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辺境令嬢と、退屈知らずの執事  作者: 猫野ひかる
第1章「ここ、辺境です」

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第10話「50点のパンと、40点の笑顔」

 今度こそ、安定させる。


 焼き加減。焼き加減。焼き加減。


 三回唱えたのは、前回は「村の共用窯」の特殊条件があったからだ。あの時は窯を直したから85点が出た。でも屋敷の台所の小さな竈でも同じクオリティを出せるかは、別の話だ。


 台所に立つ。前回との違いを一つずつ確認する。酵母種は五日間じっくり寝かせた。前回は三日。共用窯では85点が出たけど、その後で試した屋敷の竈では「種がまだ若い」という感触があった。瓶の中の気泡は前回よりずっと元気で、蓋を開けると甘酸っぱい匂いが立ち上った。前回の浅い発酵臭とは違う。これは十分に育った匂いだ。


「お嬢様、粉は量りましたよ」


 ヨルダが台の上に雑穀の粉を並べている。前回は自分一人で好き勝手にやった。今回はヨルダの目が光っている。台所の主は、二度目の侵入者に対しては協力する側に回ったらしい。ありがたい。


「ヨルダ、ありがとう。こねる時間は」


「前回の倍。最低でも」


「倍。了解」


 粉と酵母種を合わせる。水を少しずつ加えながらこねる。前回は手にべたついて苦戦したが、今回は水の量を控えめにした。指先に触れる生地の感触が柔らかい。押すと、ゆっくり押し返してくる。


***


 村に向かう途中、声をかけられた。


「お嬢さん、パンかい」


 老婆だった。昨日、村の外れからわたしを見ていた人だ。腰が少し曲がっていて、白髪を一つに束ねている。皺だらけの手で杖をついている。


「はい。もう一度挑戦しようと思って」


「ご助言ありがとうございますわ」


 令嬢モード。でもこの人には通じなさそうな気がした。


「ま、あたしはトーバだよ。パンなら少しは知ってるさね」


 トーバ。名前を覚えた。


「前に窯を直してパンを焼いたのは見てたよ。あの時はうまくいったけど、窯の状態が良くなったせいでもあるだろう」


「見てたんですか」


「村中見てたよ。お嬢さんが窯を直したのは評判だからね。あれが続くかどうか、みんな気にしてる」


 見られていた。観察されていた。


 内心——師匠と呼びたい。おばあさんの方が百倍頼りになる。


 トーバは窯の前に立って、薪の組み方を見せてくれた。下に太い薪、上に細い枝。火をつけたら、手をかざして数える。


「三で耐えられないなら熱すぎる。五まで平気なら足りない。四がちょうどいい」


 わたしが知らなかった方法だ。こういうのは、本には載っていない。


「パンってのはね、生き物なんだよ」


 トーバの声は低いが、はっきりしていた。皺の奥の目が、窯の火を見ている。


「酵母も生き物、生地も生き物。焦ったら死ぬし、放っておいても死ぬ。ちょうどいい加減ってのは、何度もやらないと分からないもんさ」


 前の世界の知識だけでは足りなかった。温度管理の理屈は知っていても、「四で数える」感覚は知らなかった。トーバの皺だらけの手が薪の位置を直すたびに、窯の中の炎の色が変わる。経験が、体に染みついている。


 生地を窯に入れた。


 待つ。


 十分。


 匂いが変わった。穀物が焼ける、甘くて香ばしい匂い。


 二十分。トーバが窯の蓋をわずかに開けて中を覗いた。


「ま、使えるね。上等じゃないけど、使える」


 三十分。


「出しな」


***


 窯から取り出した。


 丸い、少しいびつな塊。表面は茶色で、黒い焦げはない。皮が厚い。ひびが入っている。完璧からは程遠い。


 でも、焦げていない。


「焦げてない」


 声が震えた。手も震えた。熱い塊を布ごしに掴んでいるのに、指先のわずかな振動が止まらない。


 屋敷の台所に持ち帰った。ヨルダが待っていた。


 包丁で切る。中身が見えた。詰まりすぎている。気泡が少ない。ふわふわとは言えない。でも生焼けではない。ちゃんと火が通っている。


 一切れ取って、口に入れた。


 粗い。食感がざらついている。でも噛むと、小麦の——いや、雑穀の風味が口の中に広がった。ほんのわずかに甘い。前回の共用窯での85点とは条件が違う。でも、屋敷の台所で焼いたにしてはずっとまし。前の世界のパンとも違う。この世界の、この材料の、この手で焼いたパンの味。


 50点。皮が厚すぎるし、中身が詰まりすぎてる。でも屋敷の台所では初めての成功だ。ここから上げていく。


「50点。50点だよロクス」


 ロクスが台所の入口に立っていた。いつの間に来ていたのか。


「お嬢様が50点のパンをこれほど喜ばれるとは。お嬢様の人生における最大の達成感が、50点で得られるとは、なんと効率のよい人生でしょう」


 ——「村の窯の85点と比べると低すぎ」って言いたいんでしょ。うるさい。あっちは修繕した窯あってこその85点。こっちは台所の竈での50点。文脈が違う。


「五十点ってとこだね」


 トーバが腕を組んで言った。「皮が厚すぎるし、中身が詰まりすぎてる。でもまあ、食えるパンだよ」


 食えるパン。食べられるパン。それだけで、わたしには十分だった。


 ヨルダが一切れ手に取った。噛んで、咀嚼して、飲み込んだ。


「パンですね。見た目は」


 辛口だ。でも前掛けで手を拭いた後、ヨルダはもう一切れに無言で手を伸ばした。


 二切れ目。何も言わずに。


 ロクスも手を伸ばした。白手袋のまま、一切れ取って、口に運ぶ。咀嚼する間、目を閉じた。


「いただきます」


 遅い。食べてから言わないで。


 トーバが笑った。皺が深くなって、目がほとんど見えなくなった。


 わたしも笑った。多分、ぎこちない笑顔だ。令嬢モードでもない、内心のにやにやでもない、ただ嬉しくて出た笑い。40点の笑顔。でも、台所で50点を出せなかった日には、笑う余裕すらなかった。


***


 温かさが残っている台所で、最後のパンのかけらを指で拾い上げた時だった。


 ロクスが一通の紙を差し出した。


「先ほど届きました」


 上質な紙。紋章入り。ガレド商会の紋章。


 開いた。


「品質管理に伴う供給量の一時的な調整」


 読み進める。要約すると、小麦の供給量を当面七割に制限する、と書いてある。理由は「品質管理」。


 嘘だ。パンが成功したからだ。


「失敗する未来が……いえ、これは失敗ではなく妨害ですね。対処法はお嬢様の方が得意かと」


 ロクスが淡々と言った。


 パンのかけらをまだ手に持っている。さっきまでの温かさが指先に残っている。50点の味が舌に残っている。なのに、その横にガレドの紋章入りの紙が置いてある。


 宣言する。わたしはガレドに余計なことを言わない。絶対に言わない。言わない。


 三回唱えた。焼き加減と同じだ。三回唱えないと忘れる。


 パンのかけらを口に放り込んだ。


 50点の味がした。台所の竈での、最初の成功の味。


 その横に、ガレド商会の紋章入りの紙が置いてある。


「品質管理に伴う供給量の一時的な調整」——嘘つけ。嫌がらせだろ、これ。

お読みいただきありがとうございました!


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