第91話「数字は嘘をつかない。わたしの心臓は嘘をつく」
監査官が来るまで、あと五日。
わたしは書斎の机に木板を七枚並べ、炭筆を握りしめた。数字で勝負する。それ以外に、道はない。
半年分の帳簿を引っ張り出した。ロクスが月ごとに整理してくれていた数字を、一つずつ木板に写していく。炭筆の粉がざらざらと指にこびりつく。インクの匂いが混じった書斎の空気を吸い込んだ。窓から入る秋の風が、紙の束をかさりと揺らす。乾いた風だった。冬が近いのだと、肌が教えてくれる。——報告書用の紙が卓の隅に積んである。あれに清書する前に、まず全体像を掴まなければ。
「お嬢様。残り五日で報告書を仕上げるのですから、まずは数字の棚卸しですね」
ロクスが新しい木板を差し出してきた。右手の白手袋が窓からの秋の日差しに白く光る。
「うん。半年でどれだけ変わったか、全部並べる」
木板に書き出していく。
特産品生産量。——ハウゼとの共同出荷を始めてから、月産で見ると半年前の三倍弱。ただし王国基準の一人あたり生産高に換算すると、六割にも届かない。
税収推移。——少しずつ上がっている。でも「少しずつ」だ。王国平均には遠い。
食糧生産。——半年前に比べて百二十パーセント。これは一番マシな数字。だけど裏を返せば、半年前がひどすぎただけだ。
交易ルート。——ダーヴォの隊商ルートと南回り旧街道で二本確保。半年前はゼロ。
人口増減。——増加はゼロ。減ってもいないけど、増えてもいない。
わたしは炭筆を置いた。木板を眺める。秋の斜めの光が数字の羅列を照らしていた。
「ロクス」
「はい」
「率直に聞くけど。この数字を見て、ラディス様はどう思う?」
「正確に申し上げますと——」
——要は「厳しい」。遠回しに言わなくていい。
「微妙、でしょうね」
「微妙」
「はい。絶対値は足りません。ただ、変化の方向は——」
「方向だけじゃ通らないでしょ」
「ですが、停滞よりは遥かにましです」
停滞よりまし。それが、半年間の成績表。
窓の外で鳥が一羽、枝から飛び立った。羽音がして、枝が揺れて、それだけ。書斎に戻ってくるのは静寂と、炭筆のかすかな粉っぽい匂いだけだ。
***
ここで——わたしの中の誰かが、法廷を開いた。
議題。この数字で、監査官ラディスを納得させられるか。
弁護側。食糧生産百二十パーセント。交易ルートはゼロから二本。薬草の加工事業を立ち上げ、下流との共同出荷を実現。ハウゼとの関係は安定。街道の補修も実施。方向性は明確にプラスである。
検察側。王国基準の六割にすら届いていない項目が過半数。人口増加はゼロ。税収は微増にとどまる。半年かけてこの程度かと問われれば、返す言葉がない。ガレドの物資封鎖による影響を差し引いても、数字が弱い。
裁判長——わたし。
判決。
微妙。
採点するなら、四十五点。赤点は五十だから、まだ足りない。
弁護側が抗議する。「半年前は測定不能だった。それが四十五まで上がったのだから、成長率で見れば——」
検察側が遮る。「監査官は成長率で評価しません。基準との乖離で評価します」
裁判長が槌を打つ。「静粛に。——でも弁護側の言い分も、分からなくはない」
つまり、微妙。
法廷閉じ。
「お嬢様。お茶がございます」
ロクスの声で現実に戻った。湯気の立つカップが目の前にある。茶葉のほのかな渋い香りが鼻をくすぐった。
「ありがとう。——ロクス、聞いてた?」
「何をでしょう」
「いや、独り言。脳内で裁判してた」
「判決は」
「微妙」
「なるほど。では、微妙をどうにかしましょう」
どうにかって言い方が軽い。
***
お茶を一口飲んだ。温かい。舌の上に茶葉の苦みが残る。
「ロクス。ラディス様が見るのは絶対値だけ?」
「いいえ。ただ、絶対値を最初に確認するのは間違いありません。監査の基本は基準との照合ですから」
「じゃあ、先に出す数字を選ぶ」
木板に線を引いた。
全部の数字を改善するのは無理。もう時間がない。なら——一番上がった数字を先に見せる。残りは「半年でこれだけ変わりました」で押す。
要は、絶対値ではなく変化の速度で勝負する。
「特産品の月産推移。食糧生産の伸び率。交易ルートの新規開拓数。この三つは、数字の伸びがはっきり見える」
ロクスが木板を覗き込んだ。白手袋の指先が、わたしが書いた数字の列を辿る。
「加えて、薬草加工の立ち上げも変化の速度を示せます。ゼロから始まった事業ですので」
「なるほど。ゼロからの立ち上げは変化率が計算できないけど、『なかったものがある』のは事実」
「はい。事実は最も強い論拠です」
ロクスの言い方が、妙に堅い。——あ、これ報告書モードだ。いつもの煽りが消えている。真面目にやってるんだ、この人。
「それ、監査官の前で通用する?」
「通用させるのがお嬢様のお仕事です」
真面目モード終了。早い。
「数字にできないものは、見せるしかありません」
——要は「数字じゃ勝てないから現場を見せろ」。身も蓋もない。
「見せる、か」
数字で殴れるところは数字で殴る。数字にできないところは、ラディス様の目の前に実物を並べる。
木板に書き足す。報告書に載せる数字のリスト。視察で見てもらう現場のリスト。どの順番で見せるか。
窓の外で、秋の風が枯葉を巻き上げた。乾いた葉が窓枠にぶつかって、かさりと小さな音を立てた。
「速度を見せる。絶対値は正直に出す。隠さない」
「よろしいのですか。絶対値はかなり——」
「隠したら、あの人にはバレる。だから正面から行く」
ロクスが少し間を置いた。
「それは、正しい判断かと」
——え、褒めた?
いや、まだ早い。結果が出てない。四十五点の報告書を五日で仕上げて、五十点に届くかどうかも分からない。
でも、逃げても監査官は来る。
炭筆を握り直した。インクの準備はまだだけど、下書きなら今日中にできる。
「ロクス。清書用の紙とインク、出してくれる?」
「既に用意してございます」
さすがに早い。
わたしは木板の数字をもう一度見渡した。四十五点。微妙。でも——微妙なら、まだ伸びしろがある。
五日で、どこまで積み上げられるか。心臓がうるさい。数字は嘘をつかないけど、わたしの心臓はずっと嘘をついている。大丈夫だって。
大丈夫じゃないかもしれない。でも、やる。
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