第13話「味方が二人。多い? ……少ないか」
朝の村は、静かだった。
煙突から細い煙が上がり、老人が垣根の向こうで何かを干している。穏やかに見える。穏やかに見えるだけだ。
わたしは木板を胸に抱えて、トーバの家を目指した。稗と粟のパンの焼き方を、あの口の悪い老婦人なら知っているはず。
「トーバのところに行ってくる」
出がけにそう言うと、ロクスがお茶を淹れる手を止めた。
「つまりお嬢様は、前回五十点のパンを焼いた実績を武器に、七十歳の老婦人に弟子入りなさると」
「弟子入りって言い方やめて。教えてもらいに行くだけ」
「弟子入りと教えを乞うことの違いが、私にはいまひとつ」
「ニュアンスの問題。雰囲気の問題」
「左様ですか。なお、トーバ殿は口が達者な方ですので、お嬢様が泣いて帰る未来が一通り見えますが」
「泣かないし」
泣かない。たぶん。八割くらいの自信で。
ロクスは涼しい顔でお茶を飲んでいた。わたしが村に行く日は、いつもあの人は屋敷に残る。執事として屋敷を守っているのか、単にお茶が飲みたいだけなのか。たぶん後者だ。
***
トーバの家は村の外れにあった。石壁に苔が生えていて、入口の脇に干したハーブが束になってぶら下がっている。扉を叩くと、乾いた木の音が手のひらに返ってきた。中からしわがれた声がした。
「何しに来たんだい」
開口一番がそれだ。笑顔もない。白髪を後ろで束ねた老婦人が、皺だらけの手で扉を押し開けた。前回と同じだ。この人は挨拶の前にまず用件を聞く。
「稗と粟で、パンを焼く方法を教えてほしくて」
「ほう。小麦が止められたかい」
「ご存じなんですか」
「村中知ってるよ。ガレドがまたお嬢さんに嫌がらせしてるってね」
村中に知られていた。恥ずかしいような、腹が立つような。でも、隠し事ができない村というのは、こういうものなのかもしれない。
「お嬢さん、入りな」
トーバが身を引いた。家の中に入ると、乾燥したハーブの匂いが鼻を突いた。古い木の匂いに、薪の煙が染み込んだ匂い。暗い室内に目が慣れると、壁際に棚があって、瓶や袋が所狭しと並んでいた。
「座りな。お茶は出さないよ。うちは貧乏だからね」
「いえ、けっこうです。ありがとうございます」
令嬢モードが反射的に出た。トーバは鼻で笑った。
「そういうとこ、相変わらずだね。まあいいさ」
トーバは棚から袋を取り出して、テーブルの上に中身を出した。黄色い粒と、もう少し白っぽい粒。稗と粟だ。わたしが昨日台所で見たのと同じものだ。
「稗と粟だね。昔はこれでパンを焼いたもんだよ」
トーバの手が粒の上を滑った。皺だらけの指先が、粒を選り分ける。
「小麦みたいにふっくらはしないけどね。固いパンになる。でも、腹は膨れるし、日持ちもする。昔の辺境じゃ、こっちが当たり前だったのさ」
「配合は」
「稗が六、粟が四。水は少なめ。こねすぎるとぼそぼそになるから、手早くまとめるんだよ」
木板に炭筆で走り書きした。六対四。水は少なめ。こねすぎない。
「酵母は使えるの?」
「使えるけど、膨らみは期待しなさんな。種を少し入れて、一晩寝かせる。それで充分」
トーバの説明は端的で、無駄がない。聞いたことをそのまま板に書き留めていると、トーバがわたしの手元を覗き込んだ。
「あんた、字を書くのが好きだね」
「覚えておきたいので」
「昔のお嬢様なら、こんなことしなかったよ」
手が止まった。トーバの目がこちらを見ている。目尻の皺が深い。笑っているのか、値踏みしているのか。
「あの子は——まあ、言うのはやめとこうかね。あんたはあんただ。面白い子だよ」
何かを言いかけて、飲み込んだ。トーバの口調は変わらなかったが、「昔のお嬢様」という言葉が胸に引っかかった。昨日のセラの言葉と重なる。「前はもっと、何もかもどうでもいいっていう目をしてたわ」。
別の人間なのだから当然だ。でも、それを口にはできない。
「あんたが続けるなら、教えてやるよ」
トーバが稗の粒をわたしの手のひらに載せた。乾いた粒の感触が、指先にざらりと触れる。
「続けるなら、ね」
その声は穏やかだったけれど、目は真剣だった。笑うと皺が深くなって目がほとんど見えなくなるはずの顔が、今は皺の奥からまっすぐこちらを見ていた。
——「本気じゃないなら帰れ」ってことだ。厳しい。でも、嘘がない。
「続けます」
即答した。声が口から出るより先に、体が決めていた。
***
トーバの家を出て村の中を歩いていると、井戸のそばで足が止まった。
水汲みをしようと思ったのだ。トーバに教わった稗パンの材料を確認するのに、水がいる。桶を井戸の縄に引っかけて、下ろす。引き上げる。重い。前の世界でも重いものは苦手だったが、この世界の体力はそれ以下だ。腕がぷるぷると震えて、桶が井戸の縁に引っかかった。
「……あの」
声がした。振り返ると、若い男が立っていた。日焼けした肌に短い髪。がっしりした体格。手が大きい。農夫だろう。年はわたしと同じか、少し上くらい。
「井戸の水汲み、やっときましたけど」
言いながら、わたしの手から縄を取った。軽々と桶を引き上げる。わたしが苦戦していた重さを、片手で引いている。日焼けした腕の筋が動くのが見えた。
「あ、ありがとう……ございます」
「あら、ありがとうございます」
言い直した。令嬢モード。なんか距離感が分からない。前の世界のバイト先の後輩に話しかけるノリでいいのかな。いいわけないか。ここは異世界だ。
「名前は?」
「ニロっす」
ニロ。目が泳いでいる。頭の後ろを掻いている。嘘をつくのが下手そうな顔だ。
「……別に、大したことじゃないっすけど。手が空いてただけっすから」
桶を井戸の縁に置いて、ニロは一歩下がった。ぱしゃん、と桶の中の水が揺れて跳ねた。水滴がわたしの袖に飛ぶ。冷たい。
「お嬢さんが井戸で苦戦してるって、トーバのばあちゃんに聞いたんで」
「トーバさんが?」
「すぐ行けって言われたんで」
トーバ。あの人、わたしが井戸に寄ることを読んでいたのか。それとも、ニロに声をかける口実を作ってくれたのか。
どちらにしても。
ニロは大したことじゃないと言ったけれど、大したことだ。わたしにとっては。
遠巻きに、村人が何人かこちらを見ていた。目は合わない。表情も読めない。お嬢様の道楽だろう。どうせ続かない。そう思っているのかもしれないし、思っていないのかもしれない。分からない。
でも、ニロは手を貸してくれた。トーバは教えてくれた。
味方が、二人。
屋敷に戻ると、ミケが玄関のそばで丸くなっていた。わたしの足音で顔を上げて、のそのそと近づいてきた。抱き上げると、膝に乗った。柔らかい毛並みが手のひらに触れる。三毛猫のふくよかな体が、膝の上でじんわりと温かい。喉がごろごろと鳴っている。
「ミケ、聞いて。今日は味方が二人できた」
ミケは目を細めた。聞いているのかいないのか。
「二人。多い? 少ないかな」
にゃあ、とミケが鳴いた。返事になっていない。でも、返事がほしかったわけじゃない。誰かに話したかっただけだ。前の世界でも、猫カフェの猫にだけは話していた。嬉しいことも、嫌なことも。猫は聞いてくれる。返事はしないけれど、膝の上にいてくれる。
「前の世界では、猫カフェの猫しか味方いなかったから。それよりはマシか」
ミケの背中を撫でた。温かい。
今日の成果——トーバから稗パンのレシピ、七十点。ニロの協力意欲、不明。村人の反応、八点。
ドアの向こうからロクスの声がした。
「お嬢様、夕食の支度が整いました」
「今行く」
ミケが膝の上で丸くなった。トーバの言葉が頭に残っている。「続けるなら」。
続けるかどうかなんて、考えたこともなかった。だってここで暮らすしかないんだし。——でも、「暮らす」と「続ける」は、たぶん違うものだ。
暮らすのは、ここにいるだけ。続けるのは、ここで何かをすること。
その違いが分かったことが、今日いちばんの収穫かもしれない。
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