第12話「わたしはわたしです——多分」
母が、わたしの部屋に来た。
それだけなら普通のことだ。普通のことのはずだ。ただ、母の目が笑っていなかった。
セラ・カルセド。この世界のわたしの母。社交的で、手紙を書くのが日課で、常に微笑んでいる人。その微笑みが今日は薄い。薄いというか、微笑みの下に別の表情が隠れている気配がする。
「あら、台所にいたの? 戻ってきたばかり?」
「はい、お母様。少し、気分転換にと思いまして」
にっこり。令嬢モード全開。気分転換じゃなくて生存のためだけど、そうは言えない。
「そう。最近、お料理なんて始めたのね。珍しいこと」
セラは部屋の椅子に腰かけた。招いた覚えはないのだが、この人は自分の家の全ての部屋が自分の部屋だと思っている節がある。脚を揃えて座り、手を膝の上で組む所作が流れるように美しい。貴族の母、という存在の見本のような人だ。
わたしは向かいの椅子に座った。膝の上で手を握る。じんわりと汗がにじんでいるのを悟られないように。
「お料理といっても、パンを焼いてみただけですわ。不器用なもので、なかなかうまくいきませんけれど」
「パン? まあ。どうしてまた」
どうしてまた。その質問が怖い。前のミレイアはパンなど焼かなかったからだ。前のミレイアは——何もかもどうでもいい、という目をしていた人だと、わたしは聞いている。ヨルダがそう言っていた。ロクスも似たようなことを匂わせていた。
「辺境の暮らしも、何か一つくらい自分でできることがあったほうがいいかしらと」
答えながら、声が少し上ずった。セラの目がわずかに細くなった。笑っているのか、観察しているのか。たぶん、両方だ。
「あなた、最近よく台所に出入りしているでしょう」
「はい。ヨルダに教わりながら、少しずつ」
「ヨルダに。あの子、厳しいでしょう」
「はい、それはもう」
本音が漏れた。セラが小さく笑った。目元に皺が寄る。その瞬間だけ、普通の母親に見えた。
でも、次の瞬間には戻っている。端正な顔の奥にある、何かを測る目。
***
「ねえ、ミレイア」
セラの声が、少し低くなった。
「あなた、前と変わったわね」
心臓の鼓動が速くなるのが分かった。表情は動かさない。動かしてはいけない。笑みを保つ。令嬢モードの笑み。
「変わった、ですか? どんなふうに」
「目よ」
セラが身を乗り出した。香水の匂いがふわりと届く。華やかで、少し甘すぎる。この世界の母の匂いだ。前の世界の母は——思い出せない。どんな匂いだったか。たぶん、思い出す必要もないくらい薄い関係だった。
「前はもっと、何もかもどうでもいいっていう目をしてたわ」
呼吸を止めないように気をつけた。息を止めたら怪しまれる。吸って、吐いて。普通に。
「今のあなたは違う。何かを見ようとしている目になってる」
セラの視線がまっすぐだった。微笑みの仮面の下にある、鋭い目。この人は社交の達人だ。人の表情を読むことに長けている。そして今、わたしの表情を読もうとしている。
「お母様、わたしはわたしです」
言った。声が震えなかったのは、奇跡に近い。
「辺境に来て、少し考えることが増えただけですわ。パンを焼いたり、お掃除を手伝ったり。新しいことを始めると、気持ちが変わるものですから」
もっともらしい説明だった。もっともらしいけれど、薄い。自分でも分かっている。
「そうかしら」
セラが首をかしげた。微笑んでいる。微笑んでいるけれど、目が笑っていなかった。
沈黙が落ちた。
この世界には時計がない。壁掛け時計も腕時計もない。だから沈黙の長さを測る術がない。セラが黙り、わたしが黙り、廊下の奥で古い床板がきしむ音がした。風が窓を揺らしている。窓の外で鳥が一羽鳴いた。それだけの時間。でも、その時間がひどく長く感じられた。
前の世界では、母と最後に話したのはいつだっけ。思い出せない。大学に入ってからは、月に一回電話するかしないかだった。話す内容もなかった。「元気?」「元気」。それだけの会話を、義務みたいにこなしていた。
セラは違う。この世界の母は、わたしを見ている。
それが嬉しいのか、怖いのか、まだ分からない。
***
セラが立ち上がった。
「お邪魔したわね」
「いいえ、お母様。いつでもいらしてください」
令嬢モードで返す。声は安定していた。安定していたけれど、膝の上の手はまだ汗ばんでいる。
セラが扉に向かう。背中を見送りながら、ゆっくりと息を吐いた。
終わった。乗り切った。たぶん。
セラは部屋を出る寸前に振り返った。
「そうそう。ヨルダに聞いたの。あなた、台所で酵母の話をしていたって」
微笑んでいた。微笑んでいたけれど、目が笑っていなかった。
「酵母の育て方を、ずいぶん詳しく説明していたそうね。まるで前から知っていたみたいに」
「……本で読みましたの」
「あら、そう。どの本?」
答えに詰まった。一瞬。ほんの一瞬だけ。
「書庫の、古い料理書だったかと」
「そう。今度わたくしにも見せてちょうだいね」
セラは微笑んだまま、部屋を出ていった。
足音が廊下の石を叩いて遠ざかる。遠ざかって、聞こえなくなる。わたしは椅子に座ったまま、しばらく動けなかった。
鏡があった。部屋の奥に、背の高い姿見。立ち上がって、その前に行った。
知らない令嬢の顔がこちらを見ている。淡い亜麻色の髪。白い肌。薄い青灰色の瞳。この顔が、わたしの顔だ。少なくとも今は。
頬に手を触れた。知らない肌の感触。柔らかくて、少し冷たい。前の世界の自分はどんな顔をしていたのか。もう思い出せなくなりかけている。
今日の演技、四点。笑顔のタイミングが〇・五秒遅かった。受け答えが具体的すぎた。特に酵母の件は危なかった。次回改善点——曖昧に微笑む練習。「まあ」と「あら」のレパートリーを増やす。
採点している場合じゃないのは分かっている。でも、こうやって点数にしないと、頭の中がぐちゃぐちゃになる。
セラは——この世界の母は、わたしを見ている。前の世界では、誰もわたしをこんなふうに見ていなかった。母も、父も、友人も。見ているようで、見ていなかった。それが普通だと思っていた。
窓の外を見た。夕暮れの空が紫色に染まっている。明日はトーバのところに行く。稗と粟でパンを焼く方法を聞きに。
やることがある。考えることがある。
「わたしはわたしです」と言った。セラに。
嘘じゃない。嘘じゃないけれど、本当でもない。わたしはわたしだ。多分。
——多分、でしかないのが、少し苦しい。




