第89話「この子の記憶が、わたしの中から出てくる」
母が来た。
予告もなく、馬車一台で。玄関を開けた瞬間、花と柑橘の混じった香水の匂いが廊下に広がった。
——今日は、逃げられない日だ。
母セラは応接間の椅子に座っていた。背筋がまっすぐで、膝の上で手を重ねている。カップを受け皿に置く動作に音がない。この人の所作には、いつも音がない。
「久しぶりね、ミレイア」
「お母様。ご無沙汰しております」
令嬢モード起動。声のトーンを二段階上げる。背筋を伸ばす。微笑みを貼りつける。
セラの目が、わたしを見ていた。笑っている。口元は、笑っている。でも、目の奥の温度が違う。この人の目は、笑っている時が一番鋭い。応接間の空気が、急に薄くなった気がした。背中に汗がにじむ。
「元気そうね。顔色もいいし、前より少し痩せた?」
「ふふ、少し動くことが増えましたの」
「そう。——動くこと、ね」
セラがカップを持ち上げた。唇に運んで、一口。置く。やっぱり音がしない。
「ミレイア。台所に立ってるでしょう」
心臓が、きゅっと縮んだ。
「......え?」
「ヨルダから聞いたの。あなたが台所で何か作っているって。前のあなたは、包丁も持てなかったのに」
前のあなた。
セラは「前のあなた」と言った。「昔のあなた」ではなく。
「ふふ、お母様。わたし、少し成長しましたの」
棒読み。完全に棒読み。バレてないかこれ。
「成長ね」
セラの指が、カップの縁を撫でた。白い指先。爪がきれいに整えられている。
「笑い方も変わったわ。前のあなたは、もっと控えめに笑っていたの。声を押し殺すみたいに。今のあなたは——」
セラが、少し首を傾げた。
「——楽しそうに笑うのね」
返す言葉が見つからなかった。三秒。五秒。沈黙が重い。応接間の時計が、かちかちと小さな音を刻んでいる。
「お母様。人は変わるものですわ。辺境での暮らしが、わたしを少し変えたのかもしれませんわね」
「そうかしら」
セラの目が、細くなった。目が笑っていない。口元だけが笑っている。
「口癖も変わったわ。前のあなたは『ですわ』をもっと自然に使っていたのに。今の『ですわ』は——」
間を置いた。
「——少し、不自然ね」
血の気が引いた。顔には出さない。出してはいけない。手が震えそうになって、カップを持つことで誤魔化した。陶器の温もりが、かろうじて指先を支えてくれる。
「お母様は勘がいいですわね。わたしも少し、辺境の言葉遣いに慣れてしまったのかも」
「......そう。不思議ね」
セラは、それ以上追及しなかった。カップを置いて——やはり音はしなかった——立ち上がった。
「また来るわ。体に気をつけてね、ミレイア」
その声が、優しかった。優しかったから、余計に苦しい。香水の残り香が鼻の奥でかすかに揺れていて、セラが去った後もしばらくそこにいるような気がした。
***
セラの馬車が去った後、廊下でロクスとすれ違った。
ロクスは応接間の扉の近くに立っていた。おそらく、会話は聞こえていたのだろう。
「奥様は勘がいいですね」
——要は「やばい」。もうちょっとオブラートに包んでほしい。
「聞いてた?」
「耳に入りました」
「それを『聞いてた』って言うの」
ロクスの表情は変わらなかった。琥珀色の目がこちらを見ている。光の加減で、ほんの一瞬、金色に——。
——気のせいだ。
「お嬢様。奥様の追及は、今後も続くかと」
「分かってる」
「どこまで隠し通すおつもりですか」
立ち止まった。ロクスの顔を見上げた。
「——分からない。でも、今はまだ言えない」
ロクスが黙ってうなずいた。白手袋の手が、右手の手袋を引き直す。
廊下を歩いた。ロクスの足音は、いつだってほとんど聞こえない。
***
自室に戻って、寝台に座った。蝋燭を一本だけ灯した。小さな炎が揺れて、壁に影を落とす。
窓の外は暗い。月明かりが、白い光を床に落としている。
手を見た。この手。小さくて、白くて、わたしの手じゃない——いや、今はわたしの手だ。
不意に、記憶が浮かんだ。
小さな手。粉を混ぜている。白い粉が、ぼうるのような——深い陶器の器からこぼれている。手が粉だらけだ。
隣に、誰かがいる。大きな手が、わたしの手を包んで——「いいのよ。こぼれても、いいの」
母の声だ。セラの声。もっと若くて、もっと柔らかい。笑っている。目も、口も、全部が笑っている。
粉が床に散った。「あら、大変」と母が笑って、小さなわたしも笑って。うまくできなかった。お菓子は焦げた。でも、母が「おいしいわ」と言ってくれた。
——この子の記憶だ。
わたしの記憶じゃない。この体の前の持ち主の記憶。小さな手で粉を混ぜた。母と一緒にお菓子を作ろうとして、失敗して、笑った。
前の世界では、母と料理なんてしなかった。母は仕事で忙しくて、家にいる時間は短かった。夕食は半額の惣菜をレンジで温めることが多かった。一人で食べる食卓は静かで、テレビの音だけが部屋を埋めていた。母の帰りを待つことはいつしかやめて、先に食べて、先に寝るようになった。
この子は——母と一緒にお菓子を作ろうとしたんだ。わたしにはなかった記憶。この子にはあった記憶。
手のひらを見つめた。蝋燭の灯りで、指先がオレンジ色に染まっている。この手が覚えている。粉の感触。母の手の温もり。
この子の記憶が、わたしの中から出てくる。
身体が覚えていることは、前にもあった。石段の降り方。宝物箱の場所。でも、これは違う。感情が伴っている。粉がこぼれた時の焦り。母が笑った時の安堵。お菓子が焦げた時の——悔しさと、嬉しさの、入り混じったもの。
わたしはこの子じゃない。
でも、この子の母に、わたしは毎日嘘をついている。
蝋燭の炎が揺れた。風はない。揺れる理由がない。でも揺れた。
さっきのセラの声が蘇る。「前のあなたは、包丁も持てなかった」。——そうだろう。この子は持てなかった。わたしが持てるのは、前の世界で総菜を切り分けていたからだ。この手の記憶じゃない。わたしの記憶だ。
目を閉じても、小さな手で粉を混ぜる記憶が消えなかった。指先に粉の感触が残っている気がする。この手の記憶が、わたしの体を通して蘇ってくる。
この子の母に、わたしはいつまで嘘をつくのだろう。
——翌朝。書斎に入ると、ロクスが一枚の書面を手にしていた。
「お嬢様。監査官殿から、正式な通知です」
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