第11話「やらないと言ったのに、もう言ってる」
三枚の書面が、テーブルの上に並んでいた。
上質な紙に金の縁取り。丁寧な筆致で「品質管理に伴う供給量の一時的な調整」と書いてある。——要は「小麦を売ってやらない」。丁寧に書けば嫌がらせが嫌がらせじゃなくなると思ってるあたり、さすがガレドだ。
一枚目は小麦の供給を七割に制限する通告。二枚目は制限の根拠——領内での品質検査がどうのこうのと、もっともらしい理由が並んでいる。三枚目が一番すごかった。「今後の安定供給に向けた協議の場を設けたく」と書いてあるのだが、協議の日程が半年先になっている。
パン一つに、三枚の書面。
「まあ、品質管理ですか。それはご丁寧にありがとうございます」
声に出して読み上げた。棒読みだった。令嬢モードのつもりだったのに、棒読みにしかならなかった。品質管理って書けば嫌がらせが正当化されると思うなよ。
「ガレド殿は、お嬢様のパン作りの成功に大変な敬意を払っておられるようですね」
ロクスがお盆を片手に食堂に入ってきた。湯気の立つカップを二つ、テーブルにことりと置く。
「わざわざ三枚も書面をお送りになるとは。なかなかできることではございません」
「敬意じゃなくて敵意でしょ」
「敬意と敵意は紙一重でございますから」
紙一重どころか別物だ。わたしは書面の一枚を指先で弾いた。紙が厚い。滑らかで、指先にしっとりとした感触がある。こんなところに金をかけるのか、あの商人は。蝋印まで押してある。嫌がらせにも格式があるらしい。
「まずお茶をどうぞ」
ロクスがカップをわたしの前に押し出した。
「非常事態であっても、お茶の時間は別勘定です」
非常事態なのに。いや、この人にとってはお茶のほうが非常事態より重要なのかもしれない。カップを手に取ると、甘い花の香りがふわりと立ち上る。いつもの茶葉だ。ガレドの書面が三枚あろうが四枚あろうが、この人はお茶の品質だけは絶対に落とさない。
一口飲んだ。温かい。ほんの少しだけ、肩の力が抜ける。
***
「で、どうするの、これ」
お茶を半分ほど飲んだところで、わたしは書面に視線を戻した。やっと五十点のパンが焼けたのに。せっかくトーバに「使える」と言ってもらえたのに。酵母種だって五日もかけて育てたのに。
「代替の仕入れ先について、お嬢様がご自身で開拓なさるのであれば、私は全力でお茶を淹れてお待ちしております」
——つまり「自分でやれ、俺はお茶飲んでる」。いつも通りだけど、いつも通りすぎて逆に安心する自分がいる。
「辺境で小麦の仕入れ先なんて、ガレド以外にあるの」
「近隣にはございませんね」
「でしょうね」
腕を組んだ。考える。ガレドが小麦を握っている以上、正面からは打てない。交渉しようにも、あの男は半年先まで協議を引き延ばす気だ。三枚目の書面がそう言っている。
じゃあ、小麦を使わなければいい。
「小麦がなくても、パンは焼ける?」
「穀物であれば可能かと。稗、粟、あるいは——」
「あるの? うちに」
「台所の棚に、稗が二袋。粟が一袋。使われた形跡はございません」
立ち上がった。椅子の脚がガタンと鳴る。
「見に行こう」
「お茶が残っておりますが」
「持っていけばいい」
「行儀の悪いことを仰いますね」
その口調が少し楽しそうだったのは、気のせいだと思いたい。
それより——あいつ、パン一つに必死すぎない? ガレドのことだ。金縁の紙に蝋印まで押して、書面を三枚も送りつけて。たかがパンだ。たかがパンに、どれだけ本気で邪魔してくるつもりなのか。
「ロクス、ガレドさんに伝えて。小麦がなくても焼けるって」
言った瞬間、しまったと思った。
「それは余計なことの範疇かと」
「……あ」
昨日だ。昨日、わたしは誓ったのだ。ガレドに余計なことを言わない、と。ロクスに対して「もう言わない」と宣言した。昨日。たった一日前。
「わたしはガレドに余計なことを言わない。——と、昨日言ったばかりなんだけど」
「はい。確かに仰いました」
ロクスの声に笑いが混じっていた。隠す気もない。
「……もう言ってる」
「お嬢様の決意は、非常に鮮度がよろしいですね。一日と持たない点も含めて」
鮮度がいいって、刺身じゃないんだから。いや、刺身はこの世界にはないけど。反論したかったが、言い返す言葉が見つからなかった。だって事実だ。
***
台所の棚を開けた。
奥のほうに、茶色い布袋が三つ。埃をかぶっている。ロクスが言った通り、稗が二袋、粟が一袋。どちらもカルセド領の周辺で採れる穀物だ。小麦が高価な辺境では、こちらのほうがずっと一般的だったはずだ。
袋の口を開けた。布がほどけるくしゃりとした音。中身を手のひらに出すと、小さくて丸い粒が、指の間からさらさらとこぼれる。色は淡い黄色。小麦とは全然違う。触った感触も軽い。これで、パンが焼けるのか。
前の世界でも雑穀パンというものはあった。カフェのメニューで見たことがある。「ヘルシー」とか「栄養価が高い」とか書いてあった気がする。でもレシピは知らない。食べたことはあるが、作ったことはない。
知識はある。でも、足りない。
「前の世界だったらレシピを検索すれば終わるのに」
声に出してから、ロクスがいることを思い出した。振り返ると、ロクスは入口に立ってお茶を飲んでいた。わたしの独り言を拾う気はないらしい。ありがたい。
「稗と粟で焼くとなると、小麦とは勝手が違いますね。配合も、こね方も」
「知ってるの?」
「残念ながら、私はパンの専門家ではございません」
でしょうね。この人はお茶の専門家だ。
袋の中の粟を一粒つまんで、指先で転がした。乾燥していて、少しざらつく。穀物倉は乾いた埃っぽい匂いがする。古い木材と、長いこと使われなかった棚の匂い。ここにある材料だけでパンが焼ければ、ガレドの嫌がらせを回避できる。
でも、わたし一人じゃ分からない。
「誰かに聞くしかないか」
「トーバ殿なら、稗と粟でパンを焼いた経験がおありかと」
トーバ。あの口の悪い老婦人。五十点のパンに「皮が厚すぎるし、中身が詰まりすぎてる」と容赦のない採点をしてくれた人だ。
でも、「続けるなら」と言ってくれた人でもある。
明日、あの口の悪い老婦人をもう一度訪ねよう。今度は教えを乞いに。
——そう決めた矢先に、玄関のほうから母の声がした。
「ミレイアー? いる?」
この声のトーン。明るいのに、どこか探るような響き。わたしの背筋が自然と伸びた。
「ロクス、わたし今——」
「奥様がお嬢様のお部屋に向かわれるようです。お顔色から察するに、社交ではなく偵察かと」
「偵察って言うな」
言ったけど、否定はできなかった。母の足音が、廊下を近づいてくる。
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