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辺境令嬢と、退屈知らずの執事  作者: 猫野ひかる
第5章「半年の答え合わせ」

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第93話「五十二点のわたしたち」

 一睡もできなかった。


 朝食のパンが喉を通らなくて、ロクスが出したお茶だけをすすった。


「ラディス殿が、応接間へ」——ペトラの声が、やけに遠く聞こえた。


 ペトラが小さくうなずいてから扉を閉める。足音が廊下の向こうに消えていく。


 鏡は見なかった。見たら令嬢モードが崩れる気がした。背筋だけ伸ばして、応接間に向かう。廊下の石畳が足裏に冷たい。秋の朝の空気が、首筋をなぞるように流れていった。


***


 ラディスは応接間の椅子に座っていた。手帳を開いてもいない。卓の上には、羊皮紙が一枚。公式印の朱色が、秋の朝の光に鮮やかだった。


「ミレイア嬢。結論から申し上げます」


 ラディスの声は、昨日と同じく平坦だった。


 わたしの指先が冷たい。ロクスが隣に立っている気配だけが、かろうじて地面につなぎとめてくれていた。


「取り潰し勧告は、見送ります」


 一瞬、意味が分からなかった。


 ——見送る。見送る?


 心臓が暴れた。胃の底がふわりと浮いた。膝の力が一瞬抜けて、慌てて踏ん張った。指先がしびれている。手を握りしめて、それを隠した。令嬢モードを維持しろ。ここで崩れるな。


 ロクスが微かに姿勢を正した気配があった。でも振り返らない。今、隣を見たら泣きそうだ。


「ありがとうございます」


 声が震えなかった。奇跡だと思う。


「ただし」


 来た。


「一年間の猶予期間を設けます。改善の方向性は認めますが、速度が王国基準に照らして不十分です。一年後に再評価を実施し、その時点で基準を満たしていなければ勧告に進みます」


 一年。


 新しい期限。


「改善報告書を四半期ごとに提出してください。様式は追って通知します」


「承知いたしました」


 令嬢モード、持っている。たぶん。声は震えてないはず。


「ガレドの件についても、調査の対象に含めます。上訴手続き中とのことですが、物資の流通に不当な制限が確認された場合は、そちらも報告に含めることになります」


 ——ガレドの件も、ラディス様の手が入る。これは、良いことなのか悪いことなのか。


「ご報告いただいた数字は確認しました。変化の速度については、認めるべき点があります」


 認める。ラディスの口から、その言葉が出た。


「ただし、絶対値が基準を下回っている事実は変わりません。方向性と速度は評価しますが、結果が伴わなければ猶予の延長はありません」


 ラディスの声は淡々としていた。感情がない、というのとは違う。感情を出す必要がないと判断しているだけだ。この人にとって、評価とは事実の確認であって、励ましでも叱責でもない。


 ——要は「伸びてるのは分かった。でもまだ足りない。一年で数字を出せ」。厳しい。でも、公平だ。


「お気持ちは理解しております。精一杯の努力をお約束いたします」


「期待しています」


 ラディスの表情は変わらなかった。期待。この人の口から出る「期待」は、催促なのか応援なのか見当がつかない。


***


 ラディスが立ち上がった。


 卓の上のお茶。ロクスが今朝淹れたもの。昨日は手をつけなかった。


 ラディスの手が、カップに伸びた。


 一口。


 飲んだ。


「次は、もう少し高い数字を期待します」


 ——要は「まだ足りない。もっとやれ」。


 でも。


 「期待します」って、言った。この人が。


 お茶を一口飲んで、「期待します」と。前に一口飲んでくれた時は、「方向性は認める」と言った。今回は「期待します」。


 何が違うんだろう。期待の量が増えたのか。それとも催促の強さが増しただけなのか。


 カップに残ったお茶の水面に、窓からの光が揺れていた。ラディス様の唇が触れた縁。そこだけ、ほんの少し温度が違う気がした。


 分からない。でも、お茶は飲んでくれた。


 ラディスの革靴が玄関の石畳を叩く音を聞きながら、わたしは応接間の椅子に座ったままだった。お茶のぬるい残り香が、まだ部屋に漂っている。


 ロクスが玄関から戻ってきた。


「お見送りしてまいりました」


「うん」


 返事が一言になった。令嬢モード、解除。力が抜ける。


***


「ロクス」


「はい」


「取り潰し、回避した」


「はい」


「一年の猶予がついた」


「はい」


「また期限が増えた」


「そのようですね」


 わたしは椅子に深く座り直した。背もたれに体を預ける。秋の夕暮れの光が窓から差し込んで、応接間を琥珀色に染めていた。ラディスが飲んだカップがまだ卓の上にある。


「採点する。評価結果、五十二点」


「五十二点」


「ギリギリ赤点回避。赤点は五十。二点しか余裕がない」


「合格点を超えたことは事実です。お嬢様の自己評価の厳しさには敬服しますが」


「敬服しなくていいから、もうちょっと喜んでくれない?」


「喜んでおりますよ。お茶のおかわりはいかがですか」


「喜び方がお茶なんだ」


 でも、うなずいた。ロクスが応接間を出て、すぐに新しいカップを持って戻ってきた。湯気が立っている。温かい。


 五十二点。半年前は——あの時自分で採点したのは三十二点だった。その前に自暴自棄で十二点をつけた日もあった。それが五十二。数字は、確かに上がっている。


 いや。半年前はゼロだったかもしれない。何もなかった。加工場もなかった。ハウゼとの関係もなかった。交易ルートもなかった。ゼロからの五十二点。成長率だけなら、百点でしょ。


 ——でも、成長率じゃ食べていけない。絶対値が要る。ラディス様はそう言った。


 お茶を一口飲んだ。舌の上にほんのり渋みが残って、頭が少しだけ冴える。


「また一年、走るのか」


「走ってまいりましょう」


「走るの、わたしなんだけど」


「はい。お供いたします」


 ——要は「一人で走らせはしません」。そう受け取ってもいいんだろうか。いいことにする。


 窓の外に目をやった。秋の空が赤く染まっている。夕暮れの風が涼しくなって、冬の気配がかすかに混じっていた。お茶のぬるい残り香がまだ応接間に漂っている。この匂いが消える頃には、もう次の四半期が始まっている。


 一年。四半期ごとの報告書。次はもう少し高い数字を。


 やることリスト、増えたなあ。


 部屋に戻ったのは、日が完全に沈んでからだった。廊下の窓から見える空は、もう紺色に沈んでいる。最初の星が一つ、東の空に光っていた。


 ミケが布団の上で丸くなっている。部屋に入った途端、耳だけがこちらを向いた。足元に擦り寄ってきた温もりが、妙にありがたかった。毛並みに指を通すと、喉がごろごろ鳴る。この子だけは、監査も採点も関係なく、ただここにいてくれる。


 木板を取り出して、今日のことを書き留めた。条件付き猶予。一年。四半期報告。ガレドの件は調査対象。ラディス様のお茶、一口。


 炭筆を置いた。木板を閉じて、ようやく布団に入ろうとした時。


 廊下から足音が聞こえた。母の香水の匂い。花と柑橘が混ざった、甘くて少しだけ鋭い香り。


 ノックの音。


「ミレイア。少し、話があるの」


 ——お母様。この時間に?

お読みいただきありがとうございました!


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