第88話「あの子たちは嫌がらなかったのに」
街道の馬が、ロクスを見て後ずさった。
たかが執事だ。角が生えているわけでもない。——たぶん。
集落へ向かう途中だった。すれ違った荷馬車の馬が、ロクスとの距離が五歩ほどになった瞬間、急に首を振って嘶いた。御者が慌てて手綱を引いている。
そして、街道脇の木から鳥が一斉に飛び立った。ばさばさと羽音が重なって、冬の薄い空に黒い点が散る。タイミングが、あまりにも露骨だった。
「ロクス、動物に好かれないのね」
軽い調子で言った。冗談のつもりだった。
でも——本当に怖がってるんだよな。冗談で片づけるには、馬の反応が大きすぎた。
ロクスは半歩先を歩いていた。背中が見える。黒の執事服の肩のラインは、いつも通りまっすぐだ。
「動物は繊細ですから。何かの匂いに反応したのかもしれません」
「匂い?」
「はい。人には分からない程度の」
声の温度が、変わらない。いつも通り。でも、昨日の帰り道の馬も同じ反応だった。二日連続で「たまたま」は、ちょっと苦しい。
わたしは前を向いて歩き続けた。炭筆で木板に何かを書くふりをして、横目でロクスの手元を見た。
白手袋の右手。指先がかすかに動いて、手袋の縁を引き直した。——また、その仕草。最近、やけに多くないか。
何か言おうとして、やめた。聞いても、ロクスは「心当たりはございません」としか言わないだろう。
***
屋敷に戻ったのは、夕方近くだった。
玄関を入って、廊下を歩く。ふと、視界の端に三毛の丸い影が見えた。
ミケだ。
廊下の突き当たり、階段の手前。いつもならこの辺りでこちらに向かって歩いてくる。足首に擦り寄って、顔を上げて、丸い目でこちらを見る。
でも、今日はそこから動かなかった。
金色の目がこちらを見ている。丸い瞳の中に、廊下の夕日が小さく映り込んでいる。尻尾が床に垂れたまま、揺れもしない。四本の足が、廊下の板に貼りついたように止まっている。耳だけが、わずかに後ろに倒れていた。
「ミケ?」
声をかけた。ミケの耳がぴくりと動いた。でも、近づいてこない。
わたしは三歩ほど進んで、しゃがんだ。手を伸ばす。ミケが——後ずさった。
一歩。二歩。三歩。
それから、くるりと向きを変えて、階段の上へ駆けていった。三毛の尻尾が暗がりに消える。
——何。
しゃがんだまま、しばらく動けなかった。手を伸ばした先に、何もない空間がある。指先が冷たい。
前の世界のことを、ふと思い出した。
猫カフェ。駅前の雑居ビルの三階にあった、小さな店。一時間五百円で、猫と過ごせる場所。入口のガラス扉を開けると、暖かい空気と一緒に猫の匂いがふわりと来た。
あの店の猫たちは、膝に乗ってきた。暖かくて、柔らかくて。のどを鳴らす振動が、太ももの上で響いていた。毛並みに顔を埋めると、日向のような匂いがした。一人暮らしのアパートに帰りたくない夜、あの店の猫たちはわたしに寄り添ってくれた。
あの子たちは、嫌がらなかったのに。
何が違うんだろう。
立ち上がった。膝が少し痛い。石の床にしゃがみ込んでいたから、足が冷えている。
——ミケがわたしを怖がったわけじゃない。たぶん。わたしの後ろに、ロクスの気配が残っていたから? いや、ロクスは先に書斎に行った。すれ違ってすらいない。
じゃあ、何。
分からない。分からないまま、自室に向かった。
***
廊下を曲がったところで、ペトラとすれ違った。
ペトラは洗濯物を抱えていた。白いシーツの山から、小さな顔がのぞいている。こちらを見て、ぺこりと頭を下げた。
「お嬢様。お帰りなさいませ」
「うん。ありがとう」
通り過ぎようとして——ペトラが、立ち止まった。
「あの、お嬢様」
振り返る。ペトラの目が、少し泳いでいた。洗濯物を抱える腕に、力が入っている。
「……少し、気になることが」
「何?」
ペトラが小さくうなずいた。——この子の癖だ。何かを言う前に、一度うなずく。自分で自分に許可を出すみたいに。
「最近、ロクス様が......夜遅くにお戻りになることが多くて」
足が止まった。
「夜遅く?」
「はい。......ただ、廊下ですれ違うことがあって」
ペトラの声は小さかった。告げ口をしているつもりはないのだろう。この子はそういう子じゃない。気になったから言った。それだけ。
「いつから?」
「......ここひと月ほど、でしょうか。毎晩ではないのですが」
ひと月。
胸の奥で、何かが小さく動いた。心臓が速くなるのが分かる。呼吸が浅くなって、廊下の冷たい空気がうまく吸えない。指先の温度が、すっと下がる。
「分かった。ありがとう、ペトラ」
「申し訳ありません。余計なことでしたら」
「ううん。教えてくれてよかった」
ペトラが安堵したように小さく息をついて、洗濯物を抱え直して去っていった。白いシーツが廊下の薄暗さに揺れる。遠ざかる足音が、廊下の先で小さくなって消えた。
わたしは、その場に立ったまま、しばらく動けなかった。
***
自室に戻って、寝台に腰かけた。蝋燭は灯さなかった。窓から入る夕暮れの最後の光だけが、部屋をうっすらと照らしている。寝台のシーツが冷たくて、座った瞬間に腰のあたりがひやりとした。
動物が怖がる。
夜遅く出歩いている。
瞳が、時々変に見える。——あれは気のせいだと思った。光の加減だと思った。琥珀色の瞳が、ほんの一瞬、金色に光って見えたこと。何度かあった。でも、そのたびに「気のせい」で片づけた。
全部つなげたら、何かになりそうだ。
でも——まだ、考えない。
窓の外が暗くなっていく。空の色が、橙から紫に、紫から紺に変わる。部屋が冷えてきた。布団の端が冷たい。
ロクスは嘘は言わない人だ。聞けば、きっと何か答えてくれる。嘘はつかない。でも、全部を言わないことはある。質問されなかったことには、答えない。そういう人だ。
布団に入っても、ペトラの言葉が消えなかった。
「最近ロクス様、夜遅いですよね」
聞けば、きっと教えてくれる。ロクスは嘘は言わない人だ。
——でも。聞いたら、何かが変わる気がする。
目を閉じた。暗闇の中で、猫カフェの猫の温かさを思い出した。膝の上で丸くなって、のどを鳴らして。あの子たちは、わたしのことを怖がらなかった。
ミケの金色の目が、暗がりの中でじっとこちらを見ていた映像が、まぶたの裏に浮かんだ。
あの目は——何を見ていたんだろう。
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