第17話「笑えなくなった」
ガレドが、予告なしで来た。
玄関の扉を開けたロクスの後ろに立つ影を見た瞬間、胃の奥がきゅっと縮んだ。小太りの体躯、額の広さ、脂ぎった笑み。あの男が予告なしで来るとき、いい話を持ってくるはずがない。
客間に通した。いや、通さざるを得なかった。貴族の家に来た客を追い返すわけにはいかない。辺境であっても、最低限の作法というものがある。
***
客間のテーブルにガレドが座ると、古い部屋の匂いの中に、甘ったるい香水の匂いが混じった。不快だ。ガレドの匂いは、いつもこの部屋の空気に合わない。
「まあ、債権者でもいらっしゃいますか。それはそれはご多忙ですこと」
棒読み。我ながら棒読み。でも顔だけは崩すな。崩すな、わたし。
「いやぁ、ミレイア嬢。お忙しいところ恐れ入ります」
ガレドが笑った。あの笑い。目の奥だけ鋭い。
「商売は信用が第一でしてねぇ。カルセド家との長いお付き合いを考えますと、少しでもお力になれればと」
——「おまえの家の弱みを握りに来た」ってことでしょ。わたしだって馬鹿じゃない。ガレドが「お力になる」と言った時、それは自分の利益に繋がる時だけだ。
ガレドの太い指が、懐から書面を取り出した。蝋印の押された、しっかりした紙。金縁ではないが、公的な書面に使う上質な紙だ。
「こちらを」
テーブルの上に書面が置かれた。乾いた、硬い音がした。
債権譲渡証明書。
文面を目で追う。「カルセド家が負うシュタイン子爵家への債務の一部について、当方が正当に譲渡を受けたことを証明する」。蝋印。シュタイン子爵家の紋章と、ガレドの商会の印。日付は十日前。
十日前。わたしが泥だらけになって道を修繕していた頃、ガレドはこの書面を用意していたのだ。
「返済計画をお聞かせ願えますかな?」
ガレドの声が、柔らかく響いた。柔らかいからこそ、たちが悪い。怒鳴られた方がまだ対処しやすい。丁寧な圧力には、丁寧に返すしかない。
「現在、領地の改善に着手しております。食事の改善、道の修繕、いずれも進めておりますわ」
「それはそれは。しかし、返済というのは具体的な数字でございましてね」
ガレドの指先がテーブルを軽く叩いた。とん、とん、と。リズミカルに。まるで時計の針が進む音のように。
「あまり長くはお待ちできませんが」
笑顔のまま言い切った。その笑顔に勝者の色が混じっている。商人としてだけではない。債権者として。わたしの家の借金を握る者として。
物資を止めて、その上で金も握る。二重の圧。逃げ場がない。
***
ガレドが帰った後も、客間の香水の匂いが残っていた。玄関の扉が閉まる重い音が、廊下の奥まで響いた。
テーブルの上に債権譲渡証明書が残っている。蝋印が、燭台の光を反射してぬるりと光った。
わたしは椅子に座ったまま動けなかった。
頭の中で、数字が回り始めた。
半年後。改善なし。監査官が取り潰しを勧告する。借金の返済が滞る。ガレドが残りの資産を差し押さえる。父と母はどうなる。使用人たちは。ヨルダは。ペトラは。トーバやニロは、別に困らないか。でも村の物資はガレドに握られたままだ。
ロクスは。
ロクスは、きっとまた別の家に仕えるのだろう。あの人は、どこでもやっていける人だ。どんな主人にも合わせられる。涼しい顔で、お茶を淹れて、丁寧語で煽って。次の主人もきっと翻弄されるのだろう。
わたしだけが、どこにも行けない。
前の世界に帰る方法なんて知らない。この世界で路頭に迷ったら、本当に終わりだ。
手がテーブルの上で握りしめられている。気づいた時には、爪が手のひらに食い込んでいた。昨日の水膨れの上に。痛い。痛いのに、力を抜けない。
ロクスが黙っていた。
いつもの煽りがない。予言もない。ただ、少し離れた位置に立って、こちらを見ている。目が笑っていない。いつもは何かを面白がっているあの琥珀色の目が、今は静かだった。
ロクスが黙ってる。いつもの煽りもない。それが、一番怖い。
窓の外を見た。灰色の空。朝はもう少し明るかったはずだ。雲が厚くなっている。また雨が来るのだろうか。三十点の道は、今度は排水溝があるから崩れないはずだ。崩れない、はず。でも道が残ったところで、借金は残る。
沈黙が続いた。時計がないから、時を刻む音もない。暖炉の薪が小さく爆ぜた。それだけ。ただ、自分の呼吸だけが聞こえる。浅い呼吸。早い呼吸。落ち着け、と自分に言い聞かせても、体が言うことを聞かない。
笑えない。
いつもなら、こういう時こそ笑い飛ばす。「最悪だ」と言いながら採点して、点数をつけて、数字にして処理する。そうやって乗り越えてきた。前の世界でも、この世界でも。
でも今日は、点数がつけられない。つけようとすると、「半年後に全部失う」という映像が先に浮かぶ。笑えるレベルを超えていた。
***
「お嬢様」
ロクスの声が聞こえた。
静かな声だった。煽りの温度がない。ただ、名前を呼んだだけ。
「……何」
「お茶が冷めます」
テーブルの上を見た。いつの間にか、カップが置かれていた。湯気はもう立っていない。冷めている。いつ淹れたのだろう。ガレドがいた時にはなかった。帰った後に淹れたのか。それとも、もっと前に。
手を伸ばした。カップは冷たかった。口をつけた。苦い。いつもより苦い。冷めた薬草茶の苦味が、舌の上に広がる。
まずい。
まずいけど、飲める。
一口飲んで、息を吐いた。長く、深く。体の中に溜まっていた何かが、少しだけ抜けた気がした。
ロクスを見た。あの人は、わたしが崩れるのを待っているのではない。立ち上がるのを待っている。煽りもしないのは、今はそういう時間じゃないと分かっているからだ。この人は、そういう人だ。
冷めたお茶をもう一口飲んだ。苦い。でもさっきよりは飲みやすい。
「……まずい」
「冷めましたから」
「知ってる」
それ以上、何も言わなかった。ロクスも何も言わなかった。それでよかった。
***
自室に戻った。
窓の外を見たら、灰色だった空の端が、ほんの少しだけ明るくなっていた。雲が切れかけている。夕日が差すには足りないけれど、真っ暗ではない。
今日は笑えなかった。
その自覚があった。いつもなら笑い飛ばす。点数をつけて、ツッコミを入れて、軽くして処理する。今日はそれができなかった。
でも、泣いてもいない。
泣かなかったのは、泣いてる暇がなかったからだ。泣いて何が変わるわけでもない。ガレドは待ってくれないし、監査官の期限は縮まらない。泣いている時間があるなら、一つでもやれることを考えた方がいい。
木板を取り出した。使い慣れた手触り。角が少し欠けている。炭筆を握った。指先に炭の粉がつく。
書き始めた。
やれること。やらなきゃいけないこと。やりたいこと。
全部違うことが書いてある。全部を同時にはできない。
——まず、何をする。
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