第93話「五十二点のわたしたち」
一睡もできなかった。
朝食のパンが喉を通らなくて、ロクスが出したお茶だけをすすった。
「ラディス殿が、応接間へ」——ペトラの声が、やけに遠く聞こえた。
ペトラが小さくうなずいてから扉を閉める。足音が廊下の向こうに消えていく。
鏡は見なかった。見たら令嬢モードが崩れる気がした。背筋だけ伸ばして、応接間に向かう。廊下の石畳が足裏に冷たい。秋の朝の空気が、首筋をなぞるように流れていった。
***
ラディスは応接間の椅子に座っていた。手帳を開いてもいない。卓の上には、羊皮紙が一枚。公式印の朱色が、秋の朝の光に鮮やかだった。
「ミレイア嬢。結論から申し上げます」
ラディスの声は、昨日と同じく平坦だった。
わたしの指先が冷たい。ロクスが隣に立っている気配だけが、かろうじて地面につなぎとめてくれていた。
「取り潰し勧告は、見送ります」
一瞬、意味が分からなかった。
——見送る。見送る?
心臓が暴れた。胃の底がふわりと浮いた。膝の力が一瞬抜けて、慌てて踏ん張った。指先がしびれている。手を握りしめて、それを隠した。令嬢モードを維持しろ。ここで崩れるな。
ロクスが微かに姿勢を正した気配があった。でも振り返らない。今、隣を見たら泣きそうだ。
「ありがとうございます」
声が震えなかった。奇跡だと思う。
「ただし」
来た。
「一年間の猶予期間を設けます。改善の方向性は認めますが、速度が王国基準に照らして不十分です。一年後に再評価を実施し、その時点で基準を満たしていなければ勧告に進みます」
一年。
新しい期限。
「改善報告書を四半期ごとに提出してください。様式は追って通知します」
「承知いたしました」
令嬢モード、持っている。たぶん。声は震えてないはず。
「ガレドの件についても、調査の対象に含めます。上訴手続き中とのことですが、物資の流通に不当な制限が確認された場合は、そちらも報告に含めることになります」
——ガレドの件も、ラディス様の手が入る。これは、良いことなのか悪いことなのか。
「ご報告いただいた数字は確認しました。変化の速度については、認めるべき点があります」
認める。ラディスの口から、その言葉が出た。
「ただし、絶対値が基準を下回っている事実は変わりません。方向性と速度は評価しますが、結果が伴わなければ猶予の延長はありません」
ラディスの声は淡々としていた。感情がない、というのとは違う。感情を出す必要がないと判断しているだけだ。この人にとって、評価とは事実の確認であって、励ましでも叱責でもない。
——要は「伸びてるのは分かった。でもまだ足りない。一年で数字を出せ」。厳しい。でも、公平だ。
「お気持ちは理解しております。精一杯の努力をお約束いたします」
「期待しています」
ラディスの表情は変わらなかった。期待。この人の口から出る「期待」は、催促なのか応援なのか見当がつかない。
***
ラディスが立ち上がった。
卓の上のお茶。ロクスが今朝淹れたもの。昨日は手をつけなかった。
ラディスの手が、カップに伸びた。
一口。
飲んだ。
「次は、もう少し高い数字を期待します」
——要は「まだ足りない。もっとやれ」。
でも。
「期待します」って、言った。この人が。
お茶を一口飲んで、「期待します」と。前に一口飲んでくれた時は、「方向性は認める」と言った。今回は「期待します」。
何が違うんだろう。期待の量が増えたのか。それとも催促の強さが増しただけなのか。
カップに残ったお茶の水面に、窓からの光が揺れていた。ラディス様の唇が触れた縁。そこだけ、ほんの少し温度が違う気がした。
分からない。でも、お茶は飲んでくれた。
ラディスの革靴が玄関の石畳を叩く音を聞きながら、わたしは応接間の椅子に座ったままだった。お茶のぬるい残り香が、まだ部屋に漂っている。
ロクスが玄関から戻ってきた。
「お見送りしてまいりました」
「うん」
返事が一言になった。令嬢モード、解除。力が抜ける。
***
「ロクス」
「はい」
「取り潰し、回避した」
「はい」
「一年の猶予がついた」
「はい」
「また期限が増えた」
「そのようですね」
わたしは椅子に深く座り直した。背もたれに体を預ける。秋の夕暮れの光が窓から差し込んで、応接間を琥珀色に染めていた。ラディスが飲んだカップがまだ卓の上にある。
「採点する。評価結果、五十二点」
「五十二点」
「ギリギリ赤点回避。赤点は五十。二点しか余裕がない」
「合格点を超えたことは事実です。お嬢様の自己評価の厳しさには敬服しますが」
「敬服しなくていいから、もうちょっと喜んでくれない?」
「喜んでおりますよ。お茶のおかわりはいかがですか」
「喜び方がお茶なんだ」
でも、うなずいた。ロクスが応接間を出て、すぐに新しいカップを持って戻ってきた。湯気が立っている。温かい。
五十二点。半年前は——あの時自分で採点したのは三十二点だった。その前に自暴自棄で十二点をつけた日もあった。それが五十二。数字は、確かに上がっている。
いや。半年前はゼロだったかもしれない。何もなかった。加工場もなかった。ハウゼとの関係もなかった。交易ルートもなかった。ゼロからの五十二点。成長率だけなら、百点でしょ。
——でも、成長率じゃ食べていけない。絶対値が要る。ラディス様はそう言った。
お茶を一口飲んだ。舌の上にほんのり渋みが残って、頭が少しだけ冴える。
「また一年、走るのか」
「走ってまいりましょう」
「走るの、わたしなんだけど」
「はい。お供いたします」
——要は「一人で走らせはしません」。そう受け取ってもいいんだろうか。いいことにする。
窓の外に目をやった。秋の空が赤く染まっている。夕暮れの風が涼しくなって、冬の気配がかすかに混じっていた。お茶のぬるい残り香がまだ応接間に漂っている。この匂いが消える頃には、もう次の四半期が始まっている。
一年。四半期ごとの報告書。次はもう少し高い数字を。
やることリスト、増えたなあ。
部屋に戻ったのは、日が完全に沈んでからだった。廊下の窓から見える空は、もう紺色に沈んでいる。最初の星が一つ、東の空に光っていた。
ミケが布団の上で丸くなっている。部屋に入った途端、耳だけがこちらを向いた。足元に擦り寄ってきた温もりが、妙にありがたかった。毛並みに指を通すと、喉がごろごろ鳴る。この子だけは、監査も採点も関係なく、ただここにいてくれる。
木板を取り出して、今日のことを書き留めた。条件付き猶予。一年。四半期報告。ガレドの件は調査対象。ラディス様のお茶、一口。
炭筆を置いた。木板を閉じて、ようやく布団に入ろうとした時。
廊下から足音が聞こえた。母の香水の匂い。花と柑橘が混ざった、甘くて少しだけ鋭い香り。
ノックの音。
「ミレイア。少し、話があるの」
——お母様。この時間に?
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