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辺境令嬢と、退屈知らずの執事  作者: 猫野ひかる
第5章「半年の答え合わせ」

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第100話「それでも聞かない、か」

 夜が更けた屋敷は、静かだった。


 ロクスは自室の窓辺に立ち、白手袋を外した。


 右手の鱗は、腕の半ばまで広がっていた。


 月明かりが窓から差し込んで、鱗の表面を微かに照らしている。人の肌ではない硬さ。冷たい。指先で触れると、爪が滑るような滑らかさと、押しても凹まない頑強さが同居している。赤みを帯びた色が、暗がりの中でくすんで見える。鱗と肌の境目に触れると、皮膚が薄く引きつるような感触があった。人と竜の境界線。ここから先はもう、人の手ではない。


 手首の内側から始まった鱗は、もう前腕の中程に達していた。工房の夜——あの火を消し止めた時に使った力の代償だった。


 力を使わなくても退かない。使えば進む。使わなくても、止まらない。


 指先の感覚が鈍くなっていた。親指と人差し指の先端は、まだ人の肌のままだ。だが中指から先が硬い。物を摘む時にわずかな違和感がある。紙を持つ、ペンを握る、カップを扱う。執事としての所作に支障が出るまでには、まだ猶予がある。


 まだ。


 窓の外を見た。秋の夜空に月が出ていた。薄い雲が流れて、月光が途切れたり戻ったりする。屋根の上に初霜が薄く降りていた。冬が近い。辺境の冬は厳しい。


 手袋を外した右手を月光にかざした。鱗が光を受けて、鈍く赤銅色に輝く。五本の指を開いた。中指の第二関節まで、鱗が這い上がっている。あと数か月もすれば、指先まで届くだろう。人間の手ではない。かつてはこの手で——いや、この手ではない。全身がこうだった時の記憶は、遠い。数百年の彼方に霞んでいる。


 秋の夜風が窓から入ってきた。枯れ葉と冷たい空気の匂い。人間が「寒い」と感じる温度の変化を、ロクスの体は「情報」として受け取る。寒さは感じない。だが、この屋敷の住人たちが冬に震えることは知っている。あの令嬢が足先の冷えを嫌がることも。ペトラが暖炉の薪を多めに運ぶ季節が来ることも。


***


 今日、ミレイアは言った。


「ありがと。いろいろ」


 唐突だった。書類整理の合間に。何の文脈もなく。


 あの令嬢は、気づいていた。手袋の下に何かがあることを。瞳が光ることを。夜の廊下ですれ違った時、金色に光る瞳を正面から見た。それでも——聞かなかった。


 聞かないことを、選んだ。


 それでも聞かない、か。


 ロクスは窓枠に右手を置いた。鱗の先端が木枠に触れて、硬い音がした。人の爪では出ない音だ。


 面白い——そう思うはずだった。いつもならそう片づける。面白い令嬢だ、と。観察対象として。竜が人に仕えるという長い暇つぶしの中で見つけた、少し変わった人間の子供。


 だが今日、その言葉が出てこなかった。


 あの声が耳に残っていた。「ありがと。いろいろ」。照れ隠しの早口で、視線を逸らしながら。木板の角を指先でいじっていた。あの不器用な仕草が。


「面白い」の代わりに何があったのか、ロクス自身にも名前がつけられなかった。


 以前にも同じことを考えた。面白い以外の感情が混ざり始めている。名前はつけない。まだ——あの夜そう決めたはずだった。その「まだ」が、まだ続いている。


 だが——「まだ」がいつまで持つか。


 あの令嬢は聞かなかった。知りかけた上で、聞かないと決めた。信頼なのか。諦めなのか。それとも、もっと別の何かなのか。


 竜の時間感覚で言えば、半年は瞬きの間だ。だがこの半年で、あの小さな令嬢は——ゼロだった領地を立て直し、訴訟を勝ち、監査を通し、襲撃を乗り越えた。木板と炭筆で。


 「ありがと」と言った時の声が、耳に残っていた。照れていた。すぐに「なんでもない、忘れて」と撤回しようとした。人間の子供が不器用に感謝を伝えようとした。あれを——面白い、では片づけられない。


 ティーカップを差し出す時、あの小さな手がカップを受け取った。指先が一瞬だけ手袋に触れた。向こうは気づいていなかっただろう。だがロクスは感じていた。手袋越しの、鱗越しの。人の体温。


 窓の外で、風が木の枝を揺らした。枯れ葉が何枚か落ちて、屋根の霜の上に散った。


***


 屋敷の別の場所に、もう一つの明かりが灯っていた。


 セラの執務室。


 深夜だった。屋敷の他の住人はとうに寝静まっている。ランプの灯りが机の上を小さく照らし、壁に揺れる影を落としていた。


 セラが古い日記を開いていた。


 革の表紙が使い込まれて、角が丸くなっている。紙が黄ばんでいた。インクの色が褪せて、文字の輪郭が曖昧になっている。年月を経た紙の匂い——乾いた、埃と微かな酸味が混じった匂いが、ページを開くたびに立ち上った。


 セラの指先が文字をなぞった。幼い筆跡。丸みのある、拙い字。筆圧が弱くて、ところどころインクが途切れている。一文字一文字に時間をかけて書いたのだろう。字の間隔が不揃いで、行の終わりが下がっている。


 前のミレイアの字だ。


 今のミレイアの字は違う。筆圧が強い。文字の形が角ばっている。書く速度が速い——炭筆の動きに迷いがない。同じ名前を名乗る、別の手が書いた字。


 セラの目が細くなった。ランプの灯りが瞳に映って、淡い紫の目に小さな光が灯る。


 口を手で隠して笑っていた子。包丁を持つのも怖がっていた子。口癖が「ごめんなさい」だった子。


 この字を書いていた子は、もういない。


 セラはゆっくりと日記を閉じた。革の表紙がぱたりと音を立てた。指先がしばらくの間、表紙の上に置かれたまま動かなかった。ランプの炎が揺れて、セラの影が壁の上で揺れた。淡い紫の瞳が伏せられている。母親の顔だった。怒りでも悲しみでもない。ただ、真実を知ろうとしている人の顔だった。


***


 ロクスの部屋。


 窓の外で、夜が深くなっていた。


 ロクスは白手袋をはめ直した。鱗が布地に押し込められる感触。手首から先の圧迫感が増している。半年前より確実に窮屈だ。


 窓の外に、冬の気配があった。初霜が屋根を白くしている。明日の朝には溶けるだろう。だが次の霜はもっと厚く、その次はもっと長く残る。辺境の冬は、じわじわと来る。


 あの令嬢は、冬を越えるのだろう。一人ではなく。新しい住民が来ている。工房の修繕が進んでいる。ガレドの上訴が続いている。問題は増え続ける。だが——あの令嬢は、増え続ける問題を前に、座り込まない。


 セラが動いていることを、ロクスは知っていた。夜遅くに執務室の明かりが灯ること。古い日記を手にしていること。あの母は、あの母なりに真実に近づこうとしている。


 秘密を抱える人が増えた。


 面白くなった。


 ——その言葉が、いつもより重かった。


 ロクスは手袋をはめ直した。窓の外で、最初の霜が屋根を白くしていた。新しい季節が来る。新しい人が来る。新しい問題が来る。


 その中で、あの令嬢は「聞かない」ことを選んだ。信頼なのか、直感なのか、それとも——。


 名前はつけない。まだ。


 窓の外で、月が雲の向こうに隠れた。部屋が暗くなる。鱗の赤銅色が影に沈む。手袋の中に押し込めれば、誰にも見えない。見えないものは、ないのと同じだ。


 ——本当にそうだろうか。


 あの令嬢は見た。見た上で、聞かなかった。ないのと同じだとは思っていない。あるのに、聞かないことを選んだ。


 だが「まだ」の猶予が、少しずつ短くなっていることを、ロクスは知っていた。

お読みいただきありがとうございました!


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