棚がある区画は無事だった。
ロクスが、工房の前に立っていた。
「お嬢様。遅くまでお疲れのところ、申し訳ございません」
息が上がっていなかった。いつも通りの丁寧な口調。でも——
声が低い。いつもより。
「ロクス。何が」
「放火です。消し止めました」
「一人で?」
「到着した時には、火はまだ壁の一面だけでした。土壁の仕切りが延焼を防いでくれたおかげで、消火は間に合いました」
間に合った。間に合ったのか。
「犯人は」
「傭兵崩れと思われる者が二名。逃げました」
逃げた。ロクス一人の前から、二人の傭兵が逃げた。
——おかしくないか。
その疑問が頭をかすめた。でも、今はそれどころではなかった。
工房の壁に近づいた。焼け焦げた木の表面に手を伸ばす。まだ熱い。指先に炭の粒が触れた。ざらざらした感触。壁が黒く変色して、木目が消えている。
焼けた木と薬草が混じった匂いが、鼻の奥にこびりつくようだった。甘さが消えて、ただ苦いだけの焦げた匂い。
「乾燥棚は」
「無事です。仕切りの向こう側は煙が入った程度で、実害はありません」
足がふらついた。安堵で力が抜けたのだ。壁に手をついた。焦げた木の表面がまだ温かい。
***
地面に、足跡が残っていた。工房の周囲の柔らかい土に、複数の靴跡。大きい。重い靴。
「ここに」
ロクスが地面の端を指した。革袋が落ちていた。中身は空だった。だが、袋の表面に刻印がある。
ランプの光を近づけた。ロクスが持っていた松明——いや、これは消火に使った水桶の横にあったものだ。
刻印のくぼみに指を当てた。見覚えがある紋様。
「これ、ガレドの取引先の」
「そのようですね」
ロクスの返答が、平坦だった。いつもなら「ほう」とか「興味深いですね」くらいは言う。今夜は、そういう装飾が一切ない。
革袋の皮の匂いがした。なめしが粗い。安物だ。刻印も雑で、縁がぎざぎざしている。
「ガレドが、傭兵を雇って」
「断定はできませんが、可能性は高いかと」
腹の底から、熱いものがせり上がる。歯を食いしばった。顎の筋肉が痛むほど強く。
半年かけて作ったものを、壊しに来た。物資を止めて、上訴して、それでも足りなくて——夜中に火をつけに来た。グリムが毎日品質を見てくれた乾燥棚。ハウゼと一緒に出荷の段取りを組んだ薬草。それを。
「ここまでするの」
声が震えた。怒りで。
ロクスは答えなかった。黙って、右手の白手袋を引き直した。左手で、右の手袋の端をつまんで、引く。それから——もう一度、引き直す。
いつもより多い。
右手だけを、何度も直している。
「ロクス。手袋をずっと直してる」
「ああ。火の近くで作業していたので、ずれたのでしょう」
目を凝らした。夜の闇の中で、松明の残り火がわずかに辺りを照らしている。
白手袋の端に、赤い染みがあった。
小さな染み。右手の手首に近い部分。白い布地に、赤。
「ロクス、手」
「ああ。かすり傷です。申し訳ありません、手袋を汚しました」
かすり傷。
——かすり傷で、あんなに手袋を直す?
聞きたかった。でも、ロクスの目がそれを許さなかった。琥珀色の瞳が、松明の残り光を受けて——一瞬だけ、金色に光った気がした。
風が吹いた。焼け焦げた壁の隙間から、まだ熱を帯びた空気が漏れている。煙の残りが地面を這って、足元をかすめた。喉がいがらっぽい。
気のせいだ。暗いから。火の光が反射しただけ。
気のせいだと、思うことにした。今夜はもう、気のせいにしておきたいことが多すぎる。
***
空が白み始めていた。
東の端から、薄い灰色の光が広がっていく。秋の夜明けは遅い。朝の冷気が肌を刺す。夜通し外にいた体が、ようやく寒さを思い出したように震えた。ロクスの吐く息が白い。わたしの息も白い。二人分の白い息が、冷えた空気の中で混じって消えた。
工房の前に立って、焼け焦げた壁を見上げた。一面だけ。一面だけで済んだ。乾燥棚は無事。半年分の薬草は残っている。
「半年かけて作ったものを壊しに来る人がいる」
声に出した。
「でも、壊れなかった。壊させなかった」
ロクスを見上げた。長身の執事は、夜明けの光の中でいつもより少しだけ顔色が白かった。
「ありがとう。先に来てくれて」
ロクスの返答が、いつもより一拍遅かった。
「——お仕えするのが、仕事ですので」
いつもなら、もっと早く返す。もっと軽く言う。今夜のロクスは——いや、もう今朝だ。今朝のロクスは、どこか重い。
「お嬢様。少し、休まれた方がよろしいかと」
ロクスの声はいつも通りだった。——声だけは。
右手の白手袋の、赤い染み。かすり傷。一人で消火して、傭兵を追い払って、かすり傷。
辻褄が合わない。でも、今はそれを追及する気力がなかった。お母様の追及の後で、工房の火事。一晩に二つも抱えたら、頭が回らない。
空が明るくなっていく。焼け焦げた壁に朝の光が当たって、黒い炭の表面が鈍く光った。
「修繕の手配を、今日中に」
「既に考えてございます」
「さすが」
さすがだけど、さすがすぎる。いつ考えたんだ。いつから来ていたんだ。
聞かなかった。
聞けなかった、のかもしれない。お母様の追及。工房の火事。ロクスの手袋の赤い染み。一晩で三つも抱えて、どれから向き合えばいいのか分からない。
屋敷への帰り道。秋の朝の空気が冷たくて、肺の奥まで染み込んだ。隣を歩くロクスの足音が、いつもと同じ間隔で、いつもと同じ重さで、石を踏んでいる。
ただ——右手だけが、何度も手袋を引き直していた。
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