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辺境令嬢と、退屈知らずの執事  作者: 猫野ひかる
第5章「半年の答え合わせ」

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第94話「目が笑っていない」

「本当にミレイアなの?」


 母の声は、いつもの社交的な甘さが消えていた。


 わたしは、笑い方を忘れた。


 扉の前に立つセラ——お母様の顔が、ランプの光に照らされていた。丁寧に結い上げた亜麻色の髪。淡い紫の瞳。きれいな顔立ちだ。でも今夜は、その目が笑っていない。


 花と柑橘の香水が、部屋に入り込んできた。この距離でようやく分かる控えめな濃さ。だけど今夜は、その甘さがやけに鮮明に感じられた。


「お母様。この時間に、どうされたんですか」


「座っていい?」


 断る理由がなかった。断りたかった。でも、この人の前で扉を閉じることが、わたしにはできなかった。


 お母様がベッドの端に腰を下ろした。寝台の木枠が、かすかに軋んだ。わたしは椅子に座ったまま。二人の間は、たった二歩分の距離。部屋の空気がランプの熱で温められている。その中に、花と柑橘の甘さが混じって漂っていた。


「ずっと気になっていたの」


 お母様の声が、静かに始まった。


「あなたの笑い方が変わった」


 心臓が縮んだ。


「前のあなたは、笑う時に口を手で隠していたわ。お行儀が良いからじゃない。恥ずかしがりだったから。人前で歯を見せるのが嫌だったの」


 知らなかった。前のミレイアの、そんな癖。


「今のあなたは歯を見せて笑う。口を隠さない。堂々としている」


 指先が冷たい。膝の上で拳を握った。


「料理もそう。前のミレイアは、包丁を持つのも怖がっていた。台所に入ることすらほとんどなかったのに、あなたは初めて台所に立った日に、包丁を握って野菜を切った」


 それは——前の世界の自分がやっていたから。手が覚えていた。いや、手が覚えていたのではない。わたしの魂が覚えていたのだ。


「口癖も違う」


 お母様の声が、一段低くなった。


「前のミレイアの口癖は『ごめんなさい』だった。何かあるたびに謝っていた。お父様に叱られる前に、先に謝る子だった」


 前のミレイア——この体の、本来の持ち主。


「今のあなたは謝らない。謝る代わりに、考える。黙って、何かを書き始める」


 息が浅くなっていた。肋骨の内側が締まるように詰まって、うまく吸えない。膝の上の拳を、もう片方の手で押さえた。震えを止めるために。


 全部、正しい。


 一つ一つが正確な観察で、反論できる余地がどこにもない。この人は、母だ。何年もミレイアを見てきた人だ。誰よりも近くで、あの子の笑い方も、怖がり方も、謝り方も見てきた。


「ですわ、という言い方も不自然だった。前のあなたは、もっと自然に使っていた」


 ——それは、前にも指摘された。あの夜、お母様がランプの下で首を傾げたときと同じ言葉だ。


 記憶を混ぜるな。あのときの自分と、今の自分を。


「お母様」


「待って。もう少しだけ」


 お母様の指先が、わたしの頬に触れた。冷たい。夜気に冷えた指。でも、触れ方は優しかった。


「目が変わった。前のミレイアは、怯えた目をしていた。いつも何かに怯えていた。でも今のあなたの目は——怯えていない」


 ランプの芯がぱちりと爆ぜた。小さな火の粉が一瞬だけ浮いて消えた。


***


「わたしが聞きたいのは一つだけ」


 お母様の声が震えた。社交的な甘さが完全に剥がれた、素の声。


「あなたは、本当にミレイアなの?」


 部屋が静かだった。ランプの炎が揺れる音。窓の外の風が屋根をかすめる音。それだけ。


 何か言わなくては。


 「ごめんなさい」——その言葉が、喉元まで上がってきた。


 でも。


 その言葉は、前のミレイアの口癖だ。


 今のわたしが「ごめんなさい」を言ったら、お母様はどう思うだろう。前のミレイアが戻ってきたと思うだろうか。それとも——「やっぱり違う」と確信するだろうか。


 言葉が詰まった。喉の奥に何かがつかえている。息を吸い直す。ランプの炎が揺れて、お母様の影が壁の上で大きく動いた。


「わたしは、ミレイアです」


 嘘ではない。この体はミレイアのものだ。この名前はミレイアの名前だ。この場所でミレイアとして生きている。


 でも、全部は話せない。


 お母様の瞳が、わたしを映していた。淡い紫の瞳が、ランプの光で揺れている。信じているのか。信じていないのか。


「前のわたしとは、変わったところがあると思います。でも——わたしは、ミレイアです」


 お母様は何も言わなかった。


 長い沈黙が落ちた。ランプの芯がまた小さく爆ぜた。窓の外で、風が木の枝を揺らした。


「あなたが誰であっても」


 お母様の声が、かすれた。


「わたしは、あなたの母なのよ」


 ——これは追及なのか。受容なのか。


 お母様の目が潤んでいた。淡い紫の瞳に、ランプの光が溶けている。泣いてはいない。でも、一歩手前だった。


 わたしは答えられなかった。何を言っても、足りない気がした。


***


 長い沈黙の後、お母様が立ち上がった。


「そう」


 一言だけ。


 信じていない。でも、追及をやめた。「信じた」からではない。「今は聞かない」と決めたのだ。この人は——母として、そう選んだ。


 お母様の指先が、一瞬だけベッドの縁を握った。すぐに離した。その仕草がひどく小さくて、目を逸らしていたら見逃すほどだった。


 扉に向かうお母様の背中を見つめた。丁寧に結い上げた髪の後ろ姿。衣服の裾が床をかすかに擦る音。背筋はまっすぐだった。この人は、揺れていても姿勢を崩さない。わたしの令嬢モードの手本は、たぶんこの背中だ。


「お母様」


 呼び止めた。何を言うつもりかも分からないまま。


「ありがとうございます。話を、聞いてくれて」


 お母様は振り向かなかった。小さくうなずいただけだった。扉が閉まる。廊下を遠ざかる足音。花と柑橘の香水の残り香が、部屋の空気にしばらく漂い続けた。


 わたしは動けなかった。椅子に座ったまま、膝の上の拳を見つめた。力を入れすぎて、爪の跡が掌に残っている。指を一本ずつ開くのに、妙に時間がかかった。


 部屋の空気が、少しだけ冷えた気がした。お母様がいた時はランプの熱と二人分の体温で温まっていたのだ。今は一人分の温度しかない。花と柑橘の香りも、もうほとんど消えかけている。


 ミケが布団の上に飛び乗ってきた。にゃあ、と短く鳴いた。


「うん。わたしは、ミレイアだよ」


 ——誰に言ったんだろう、これ。ミケに。自分に。それとも、もういないあの子に。


 涙が出そうになった。堪えた。唇を噛んで、天井を見上げた。


 ランプの光が天井に影を作っている。低い天井。染みが一つ。


 わたしはミレイアだ。嘘ではない。でも、全部ではない。


 その半端な真実を抱えたまま、この家で生きていく。お母様の目を見て、ロクスの隣に立って、ラディス様の前で令嬢を演じて。


 窓の外で、何かが光った気がした。


 遠くに——赤い光。


 見間違いだろうか。目を凝らしたけれど、もう見えなかった。秋の夜は暗い。ランプの光に慣れた目は、遠くのものを拾えない。


 気のせいだ、と思い込むことにした。


 今夜はもう——これ以上、何かを考える余裕がなかった。

お読みいただきありがとうございました!


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