表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
辺境令嬢と、退屈知らずの執事  作者: 猫野ひかる
第1章「ここ、辺境です」

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
7/53

第7話「帳簿はどこですか——ありません」

 馬車の音が聞こえたのは、朝食の粥を飲み込んだ瞬間だった。


 ロクスが「お客様です」と告げるその声に、いつもと違う硬さがあった。


「誰」


「王国監査官殿です。予定より、三日ほど早い到着ですね」


 三日早い。準備する時間なんてなかった。そもそも準備するものがない。


「お嬢様、指摘される項目の予想は二十ほどですが」


 二十。


「多すぎない?」


「控えめな見積もりでございます」


 ——「もっとある」ってことだ。


 急いで身支度を整える。髪をまとめて、エプロンを外して、令嬢っぽいワンピースに着替える。鏡で確認。淡い亜麻色の髪、薄い青灰色の目。令嬢の顔はしている。中身が追いついていないだけだ。


***


 客間の扉を開けた。


 男が椅子に腰かけていた。


 痩せた体に地味な官服。短く刈った髪。目の下に薄い隈がある。書類の束を膝に載せ、すでにペンを構えている。到着してから一分も経っていないのに、もう仕事を始める態勢だ。


「ようこそいらっしゃいませ、監査官殿」


 令嬢モード最大出力。心の中では動悸がうるさい。令嬢の体の心臓、もうちょっと静かにならないの。


「カルセド嬢。私はラディスと申します。王都監査局より派遣されました」


 立ち上がりもしない。挨拶の頭も下げない。声が平坦だ。感情を削り取ったような口調。


「まず、帳簿の確認をいたします」


「帳簿、ですか」


「帳簿です。収支の記録、歳入歳出の一覧、租税納付の控え。いずれでも結構です」


 わたしはロクスを見た。ロクスが目を伏せた。


「……ありません」


「ない」


「ございません」


 ラディスのペンが紙の上を走った。さらさらと、一行。


「記録に残します」


 その声に温度がなかった。怒りでも呆れでもない。ただ「事実として記録する」という意思だけが載っている。


 ——「記録に残します」、つまり「アウト」。何回記録する気なのこの人。


「では、現地を確認しましょう」


 ラディスが立ち上がった。書類の束を小脇に挟み、ペンを持ったまま。目が客間を一周した。壁紙の剥がれ、燭台の錆、窓枠の歪み。


「この客間は」


「はい」


「記録に残します」


 二回目。


***


 屋敷の案内が始まった。地獄だった。


 大広間。雨漏りの染み。「記録に残します」


 東棟への廊下。壁のひび割れ。「記録に残します」


 庭。膝までの雑草。ラディスの表情が一切変わらない。ペンだけが紙の上を走り続けている。


 わたしは横を歩きながら、冷や汗が止まらなかった。指先が冷たい。分かっていた。屋敷の状態がひどいことは分かっていた。でも他人の目で、事務的に一つずつ指摘されると、息が詰まる。


「台所は」


 台所の入口で、ヨルダが腕を組んで立っていた。低い声で「……ああ」と漏らしただけだ。監査官の視線を受けて、前掛けの紐を引き直す。


 ラディスが台所を見回した。かまどの状態。棚の食材。水瓶。


「この領地で唯一、機能している設備のようですね」


 褒めているのか、皮肉なのか分からない。多分、どちらでもない。事実だ。


「お茶をお出ししてよろしいですか」


 ペトラが丁寧に淹れた茶を、盆に載せて差し出した。湯気が立ち上っている。


 ラディスは一瞥した。そして手をつけなかった。


 ペトラが小さくうなずいて、盆を下げた。何も言わない。でも少しだけ、肩が下がっていた。


***


 客間に戻った。


 ラディスが書類を広げた。紙の厚みが、公文書の重みを物語っている。


「カルセド嬢。率直に申し上げます」


「はい」


「この領地の状況は、看過できる水準にありません。帳簿の不在、設備の劣化、歳入の把握すら行われていない。行政単位としての最低要件を満たしておりません」


 一文ごとに、くさびを打ち込まれるような重さだった。


「半年以内に改善が見られなければ、取り潰しを勧告いたします」


 取り潰し。


 その二文字が、重石のようにテーブルの上に落ちた。


「こちらが改善勧告書です」


 テーブルの上に、一枚の厚い紙が置かれた。堅い筆跡で項目が並んでいる。数字が、文字が、目の前でぐるぐる回っている。


「記録に残します」


 三度目のその言葉を最後に、ラディスは椅子から立ち上がった。


「星の導きを」


 形式的な別れの挨拶。ラディスは書類を鞄に収め、振り返りもせずに客間を出た。


 馬車の車輪が砂利を踏む音が遠ざかっていく。屋敷の前庭を通り、門を抜け、道の向こうへ消えた。


 静寂が戻った。


 わたしは改善勧告書を見つめていた。


 もし半年後に失敗したら。取り潰される。家を追い出される。行くあてがない。路頭に迷う。その先は——。


 やめよう。考えるのやめよう。考えたら止まる。止まったら終わる。


「お嬢様」


 ロクスの声が、思考を遮った。


「半年って、短すぎない?」


「お嬢様の時間感覚でございますか。半年はちょうど季節が二つ変わる程度です」


 間があった。ロクスが窓の外を一瞬だけ見て、戻った。


「パンを焼くのに三日かかったことを考えますと、なかなかの挑戦ですね」


 煽りだ。これは煽りだ。でもその煽りの中に、いつもの温度がある。面白がっているのではなく——いや、やっぱり面白がっているのかもしれない。でもそれが今は、少しだけ救いだった。


「なかなかの挑戦、ね」


 冷めたお茶に口をつけた。渋い。渋いけど、飲めなくはない。


 窓から見える庭の雑草が、夕日を受けて揺れていた。ぼうぼうに伸びた雑草なのに、光の加減でほんの少しだけ、きれいに見えた。


「ゼロじゃない」


「は?」


「ゼロじゃないよ。パンは焼けた。台所は動いてる。ゼロじゃないから、まだ終わってない」


「さようですか」


 ロクスがそっと改善勧告書を整えた。角を揃えて、テーブルの端に置く。白手袋の指先が紙の端を正確に合わせていく。


 改善勧告書を広げた。


 項目は十七個。全部ダメだと書いてあった。


 半年で、十七個。一つも解決できなかったら、この家は終わる。


 わたしは炭筆を取った。まず、何からやる?

お読みいただきありがとうございました!


この話の点数、いかがでしたか?

【☆☆☆☆☆】やブックマークで採点いただけると、作者の執筆意欲が50点くらい上がります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ