第92話「笑ったら負ける気がした」
朝から胃が痛い。
昨夜は三時間しか眠れなかったし、鏡を見たら目の下に隈ができていた。
「お嬢様、ラディス殿がお越しです」——ロクスの声だけがいつも通りだった。
深呼吸をした。肺の奥まで空気を入れる。吐く。もう一度。手のひらが汗ばんでいた。前掛けの裾でそっと拭う。
令嬢モード、起動。背筋を伸ばす。顎を引く。口角を微かに上げる。鏡に映った顔を確かめる暇はない。声が震えないことだけ祈る。——これでいい。
玄関に出ると、ラディスが馬車を降りたところだった。護衛なし。馬車も一台きり。地味な官服に王国紋章の公印を下げている。目の下の隈は、わたしより濃い。
「ラディス様。遠路お越しいただき、ありがとうございます」
完璧な微笑み。声も震えていない。九十五点。
「ミレイア嬢。お久しぶりです」
ラディスの声は、事務的で、平坦で、なんの感情も読み取れなかった。
——この人、前回もこうだったっけ。いや、前回も読めなかった。
書斎に案内する。ロクスが扉を開け、椅子を引き、お茶を用意する一連の動作が淀みない。執事モードのロクスは、いつもの煽りが嘘のように完璧だった。別人か。
「書面にまとめてございます」
報告書を差し出した。五日かけて仕上げた、あの四十五点の報告書。いや、清書して図も入れたから四十七点くらいにはなったはず。
ラディスが受け取り、一枚目をめくった。表情が変わらない。二枚目。変わらない。三枚目。紙をめくる指先が無駄なく正確で、一枚ごとに数秒だけ止まって、また次へ進む。
書斎の空気が重い。窓から差す午前の光が、報告書の余白を白く照らしている。羽ペンの先がかすかに動くたびに、インク壺の蓋がかちりと鳴った。
わたしの心臓だけがうるさい。膝の上で指を組んで、力を入れた。爪が掌に食い込む。それでも、顔には出さない。
「口頭で補足させていただきたい点がございまして——」
「書面で確認します」
遮られた。
——要は「口で言うな。証拠を出せ」。はいはい。出しましたよ。出したから読んでください。
ラディスの筆記用の羽ペンが、余白に何かを書き込んでいく。几帳面な文字。何を書いているのか、わたしからは読めない。
ロクスが出したお茶が、卓の隅で湯気を上げていた。ラディスはまだ手をつけていない。
***
視察は午後から始まった。
屋敷を出ると、秋の陽射しが思ったより強かった。空は高くて、雲が薄く流れている。風は乾いていて、肌の表面の水分を奪っていく。
村の畑。秋の収穫が終わった後の枯れた茎が、風に揺れていた。乾いた土の匂いに、わずかに枯れ草の甘さが混じる。足元の土がさくりと崩れた。ラディスが作付面積を目測で確認し、手帳に数字を書き込む。
「ここは半年前と比較してどの程度の面積増ですか」
「約一・三倍です。耕作放棄地を三区画復活させました」
「数字で示してください」
——要は「お前の『約』は信用しない」。はいはい。
「正確には、半年前が十二区画、現在が十六区画です。復活分の三区画は昨秋から耕し始め、今季初収穫を迎えています」
ラディスが書き込む。表情は変わらない。
薬草加工場に移動した。乾燥棚に並ぶ薬草の束から、干した草のかすかに甘い匂いが漂ってくる。グリムが品質を見てくれている棚だ。
「加工場の稼働は半年前から。月産の数字はこちらに」
木板を渡した。ラディスが数字を確認し、棚の実物と照合する。手帳にまた何かを書く。
わたしが見せたいのは、この棚の充実具合だった。半年前はからっぽだった棚に、今は薬草が並んでいる。でもラディスの目は棚ではなく、帳簿の数字に向いている。
——こちらが見せたいものを見ているんじゃない。あの人は、あの人が見たいものを見ている。
街道を歩く。補修した箇所を指し示しても、ラディスは路面の状態を自分の目で確認するだけで、わたしの説明にはほとんど反応しない。手帳に書き込む文字だけが増えていく。あの手帳の中身が、わたしの半年の評価になる。
風が吹いた。街道沿いの木々が揺れて、枯葉が数枚、わたしたちの間に舞い落ちた。ラディスはそれを踏んで歩いた。足元を見もしなかった。
「ガレドの件については」
ラディスが唐突に言った。
「書簡は受け取っています」
胃のあたりがきゅっと絞られた。
「ガレドの書簡に、何と」
「評価に含めて確認します。詳細は明日お伝えします」
それだけだった。ガレドが何を書いたのか。物資封鎖のことか。それとも——もっと別の何かか。
聞き返したかったけど、ラディスの足はもう次の場所に向かっていた。革靴が石を踏む音が一定の間隔で鳴る。迷いのない歩調。わたしは半歩遅れて、その背中を追った。
——ガレドの書簡。あの男が何を書いたのか。物資封鎖の正当化か。それともわたしへの批判か。想像するだけで、胃のあたりが再び絞られた。
***
屋敷に戻った時には、空が赤く染まり始めていた。西の山の稜線が黒く沈んで、空だけが燃えるように赤い。
応接間で最後のまとめ。ラディスが手帳をぱたんと閉じた。
「結果は明日お伝えします」
「何か、お気づきの点はございますか」
「明日お伝えします」
——二回言った。
繰り返すということは、今は何も言う気がないということだ。ミレイアの読み替えでは追いつけない。
ロクスが完璧な所作でラディスの外套を持ってきた。ラディスが立ち上がる。外套を羽織る動作も無駄がない。この人の全ての動作が、感情を排した事務手続きに見える。
卓の上のお茶に、一瞬だけ目を落とした。
——飲まなかった。
前回は、一口飲んでくれた。今回は。カップの中の茶がすっかり冷めて、湯気がもう立っていない。
ラディスの革靴が廊下の石畳を叩く音が遠ざかっていく。玄関の扉が閉まる音。馬車の車輪が砂利を踏む音。一つ一つが遠のいて、やがて静寂だけが残った。
応接間に、わたしとロクスだけが残った。
冷めきったお茶のカップが二つ。ラディスの分と、わたしの分。わたしも飲む余裕がなかった。
本日の令嬢演技力。九十二点。減点は、視察の途中で一回だけ声が上擦ったこと。——気づかれてないはず。気づかれてない。
ロクスが去り際に一言だけ言った。
「お嬢様。よく戦いました」
——過去形で言うな。まだ結果出てないんだけど。
部屋に戻った。着替えもせずに布団に倒れ込んだ。枕が冷たい。肌に触れる布の感触だけがやけに鮮明だった。令嬢モードを維持していた肩の力が、一気に抜けた。全身がずしりと重い。
天井を見つめた。低い天井。染みが一つ。あの染みは、ここに来た最初の日からずっとある。
今日一日、ラディス様の表情は最後まで読めなかった。あの人の「明日お伝えします」が、良い知らせの前振りなのか、悪い知らせを一晩寝かせてから伝える配慮なのか。
やれることはやった。報告書も出した。現場も見せた。数字も全部正直に出した。
あとは——祈るだけ。
祈れないけど。この世界の神様の名前、まだ知らないし。
布団の中で目を閉じた。暗闇の裏に、ラディス様の無表情が浮かんだ。あの手帳の几帳面な文字。飲まれなかったお茶。「明日お伝えします」の平坦な声。
明日が来るのが、怖い。
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