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辺境令嬢と、退屈知らずの執事  作者: 猫野ひかる
第5章「半年の答え合わせ」

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第89話「この子の記憶が、わたしの中から出てくる」

 母が来た。


 予告もなく、馬車一台で。玄関を開けた瞬間、花と柑橘の混じった香水の匂いが廊下に広がった。


 ——今日は、逃げられない日だ。


 母セラは応接間の椅子に座っていた。背筋がまっすぐで、膝の上で手を重ねている。カップを受け皿に置く動作に音がない。この人の所作には、いつも音がない。


「久しぶりね、ミレイア」


「お母様。ご無沙汰しております」


 令嬢モード起動。声のトーンを二段階上げる。背筋を伸ばす。微笑みを貼りつける。


 セラの目が、わたしを見ていた。笑っている。口元は、笑っている。でも、目の奥の温度が違う。この人の目は、笑っている時が一番鋭い。応接間の空気が、急に薄くなった気がした。背中に汗がにじむ。


「元気そうね。顔色もいいし、前より少し痩せた?」


「ふふ、少し動くことが増えましたの」


「そう。——動くこと、ね」


 セラがカップを持ち上げた。唇に運んで、一口。置く。やっぱり音がしない。


「ミレイア。台所に立ってるでしょう」


 心臓が、きゅっと縮んだ。


「......え?」


「ヨルダから聞いたの。あなたが台所で何か作っているって。前のあなたは、包丁も持てなかったのに」


 前のあなた。


 セラは「前のあなた」と言った。「昔のあなた」ではなく。


「ふふ、お母様。わたし、少し成長しましたの」


 棒読み。完全に棒読み。バレてないかこれ。


「成長ね」


 セラの指が、カップの縁を撫でた。白い指先。爪がきれいに整えられている。


「笑い方も変わったわ。前のあなたは、もっと控えめに笑っていたの。声を押し殺すみたいに。今のあなたは——」


 セラが、少し首を傾げた。


「——楽しそうに笑うのね」


 返す言葉が見つからなかった。三秒。五秒。沈黙が重い。応接間の時計が、かちかちと小さな音を刻んでいる。


「お母様。人は変わるものですわ。辺境での暮らしが、わたしを少し変えたのかもしれませんわね」


「そうかしら」


 セラの目が、細くなった。目が笑っていない。口元だけが笑っている。


「口癖も変わったわ。前のあなたは『ですわ』をもっと自然に使っていたのに。今の『ですわ』は——」


 間を置いた。


「——少し、不自然ね」


 血の気が引いた。顔には出さない。出してはいけない。手が震えそうになって、カップを持つことで誤魔化した。陶器の温もりが、かろうじて指先を支えてくれる。


「お母様は勘がいいですわね。わたしも少し、辺境の言葉遣いに慣れてしまったのかも」


「......そう。不思議ね」


 セラは、それ以上追及しなかった。カップを置いて——やはり音はしなかった——立ち上がった。


「また来るわ。体に気をつけてね、ミレイア」


 その声が、優しかった。優しかったから、余計に苦しい。香水の残り香が鼻の奥でかすかに揺れていて、セラが去った後もしばらくそこにいるような気がした。


***


 セラの馬車が去った後、廊下でロクスとすれ違った。


 ロクスは応接間の扉の近くに立っていた。おそらく、会話は聞こえていたのだろう。


「奥様は勘がいいですね」


 ——要は「やばい」。もうちょっとオブラートに包んでほしい。


「聞いてた?」


「耳に入りました」


「それを『聞いてた』って言うの」


 ロクスの表情は変わらなかった。琥珀色の目がこちらを見ている。光の加減で、ほんの一瞬、金色に——。


 ——気のせいだ。


「お嬢様。奥様の追及は、今後も続くかと」


「分かってる」


「どこまで隠し通すおつもりですか」


 立ち止まった。ロクスの顔を見上げた。


「——分からない。でも、今はまだ言えない」


 ロクスが黙ってうなずいた。白手袋の手が、右手の手袋を引き直す。


 廊下を歩いた。ロクスの足音は、いつだってほとんど聞こえない。


***


 自室に戻って、寝台に座った。蝋燭を一本だけ灯した。小さな炎が揺れて、壁に影を落とす。


 窓の外は暗い。月明かりが、白い光を床に落としている。


 手を見た。この手。小さくて、白くて、わたしの手じゃない——いや、今はわたしの手だ。


 不意に、記憶が浮かんだ。


 小さな手。粉を混ぜている。白い粉が、ぼうるのような——深い陶器の器からこぼれている。手が粉だらけだ。


 隣に、誰かがいる。大きな手が、わたしの手を包んで——「いいのよ。こぼれても、いいの」


 母の声だ。セラの声。もっと若くて、もっと柔らかい。笑っている。目も、口も、全部が笑っている。


 粉が床に散った。「あら、大変」と母が笑って、小さなわたしも笑って。うまくできなかった。お菓子は焦げた。でも、母が「おいしいわ」と言ってくれた。


 ——この子の記憶だ。


 わたしの記憶じゃない。この体の前の持ち主の記憶。小さな手で粉を混ぜた。母と一緒にお菓子を作ろうとして、失敗して、笑った。


 前の世界では、母と料理なんてしなかった。母は仕事で忙しくて、家にいる時間は短かった。夕食は半額の惣菜をレンジで温めることが多かった。一人で食べる食卓は静かで、テレビの音だけが部屋を埋めていた。母の帰りを待つことはいつしかやめて、先に食べて、先に寝るようになった。


 この子は——母と一緒にお菓子を作ろうとしたんだ。わたしにはなかった記憶。この子にはあった記憶。


 手のひらを見つめた。蝋燭の灯りで、指先がオレンジ色に染まっている。この手が覚えている。粉の感触。母の手の温もり。


 この子の記憶が、わたしの中から出てくる。


 身体が覚えていることは、前にもあった。石段の降り方。宝物箱の場所。でも、これは違う。感情が伴っている。粉がこぼれた時の焦り。母が笑った時の安堵。お菓子が焦げた時の——悔しさと、嬉しさの、入り混じったもの。


 わたしはこの子じゃない。


 でも、この子の母に、わたしは毎日嘘をついている。


 蝋燭の炎が揺れた。風はない。揺れる理由がない。でも揺れた。


 さっきのセラの声が蘇る。「前のあなたは、包丁も持てなかった」。——そうだろう。この子は持てなかった。わたしが持てるのは、前の世界で総菜を切り分けていたからだ。この手の記憶じゃない。わたしの記憶だ。


 目を閉じても、小さな手で粉を混ぜる記憶が消えなかった。指先に粉の感触が残っている気がする。この手の記憶が、わたしの体を通して蘇ってくる。


 この子の母に、わたしはいつまで嘘をつくのだろう。


 ——翌朝。書斎に入ると、ロクスが一枚の書面を手にしていた。


「お嬢様。監査官殿から、正式な通知です」

お読みいただきありがとうございました!


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