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辺境令嬢と、退屈知らずの執事  作者: 猫野ひかる
第1章「ここ、辺境です」

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第9話「畑を全部作り直せば——いや、種がない」

 何から手をつけるか。


 十七項目の改善勧告、年収五倍の借金、半年の期限。


 とりあえず、一番確実にできることから。つまり、食事だ。食事なら、少し前に進んだ実績がある。


 朝食のテーブルで、木板に項目を書き出していく。炭筆の先がざりざりと板を引っ掻く。


 一、食事改善。


 二、帳簿の作成。


 三、建物の修繕。


 四、道の整備。


 五、歳入の確保。


 書き出すと、壮大だ。


「まず食事をなんとかする」


「お嬢様の行動原理が常に胃袋に起因するのは、大変分かりやすくてよろしいですね」


「食い意地って言い換えるな」


「言い換えておりません。正確に申し上げただけでございます」


 それは"正確"じゃない。完全に意訳だ。


 でもロクスの言う通り、食事は一番「できそう」な項目だった。パンは焼ける。村の共用窯で一度は焼けた。次のステップとして、自前で安定して焼ける体制を作れば、それが改善の証拠になる。


「待って。食事を改善する。食事がまともになれば人が集まる。人が増えれば畑も直せる。畑が直れば収穫が増える。収穫が増えれば税収も上がる。税収が上がれば借金も返せる。全部解決じゃん」


 はい、百点。文句なしのドミノ。一つ倒せば全部倒れる。


「……」


 ロクスが何も言わない。目だけが動いた。わたしを見て、木板を見て、またわたしを見た。


「何か言ってよ」


「お嬢様が気づかれるのを待っておりました」


 気づく。何に。


 三秒。


「……それ全部食事改善が前提じゃん。前提が崩れたら全部崩れる」


「お気づきになられましたか」


 加速暴走。わたしの悪い癖だ。計画がうまくいく未来だけが見えて、一つ一つの工程の現実を見落とす。


「畑を全部作り直せば効率いいんじゃ——いや、種がない。季節も違う。土も痩せてる」


 自分でツッコんで、自分でうなだれた。


「村をご覧になるのがよいかと」


 ロクスが静かに言った。煽りのない声だった。


「まず現状を。計画は、その後で」


***


 村に向かった。一人で。


 ロクスは「お嬢様のご判断にお任せします」と言って屋敷に残った。正確には「一人で見てこい」の丁寧語だ。


 カルセド村は、屋敷から歩いて少しの距離にある。前に村の共用窯でパンを焼いた時に来ている。でもあの時は窯の前だけで、村全体を見て回ったことはなかった。


 道に出た瞬間、静けさが耳を打った。


 風の音だけだ。人の声がしない。


 遠くで鍬が土を叩く音がした。一つだけ。畑が広がっている。いや、畑だったものが広がっている。雑草に覆われ、垣根は傾き、耕された形跡のある区画は全体の三分の一もない。土が乾いて白っぽくなっている。


 畑、20点。いや、作物が一応植わっている部分だけなら40点。全体で見ると20点。


 道を進む。井戸が一つ。石組みの古い井戸で、縄と桶がかかっている。水面を覗き込むと、水位が低い。


 道、10点。穴だらけで馬車が通れるか怪しい。


 広場に出た。広場といっても、ただの空き地だ。端の方で子供が二人、棒切れで何かを突いて遊んでいる。子供が二人。この村に、子供が二人しかいない。


 家々の前を通る。戸口に座っている老人。軒先で繕い物をしている老婆。若い人間が見当たらない。


 前の世界のニュースで見た映像が頭をよぎった。若い人が都会に出て、お年寄りと子供だけが残された集落。あれだ。あれと同じだ。用語は思い出さないようにする。この世界にはそんな言葉はないのだから。


 人口、点数つけたくない。


 村人の老人と目が合った。


「良い日ですわね」


 令嬢モード。内心——全然良い日じゃない。この村、静かすぎる。


 老人はうなずいただけで、視線をそらした。声をかけたのに。背を向けたわけではないけど、応じる気配がない。


 別の老人の前を通った。目が合う前に、家の中に入っていった。


 ああ、そうだよね。突然窯を直してパンを焼いた令嬢だ。感謝してくれた人もいるけど、まだ「次も続くとは思えない」という空気がある。関わりたくないよね。


 一人で歩いていると、考え事が止まらなくなる。


 ロクスならここで何と言うだろう。「懸念が三点ほど」とか言い出すだろうか。一点目、畑。二点目、人口。三点目、お嬢様ご自身の心得でございます。——要は「ここ絶望的ですけど分かってます?」。分かってるよ。分かってるから見に来たんだよ。三点目は余計だ。


 脳内ロクスに話しかけている自分がいた。そして脳内で反論もしている。前の世界では猫に話しかけていた。猫に反論することはなかった。執事は脳内でも油断できない。


 ——誰かに話したい。


 その感覚が、ふいに浮かんだ。前の世界でもずっとあった感覚だ。何かを見つけた時、何かに気づいた時、「これ、誰かに話したい」と思う。でも話す相手がいなかった。アパートで一人。猫カフェの猫に話しかけて、店員に変な目で見られた。


 今は、帰れば話を聞いてくれる人がいる。変な執事だけど。


***


 村の外れまで歩いた。


 道の端に腰を下ろして、木板を膝に載せる。炭筆で書き出す。


 問題の整理。


 一、食材がない。


 二、人手がない。


 三、設備がない。


 人手がない。これが一番重い。畑を耕すにも、道を直すにも、井戸を掘るにも、人がいる。若い働き手がいない。


 でも人を呼ぶには、まずこの村が「暮らせる場所」でないといけない。暮らせる場所にするには、食事がまともでないといけない。


 結局、食事に戻る。


 前回の実績がある。村の共用窯で焼いた85点のパン。でもあれは「窯が壊れていた」という外部要因を修繕できたからだ。屋敷の台所で、自前の道具で、天然酵母から安定して焼けるかどうかは別の話だ。


 条件が変われば、結果も変わる。


 50点を目指す。100点は無理だ。でも85点の「一回だけの成功」を、日常の50点に落とし込めたら十分だ。


 夕日が傾き始めていた。影が長くなり、乾いた道に橙色の光が伸びている。歩き疲れた足が重い。


 遠くから、老婆がこちらを見ていた。家の前に立って、じっと。何かを値踏みするような、あるいはただ不思議がっているような目。


 目が合った。老婆は視線をそらさなかった。


 わたしから先に目をそらして、立ち上がった。屋敷へ帰る。


 木板に「パン」と大きく書いた。


 前回は特殊条件下の85点。今度は自前の台所で50点を安定して目指す。


 いい材料はない。道具も足りない。でも、一度うまくいった経験がある。


 経験は、たぶん材料だ。あの子たちが食べられるパンを、まず一つ。

お読みいただきありがとうございました!


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