第8話「この家の借金、年収の五倍」
改善勧告書の十七項目を木板に書き写した。
書き写して、気づいた。半分以上が「財政に関する記録の不備」だ。
つまり、まずお金の話をしないと何も始まらない。聞きたくないけど。
「ロクス、この家の帳簿って本当にないの」
「帳簿という形式のものは存在しません。ただ、旦那様が過去に結ばれた契約書は、書斎の棚に」
「契約書はあるの」
「おそらく」
おそらく。この家では「おそらく」と「まあ」が多すぎる。
***
「お父様、お時間をいただきたいのですが」
令嬢モード。書斎の扉を開けると、いつもの光景だった。
古い本が積み上がった部屋。日の当たらない窓際の椅子に、ベルクが座っている。本を開いているが、ページは同じ場所のまま。書斎全体に古い紙とインクの匂いが漂っていて、時間が止まったみたいだった。埃が窓の隙間から差す細い光の中をゆっくり舞っている。この部屋だけ、季節が進んでいない。
内心——帳簿出して。契約書出して。ついでにやる気出して。
「何だ」
「この家の財政について確認したいことがあるのですが」
「ああ」
「帳簿は」
「ないな」
「収支の記録は」
「記録する気がなかった」
この人、清々しいほど投げやりだ。
「監査官が来たんです。半年以内に改善しないと取り潰すと」
「ああ。そうか」
そうか、じゃない。
「お父様」
「まあ、好きにやれ」
またそれだ。「まあ、好きにやれ」。この言葉を何回聞いたか。
でも怒る気にならなかった。不思議と。この人に怒っても、のれんに腕押しだと分かってしまっている自分がいる。
「契約書なら棚の奥にあるぞ」
投げやりにベルクが顎で示した。書斎の奥の棚。積まれた本の裏に、古びた革の束が見える。革紐で括られた束が三つ、棚の奥に押し込まれるようにして置かれていた。触れると微かに湿った冷たさが指に伝わった。
「いただきます」
「好きにしろ」
***
契約書の束を食堂のテーブルに広げた。
ロクスが横に立っている。白手袋の指が、古い紙を一枚ずつ丁寧にめくっていく。
一枚目。穀物の買い取り契約。相場の三割増しで買い取る義務。
「高い。何でこんな条件で」
「旦那様は若い頃、大変お気前がよくていらっしゃいましたので」
二枚目。花植え義務。年に一度、屋敷の庭に特定の花を植え、その花を債権者に届ける契約。
「花植え義務って何。なんで貴族が花を植える契約してるの」
「旦那様は若い頃、大変お花がお好きだったようですね。……今は本がお好きですが」
三枚目。鶏十羽の供出義務。年に十羽を指定の家に届ける。
「鶏。十羽。どこにそんな鶏がいるの」
「いませんね」
「いないのに契約してるの」
「そのようです」
四枚目。五枚目。六枚目。
井戸の設置費用の負担契約。道路の補修費の分担契約。祭事の際の寄付の義務。
「まだあと三束ほどあります。お覚悟を」
ロクスが涼しい顔で言った。白手袋で次の束を持ち上げる。
この契約書の合理性、マイナス50点。お父様の判断力、当時推定200点。今の判断力、3点。
古い羊皮紙の紙質が指先でぼろぼろと崩れた。蝋印は変色して、インクも褪せている。何十年も前の契約だ。何十年も前にこの人が、何を考えてこんな契約をしたのか。
束の中から、達筆な署名が書かれた契約書が出てきた。他のものより紙が上等だ。
シュタイン子爵。
「ロクス、これ」
「ああ。シュタイン子爵でございますね」
「この人は?」
「善い方ですよ。善い方だからこそ、厄介なのですが」
——「敵じゃないけど味方でもない。しかも頭がいい」。一番面倒なやつだ。
契約の内容を読み解く。借金。カルセド家からシュタイン子爵への借入金。利子は低いが元本が大きい。返済期限は——もう過ぎている。
「ロクス、この借金の総額は」
ロクスが計算する間を置いた。白手袋の指が紙の上を滑る。
「年間収入のおよそ五倍、でございましょうか」
五倍。
年収の五倍の借金。
「いやいやいや」
声が裏返った。
書斎の方から、本を落とす鈍い音が聞こえた。お父様、今この状況で本を落としてる場合じゃないんだけど。
***
食堂の窓際に座り込んだ。背中を壁に預けて、冷たい石の感触に少しだけ落ち着く。炭筆を握って、木板を膝に載せている。
議題。カルセド家、存続アリかナシか。
弁護側の主張。パンが焼けるようになった。
検察側の主張。年収の五倍の借金。
裁判長。……閉廷しよう。
いや待って。閉廷したら終わりだ。
お茶を一口飲んだ。苦い。今日のお茶は全部苦い。
「ロクス」
「はい」
「お父様は、昔から、ああだったの」
ロクスが一拍、間を空けた。白手袋の指先を揃え直す仕草。
「旦那様は、若い頃は色々やっておられました」
「色々って」
「色々です」
ベルクが、若い頃は色々やった。書斎の本の山。花植えの契約。鶏十羽。合理性のかけらもない契約書の数々。でもそれは裏を返せば、何かをやろうとした痕跡だ。
この人にも何かあったのだ。やる気を失う何かが。
今のわたしが知るべきことではない、のかもしれない。でも頭の隅に引っかかった。
「保留」
「は?」
「裁判、保留。弁護側の証拠が少なすぎるから、追加審理する」
「裁判、でございますか」
「脳内裁判。存続アリかナシかの」
「ほう」
ロクスが口元を動かした。笑ったのか、呆れたのか。窓の外では夕暮れが始まっていて、食堂の石壁がうっすらと橙色に染まっていた。
「保留ってことは、まだ終わってないってことだから」
「さようですか」
「さようです」
契約書を全部集めた。食堂のテーブルの上に広げたまま。
二十三枚。借金の総額は、年間収入の五倍以上。
半年で十七項目を改善し、さらに借金をなんとかしなければ、この家は潰れる。
なんとかなる? なんとか、なる?
答えが出ないまま、わたしは契約書の束を抱えて自室に戻った。炭筆の粉が指先に黒く残っていた。
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