第90話「六十点が、遠い」
正式な本格評価の通知。
ラディスの筆跡は相変わらず几帳面で、余白の一つも無駄にしていなかった。黒インクの文字が羊皮紙の上にきっちりと並んでいる。封蝋の紋章は王国監査局のもの。手に取ると、紙の厚みがずしりと指に伝わった。
評価項目のリストに、わたしは固まった。
——これ、全部数字で答えるの?
「お嬢様。評価項目は十七項目ございます」
ロクスが隣から覗き込んだ。白手袋の指が、リストの上を滑っていく。
「住民の増減記録。税収推移。設備の整備状況。特産品生産量。治安状況の報告。街道の維持管理。水路の利用状況。教育——」
「止めて。まだあるの?」
「残り十項目ほど」
「まあ、想定の範囲内ですわ」
独り言が出た。令嬢モード。
想定してなかった。この量は想定してなかった。
木板を引き寄せて、炭筆で書き始めた。十七項目のうち、自分がまともに答えられるものを数える。
特産品生産量。——これは出せる。月産の数字がある。
税収推移。——一応ある。ロクスが帳簿をつけてくれている。
住民の増減記録。——......あるはず。たぶん。
水路の利用状況。——改修の記録はある。
四つ。まともに答えられるのが四つ。十七分の四。
「評価項目十七のうち、まともに答えられるのが四つ。達成率二十四パーセント」
声に出した。
「——うん。六十点が遠い」
ロクスが木板に視線を落とした。
「お嬢様の得意分野に限定しますと——」
——要は「得意なところなんてほとんどない」。遠回しに絶望を告げないでほしい。
「ロクス。正直に言って。全項目にまともに答える時間はある?」
「正直に申し上げますと、ございません」
「だよね」
椅子の背に体を預けた。天井を見上げる。書斎の天井は低くて、染みが一つある。あの染みは、ここに来た最初の日からずっとある。
全部やるのは無理だ。
でも、全部やらなくていいのかもしれない。
***
木板を新しいのに替えた。炭筆の先を指で確かめる。少し丸くなっている。削り直したいけど、時間がもったいない。
「ロクス。ラディス様が一番重視しそうな項目って何だと思う?」
「税収推移と特産品生産量でしょうね。監査官殿は数字を信じる方です」
「じゃあ、そこを先に揃える。残りは——」
「残りは?」
「実績で見せる」
木板に線を引いた。十七項目を二つに分ける。数字で答えるもの。実績で見せるもの。
数字で答えるもの——税収推移、特産品生産量、住民の増減、水路利用状況。この四つは帳簿や記録から引っ張れる。ロクスに手伝ってもらえば、正確な数字が出せる。
残りの十三項目。街道の維持管理、治安状況、設備の整備、教育——数字にしにくいものばかりだ。でも、実際にやっていることはある。街道の補修はした。水路の改修もした。薬草の加工を始めて、下流との共同事業を立ち上げた。
「全部やるのは無理。なら、ラディス様が一番見たい数字を先に揃えて、残りは実績を見せる。数字にできないものは——」
「見せるしかありません」
ロクスが静かに言った。
「数字にできないものは、見せるしかありません。実際にご覧いただくのが最も確実です」
「——要は『気合で乗り切れ』ってこと?」
「そうとも言います」
「言うなよ」
でも——腑に落ちた。数字で殴れるところは数字で殴る。数字にできないところは、ラディスの目の前で実物を見せる。二つの武器を使い分ける。
前の世界で、就職活動の面接を受けた時のことを思い出した。履歴書に書ける実績がなかった。だから面接で「やってみせます」と言った。実績がないなら、態度で見せるしかない。発想は同じだ。
木板に書き込む。数字で見せる四項目の具体的な準備。実績で見せる項目の優先順位。ラディスが来る前にどこまで整えられるか。
「ロクス。ラディス様の評価はいつ?」
「通知によりますと、二十日後です」
「二十日」
炭筆が止まった。二十日で、十七項目分の準備。数字を揃えて、見せるものを整えて、報告書を書き直して。
「一人じゃ無理だ」
「はい」
「下流にも協力を頼む。ハウゼさんには出荷の実績を数字にまとめてもらう。ペトラには屋敷の状況を整えてもらう。ヨルダには——」
台所の方から、鍋が煮える音がかすかに聞こえた。
「——ヨルダには、とりあえずごはんを作ってもらう。わたしが倒れたら元も子もないから」
「賢明です」
***
書斎の窓から、午後の光が差し込んでいた。冬の低い太陽が、木板の上の数字を照らす。炭筆の粉が指先に黒くこびりついていた。
ロクスが淹れた茶が、卓の隅で冷めていた。今日も茶葉は確保してある。物資が絞られても、この人の優先順位は揺るがない。
木板に書き出した行動計画は、十四項目あった。
税収の帳簿の整理。特産品の生産量の月別推移。住民の増減記録の確認。水路改修の成果まとめ。下流との共同出荷の実績報告。街道補修箇所の一覧。薬草加工の品質記録。在庫状況の棚卸し。ラディス向け報告書の書き直し。
そして——見せるための準備。加工場の整理。実際の作業工程の見学ルート。下流集落との連携の可視化。
「これを、あと二十日で」
ロクスが淡々と答える。
「不可能ではありません。不眠で働けば」
「それは無理。——でも、不眠に近いくらいはやる」
立ち上がった。椅子がぎしりと鳴った。冷めた茶を一口飲んだ。ぬるい。でも、茶の苦みが舌に残って、頭がほんの少しだけ冴える。
六十点。
半年前は三十二点だった。そこから少しずつ上げてきて、今は——いくつだろう。四十点くらいか。まだ足りない。全然足りない。
でも、届かない距離じゃない。
わたしの六十点は、もうわたし一人の六十点じゃない。ハウゼが出荷を受けてくれている。グリムが薬草を見てくれている。ダーヴォが物を運んでくれている。ペトラが屋敷を支えてくれている。ヨルダが飯を作ってくれている。
そして、ロクスが——お茶を死守してくれている。
優先順位はおかしいけど。
窓の外を見た。冬の空は低くて、薄い灰色の雲が流れていた。冷たい風が、窓枠の隙間からかすかに入ってくる。
二十日。十四項目。六十点。
遠い。でも——走れば、届く。
「ロクス」
「はい」
「行動計画、今日中に全部洗い出す。明日から動く」
ロクスが軽くうなずいた。白手袋の手が、新しい木板を差し出す。
「では、まずお茶のおかわりを」
「——先に仕事」
「お茶が先です」
どうしてもお茶が先らしい。
わたしは、ほんの少しだけ笑って、差し出されたカップを受け取った。
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