第14話「あんた、本当に人間?」
ロクスは、朝から機嫌がよかった。
正確に言うと、いつも通りの涼しい顔をしているのだが、お茶を淹れる手の動きがわずかに速い。わたしはこの執事の「機嫌のいいサイン」を、二週間で読めるようになった。
問題は、その理由がまるで分からないことだ。
「ロクス、何がそんなに楽しいの」
「お嬢様が昨日トーバ殿に弟子入りなさったことです」
「だから弟子入りじゃないって言ったでしょ」
「左様ですか。では教えを乞いに参られたと。結果として稗と粟のパンの焼き方を伝授され、さらに若い農夫に水汲みまでしていただいた。なかなかの収穫かと」
「伝授って大げさな。レシピを聞いただけ」
朝食の雑穀粥を匙で掬った。前よりはましになった。三十五点くらい。最初の五点に比べれば格段の進歩だが、人に出せるかと聞かれたら微妙な味だ。
「本日のお嬢様の予定は、雑穀パンの試作、屋敷の掃除、そしてガレド殿の書面への返信です」
「返信? わたし、返信なんて」
「なお、最後の項目は私から追加させていただきました」
「勝手に追加するな」
ロクスはカップを持ち上げた。口元がわずかに緩んでいるのが見える。この人は勝手に予定を追加しておいて、わたしが怒るのを楽しんでいる。二週間前なら気づかなかったが、今は分かる。分かるからこそ腹が立つ。
***
食堂の入口から、三毛の影がのそりと入ってきた。
ミケだ。丸い顔に丸い体。ふくよかという表現がぴったりの三毛猫が、わたしの足元にすり寄ってきた。膝に手を置いて、よじ登ろうとする。
「いい子ですわね」
令嬢モードで猫に話しかけた。言ってから気づいた。なんで猫にまで令嬢モード使ってるの、わたし。癖になっている。末期だ。
ミケを抱き上げて膝に乗せた。温かい。毛並みが柔らかい。この子はわたしには素直に甘えてくる。しかし。
ロクスがテーブルに近づいた瞬間、ミケの体がびくりと強張った。
毛が逆立つ。背中がぐっと持ち上がる。
「シャーッ」
ミケがロクスに向かって、鋭く威嚇した。
前もこうだった。この猫はわたしには懐くのに、ロクスにだけは絶対に近づかない。前は距離を取るだけだったが、今日は声を上げた。威嚇が一段階上がっている。
「勘のいい毛玉殿だ」
ロクスが呟いた。声は静かだった。いつもの煽る調子ではなく、淡々としている。
白い手袋をはめた右手が、すっと上がった。手袋の指先を引いて、位置を直す。何気ない仕草だ。癖なのだろう。ロクスはよくこれをやる。白い手袋を、きゅっと引き直す。
わたしの腕の中で、ミケの毛が少しずつ落ち着いていく。ロクスが一歩離れると、ミケはわたしの胸に顔をうずめた。喉のごろごろが戻ってくる。でも、ロクスのほうには絶対に目を向けない。
「なんでミケはロクスだけ嫌うんだろう」
「猫というものは、気まぐれでございますから」
「ミケは気まぐれというより、はっきりしてると思うけど」
ロクスは答えなかった。テーブルの上のカップを片付けながら、もう一度——白手袋を引き直した。右手。さっきと同じ仕草。
二回。朝食の間に二回。やっぱり癖だ。
***
午後、書庫に行った。
屋敷の書庫は狭い。棚が三つと、窓が一つ。古い革表紙の本が並んでいて、埃の匂いがする。窓の外から、風に乗って鍛冶の槌音がかすかに聞こえていた。村の方からだろう。羊皮紙に書かれた挿絵入りの本もある。辺境の屋敷にしては、それなりに本が揃っている。父が読書家だったのか、それとも先代が集めたのか。
ロクスが先に書庫に入っていた。
「お嬢様、こちらを」
一冊の本を差し出された。革表紙で、角が少し擦れている。
「この書物に、道の修繕に関する記述がございまして。偶然見つけましたが、お嬢様のお役に立つかもしれません」
偶然じゃないでしょ。——「探しといた。使え」ってことでしょ。素直じゃないのはどっちだ。わたしが素直じゃないと思われているけれど、この人のほうがよっぽど素直じゃない。
本を受け取った。革の表紙はざらざらしている。古い。でも、保存状態はいい。紙が少し黄ばんでいて、インクの文字が並んでいる。図解もある。石組みの道の断面図。排水路の作り方。わりと実用的な内容だ。
「ありがとう、ロクス」
「いえ」
ロクスが窓際に立った。午後の光が横から差し込んで、灰銀色の髪を照らしている。
そのとき、見えた。
ロクスの瞳が——一瞬だけ、金色に光った。
琥珀色のはずだ。いつも琥珀色をしている。少し明るい茶色に近い、透き通った色。それが、窓からの光を受けた一瞬だけ、金色に見えた。深い、鮮やかな金。
光の加減だ。光の加減だ。窓の角度と、午後の陽射しが、そう見せただけだ。
「ロクス」
「何でしょうか」
「あんた、本当に人間?」
軽口だった。深い意味はなかった。ミケに嫌われること、朝から機嫌がいい理由が分からないこと、白手袋を引き直す癖、そして今の瞳の色。全部合わせても、ただの冗談だ。
でも、ロクスが一瞬だけ止まった。
動きが止まった。手袋を引き直しかけた右手が、途中で静止している。
「……何を仰いますか」
間があった。いつものロクスなら、即座に返す。煽りか、丁寧語の仮面をかぶった切り返しか。どちらにせよ、間は空かない。この人の返事にはいつも淀みがない。
なのに、今、間が空いた。
「人間以外の何に見えるのですか」
声はいつも通りだった。涼しくて、丁寧で、感情の読めない声。白手袋を引き直す動作を完了させて、ロクスはこちらを向いた。琥珀色の瞳。金色ではない。いつもの琥珀色だ。
「いや、冗談。もういい」
笑って流した。流したけれど。
今の間、レア。ロクスが一瞬黙った。記録。
たまに、この人は本当に何を考えているか分からない。二週間で「機嫌のいいサイン」は読めるようになったのに、肝心なところはまるで見えない。涼しい顔の奥に何があるのか。白手袋の下に何があるのか。
考えすぎだ。たぶん。
光の加減だ。うん、そう。
本に目を落とした。石組みの道の作り方が図解付きで載っている。分かりやすい。分かりやすいけれど、必要な人手が「最低六名」と書いてある。
わたしと、ロクスと、ニロと。あと三人。あと三人、どこにいるんだ。
ロクスなら「一名はすでに心当たりがございます」とか言いそうだけど。
……あの人、本当に何者なんだろう。




