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辺境令嬢と、退屈知らずの執事  作者: 猫野ひかる
第1章「ここ、辺境です」

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第16話「三十点の道。でも昨日はゼロ点」

 朝日が昇る前に起きた。


 昨日の雨で崩れた道を、今日はちゃんと直す。排水溝を掘る。手を抜かない。言い聞かせながら鋤を握ったら、手のひらに昨日の水膨れが張り付いて、めちゃくちゃ痛かった。


 皮が薄くなったところに柄の硬い木が当たると、ぴりっと神経に障る痛みが走る。思わず手を離しそうになって、歯を食いしばった。


 駄目だ。離すな。昨日、排水溝を省略して全部流された。あの泥だらけの道を見て、もう手を抜かないと決めたのだ。


 鋤を振り下ろす。土に刃先が噛む。肩に衝撃。引き上げる。もう一度振り下ろす。朝の冷たい空気が肺を刺した。吐く息が白い。秋の朝はこんなに冷えるのかと、この体になって初めて知った。


 掘り返した土の匂いが立ちのぼる。湿った、生々しい匂い。新鮮なのか不快なのか判断がつかない。


 ただ、この匂いは「掘れている証拠」だ。


 それだけを頼りに、鋤を振り続けた。十回、二十回、三十回。腕の筋肉がぶるぶる震え始める。令嬢の体が鋤に向いていないことは昨日思い知ったけれど、知ったところで他に方法がない。


 排水溝。道の脇に幅は手のひら二つ分、深さも手のひら二つ分。長さは道の端から端まで。


 昨日は「長い」と呟いた時点で心が折れた。今日は呟かない。呟く余裕がないだけだとも言う。


***


 二時間ほど経ったところで、限界が来た。


 腕が上がらない。手のひらの水膨れが二つ増えた。掘れた距離は道全体の三分の一にも満たない。体力が尽きて、鋤の柄にすがるように立っていたら——


「手、足りてないっすよね」


 振り向くと、ニロが立っていた。日焼けした腕に自分の鋤を担いで、少し目を逸らしながら。


「ニロ」


「朝、見かけたっすから。道の修繕、また始めたんだなって」


「ありがとうございます。助かりますわ」


 令嬢モードが出た。反射的に。泥まみれの格好で令嬢モードを使っても説得力がない。手のひらは水膨れだらけ、服の裾は泥はね、髪にも土がついている。誰がどう見ても令嬢じゃなくて、畑仕事に失敗した見習い農婦だ。


「……まあ。暇っすから」


 ニロは短く言って、わたしの隣に立った。鋤を一振り。ざく、と重い手応えの音がして深く入る。わたしが三回かかる深さを、一振りで掘った。体格の差。筋力の差。当然だ。当然なのだが、少し悔しい。


 それから、遠くの畑から老人が一人、ゆっくり歩いてきた。何も言わず、スコップのような道具を手に溝の端を整え始める。名前は知らない。顔は見たことがある。村の共用窯の近くで、いつもひなたぼっこをしている人だ。


 手伝ってくれるのだ、と思った。


 声をかけてくれたわけでもない。頼んだわけでもない。ただ、来て、黙って作業を始めた。辺境の村の手伝いとは、こういうものらしい。義務ではなく、自発。言葉ではなく、行動。


「お茶の時間です」


 ロクスの声がした。


 振り向くと、あの人が茶器を手に立っている。白手袋に汚れひとつない。泥の道のすぐ横で、日常の顔をしている。


「泥の中であっても、お茶はお茶です」


「今日だけは黙って手伝ってって言ったのに」


「手伝っております。お茶係として」


 反論できない。お茶係という概念を今初めて聞いたが、反論する材料がない。


 泥だらけの手でカップを受け取った。温かい。指先から腕まで、じわりと温もりが伝わる。口をつけると、いつもの薬草茶だった。ほんの少しだけ甘い。泥の匂いの中で飲むお茶は、台所で飲むのとは違う味がした。体の芯まで染みる、というのはこういうことかもしれない。


 ニロが横目でこちらを見て、何か言いたそうにしていたが、結局黙って作業に戻った。


***


 日が傾き始める頃、排水溝が道の端から端まで繋がった。


 完璧ではない。深さにばらつきがあるし、幅も一定じゃない。ニロが掘った区間はきれいだが、わたしが掘った区間はいかにも素人の仕事だ。それでも、溝は溝だ。水の逃げ道はできた。


 路盤もやった。昨日の本に書いてあった通り、石を敷いてから土を被せた。石が足りないところは大きめの砂利で代用した。踏み固めて、踏み固めて、また踏み固めた。足の裏が痛い。でも、昨日よりは硬い道ができている。


 三十点。


 昨日崩壊した道が五点。その前の作業前が十点。今日が三十点。つまり二十点の上昇。半日と人手をかけて二十点。悪くない。悪くないけど、百点まであと七十点。何日かかるんだ。


「三十点っすか」


 ニロが聞いた。


「三十点。でも昨日はゼロ点だった」


「ゼロっすか。厳しいっすね」


「雨で全部流されたからね」


 ニロは排水溝をじっと見た。


「まあ。水、流れてるんで」


 短い言葉だった。でも、それだけで十分だった。


 排水溝を、確かに水が流れている。さらさらと、細い水音を立てて。昨日までは道の上を走って泥にしていた水が、今は溝の中を流れて脇に抜けていく。たったそれだけのことだが、目に見える結果だった。


 手を洗おうと、溝の水に手を伸ばした。冷たい。指先がぴりっと痺れる。泥が流れ落ちて、水膨れだらけの手のひらが現れた。赤くて、ふやけて、ひどい見た目だ。でも、この手で掘った溝に水が流れている。


 遠くで鶏が鳴いた。夕方だ。日が西に傾いて、道の上に長い影が伸びている。


 ニロと老人に頭を下げた。令嬢モードではなく、ただ素直に。


「ありがとう。本当に」


「……いえ。別に」


 ニロは頭の後ろを掻いて、目を逸らして、自分の鋤を担いで帰っていった。老人も無言で頷いて、畑の方に消えた。


***


 屋敷に戻ると、もう一歩も動けなかった。


 食堂の椅子に座って、というよりは崩れ落ちて、テーブルに額をつけた。冷たい木の感触が心地いい。全身が痛い。腕、肩、背中、足。手のひらは水膨れが五つに増えた。昨日の三つと合わせて八つ。勲章、とは呼びたくない。ただの怪我だ。


 夕食の雑穀粥がテーブルに置かれた。前よりは少しましになっている。四十点くらい。匙を握るのも辛かったが、空腹には勝てない。


「お嬢様は本日、泥まみれになりながら溝を掘り、水膨れを三つ増やし、村人に顔を覚えられました。大変生産的な一日でしたね」


 ロクスが言った。


「生産的って、からかってるでしょ」


「まさか。私は事実を申し上げただけです」


 ——「よくやった」ではないな。せいぜい「面白いものを見た」くらいだろう。この人の褒め言葉は、毎回二段階で噛み砕かないと意味が取れない。


「明日はお体を休められた方がよろしいかと」


 ——要は「明日動いたら倒れるぞ」。否定できない。今この瞬間も、匙を持つ手が震えている。


「……考えとく」


「お嬢様が『考えとく』とおっしゃった場合、翌朝には忘れていらっしゃることが多いかと」


「忘れないよ。たぶん」


 たぶん忘れる。でも、今日はちゃんとやった。排水溝を掘った。手を抜かなかった。昨日の自分より、ほんの少しだけまし。


 三十点の道。百点には程遠い。でも昨日はゼロ点だった。


 その差は、大きい。


 翌朝、ロクスが持ってきた手紙を開いて、わたしは固まった。


「ガレド殿が、当家の借金の一部を買い取ったと。債権者でもあらせられるようです」


 三十点の道を作った翌日に、これだ。

お読みいただきありがとうございました!


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