第15話「排水って、大事だったんだ」
鋤を振り下ろした。
固い土に刃先が噛み込み、肩に衝撃が走る。腕が痺れた。二回目でもう息が上がった。前の世界では腕立て伏せ三回が限界だったことを、今さら思い出した。
村の東の入口付近。道と呼ぶのも憚られる泥の地面を、なんとか平らにしようとしている。轍が深く刻まれていて、雨が降れば水たまりになり、乾けばでこぼこに固まる。荷馬車が通るたびに車輪がはまって動けなくなるらしい。
「お手伝いいただけますか」
ニロに声をかけた。令嬢モード。なんで鋤を借りるのにこの口調なんだ。もっと普通に言えばいいのに、体が勝手に。
「あ、はい。鋤、これっす」
ニロが持ってきた鋤は、わたしが使っているものより柄が太くて長い。木の柄は使い込まれて色が変わっている。ニロの手にはしっくり馴染んでいるが、わたしが握ると重心が高くて振りにくい。
「ニロ、ありがとう。助かる」
「いえ、別に。……あの、お嬢様が振ると、ちょっと危ないっすから。気をつけて」
ニロは頭の後ろを掻いて、少し離れたところに立った。手伝ってくれるわけではないらしい。見守る係。それでも、鋤を貸してくれただけで十分だ。
「ロクス、道の修繕の基本は」
「まず表面の土を均すこと。次に砂利を敷くこと。そして——」
「排水溝を掘ること。でしょ。昨日の本に書いてあった」
「その通りでございます。お嬢様は本の内容をよく覚えておいでですね」
覚えている。水は低い方に流れる。道の脇に溝を掘って、水を逃がす。それだけのことだ。前の世界では当たり前の知識だった。道路の脇に側溝があるのは、水を流すため。排水という概念。
ただ、覚えているのと実行できるのは、別の問題だった。
***
土を均した。砂利はないが、小石を集めてきて敷いた。ニロの鋤で轍を埋めて、足で踏み固めた。一歩ずつ、ぎゅっぎゅっと。
二時間が経った。
道は——まあ、それなりに見える。さっきよりは平らだ。轍も消えた。踏み固めた土の表面は、少なくとも見た目はましになった。
問題は排水溝だ。
道の脇に溝を掘る。幅は手のひら二つ分。深さも手のひら二つ分。長さは——道の端から端まで。
「……長い」
道の端から端を見渡した。遠い。果てしなく遠い。歩いて五分の距離だが、溝を掘るとなると話が違う。鋤の一振りで掘れる距離は、腕の長さ分くらいだ。何百回振れば端まで届くのか。考えるだけで腕が痛くなる。
わたしの体力は令嬢仕様だ。前の世界の体力にこの世界の令嬢の体力を掛け合わせると、掛け算しても弱い。控えめに言って、鋤を持つだけで筋肉が悲鳴を上げている。
「排水は……あとでいい。道が先」
口に出した。腕が限界なのだ。排水溝まで掘る体力が残っていない。道が平らになっただけでも進歩だ。
「お嬢様は、排水という概念を、ご自身のお口で説明なさった上で、それを後回しになさるおつもりですか」
ロクスが横から言った。
「大変斬新なご判断ですね」
「斬新って褒めてないでしょ」
「褒めております。お嬢様の独創性は、常に私の予想を超えてまいりますから」
褒めてない。絶対褒めてない。
「排水を省略した場合の不具合が三通りほど見えますが、どうぞお続けください」
「二通りに減らして」
「それはお嬢様のご努力次第です」
ロクスは涼しい顔だった。額に汗の一滴もない。わたしは全身汗だくなのに。この人は作業を手伝ってくれるわけでもなく、ただ横で的確な忠告を飛ばしてくる。忠告というか、煽り。丁寧語でくるまれた煽り。
でも、わかっていた。排水溝を掘らないとまずいことくらい、わかっていた。本にも書いてあった。「排水を怠ると雨季に道が流失する」と。
わかっていたのに。
——まあ、なんとかなるでしょ。
そう思った瞬間、気づいた。この言葉。この思考回路。前の世界のわたしだ。
面倒なことを後回しにする。大体でいいと自分を納得させる。本当は駄目だと分かっているのに、「なんとかなる」で蓋をする。前の世界で何度もやった。レポートの締め切り。部屋の掃除。人間関係。全部「まあ、なんとかなるでしょ」で誤魔化してきた。なんとかなった試しがないのに。
前の世界のわたしが、顔を出している。
でも、今日は体力の限界だった。腕が震えている。手のひらが赤く擦れて、ヒリヒリする。もう鋤を握る力が残っていない。
「よし、形にはなった」
道を見た。平らにはなった。小石も敷いた。排水溝はない。でも、一見するとまともな道に見える。
偽りの達成感が胸に広がった。
***
空に雲が出てきたのは、午後の遅い時間だった。
灰色の雲が西から流れてきて、あっという間に空を覆った。風が変わった。乾いた秋の風に、湿った匂いが混じり始める。
ぽつり。
頬に冷たいものが当たった。
ぽつり。ぽつり。
雨だ。
最初は小雨だった。ほんの霧雨。でも、五分もしないうちに本降りになった。大粒の雨が地面を叩く。音が変わる。乾いた地面を叩く硬い音から、泥を叩く鈍い音へ。
わたしが午前中かけて平らにした道が、見る間に変わっていく。
水が道の表面に溜まる。流れる場所がない。排水溝がないから。水は道の上を滑り、低いところに集まり、泥になる。踏み固めたはずの土が、雨に打たれてほぐれていく。小石が泥に沈んでいく。
「あ」
声が出た。小さく、情けなく。
轍が戻ってきた。水が流れた跡が、新しい溝を刻んでいる。朝のでこぼこの道に、少しずつ戻っていく。半日かけた作業が、雨の中で溶けていく。
「お嬢様の道は、予想通りの経過を辿っておりますね」
——要は「だから言っただろ」。わかってるから言わなくていい。でも、ロクスは言わずにはいられないのだろう。わたしだって、分かっていたのに。
この道、十五点。作業前が十点だったから、五点の上昇。五点のために半日かけたのか、わたし。
雨は強くなる一方だった。服が重い。髪が額に貼りつく。冷たい水が首筋を伝って、背中まで流れていく。惨めだ。惨めだけど、誰のせいでもない。自分のせいだ。分かっていたのに、やらなかった。
知っていたのに。
排水溝を掘れば防げると、知っていたのに。本で読んで、口で説明して、頭では理解していたのに。体が疲れたから。面倒だったから。「なんとかなるでしょ」と思ったから。
前の世界のわたしが、まだここにいる。
雨の中、ロクスが傘を差し出した。
いつの間に取りに行ったのか。大きな布張りの傘を、わたしの頭の上に広げている。煽りの言葉はなかった。予言もなかった。ただ、黙って傘を差している。
雨音が、傘の上で鳴っている。
「排水って、大事だったんだ」
わたしがそう言うと、ロクスは何も言わなかった。ただ、かすかに口の端が上がっていた。笑っているのか。笑っているのだろう。でも、いつもの煽りの笑みとは少し違う気がした。
泥になった道を見た。半日の成果が、雨に流されていく。悔しい。でも、壊れた理由は分かっている。直し方も分かっている。分かっていてやらなかったから、壊れた。次はやればいい。
——明日、もう一回やる。今度はちゃんと。
排水溝を掘る。面倒でも。腕が痛くても。「なんとかなるでしょ」は、もうやめる。
やめると言って、やめられるかどうかは別問題だけど。少なくとも、今日は身をもって学んだ。大体じゃ駄目なのだと。手を抜いたら壊れるのだと。
ロクスの傘の下で、わたしは泥だらけの道を睨んだ。雨はまだ降っている。冷たくて、うるさくて、容赦がない。
でも、明日は晴れるかもしれない。
晴れたら、掘る。今度こそ。
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