第7話「帳簿はどこですか——ありません」
馬車の音が聞こえたのは、朝食の粥を飲み込んだ瞬間だった。
ロクスが「お客様です」と告げるその声に、いつもと違う硬さがあった。
「誰」
「王国監査官殿です。予定より、三日ほど早い到着ですね」
三日早い。準備する時間なんてなかった。そもそも準備するものがない。
「お嬢様、指摘される項目の予想は二十ほどですが」
二十。
「多すぎない?」
「控えめな見積もりでございます」
——「もっとある」ってことだ。
急いで身支度を整える。髪をまとめて、エプロンを外して、令嬢っぽいワンピースに着替える。鏡で確認。淡い亜麻色の髪、薄い青灰色の目。令嬢の顔はしている。中身が追いついていないだけだ。
***
客間の扉を開けた。
男が椅子に腰かけていた。
痩せた体に地味な官服。短く刈った髪。目の下に薄い隈がある。書類の束を膝に載せ、すでにペンを構えている。到着してから一分も経っていないのに、もう仕事を始める態勢だ。
「ようこそいらっしゃいませ、監査官殿」
令嬢モード最大出力。心の中では動悸がうるさい。令嬢の体の心臓、もうちょっと静かにならないの。
「カルセド嬢。私はラディスと申します。王都監査局より派遣されました」
立ち上がりもしない。挨拶の頭も下げない。声が平坦だ。感情を削り取ったような口調。
「まず、帳簿の確認をいたします」
「帳簿、ですか」
「帳簿です。収支の記録、歳入歳出の一覧、租税納付の控え。いずれでも結構です」
わたしはロクスを見た。ロクスが目を伏せた。
「……ありません」
「ない」
「ございません」
ラディスのペンが紙の上を走った。さらさらと、一行。
「記録に残します」
その声に温度がなかった。怒りでも呆れでもない。ただ「事実として記録する」という意思だけが載っている。
——「記録に残します」、つまり「アウト」。何回記録する気なのこの人。
「では、現地を確認しましょう」
ラディスが立ち上がった。書類の束を小脇に挟み、ペンを持ったまま。目が客間を一周した。壁紙の剥がれ、燭台の錆、窓枠の歪み。
「この客間は」
「はい」
「記録に残します」
二回目。
***
屋敷の案内が始まった。地獄だった。
大広間。雨漏りの染み。「記録に残します」
東棟への廊下。壁のひび割れ。「記録に残します」
庭。膝までの雑草。ラディスの表情が一切変わらない。ペンだけが紙の上を走り続けている。
わたしは横を歩きながら、冷や汗が止まらなかった。指先が冷たい。分かっていた。屋敷の状態がひどいことは分かっていた。でも他人の目で、事務的に一つずつ指摘されると、息が詰まる。
「台所は」
台所の入口で、ヨルダが腕を組んで立っていた。低い声で「……ああ」と漏らしただけだ。監査官の視線を受けて、前掛けの紐を引き直す。
ラディスが台所を見回した。かまどの状態。棚の食材。水瓶。
「この領地で唯一、機能している設備のようですね」
褒めているのか、皮肉なのか分からない。多分、どちらでもない。事実だ。
「お茶をお出ししてよろしいですか」
ペトラが丁寧に淹れた茶を、盆に載せて差し出した。湯気が立ち上っている。
ラディスは一瞥した。そして手をつけなかった。
ペトラが小さくうなずいて、盆を下げた。何も言わない。でも少しだけ、肩が下がっていた。
***
客間に戻った。
ラディスが書類を広げた。紙の厚みが、公文書の重みを物語っている。
「カルセド嬢。率直に申し上げます」
「はい」
「この領地の状況は、看過できる水準にありません。帳簿の不在、設備の劣化、歳入の把握すら行われていない。行政単位としての最低要件を満たしておりません」
一文ごとに、くさびを打ち込まれるような重さだった。
「半年以内に改善が見られなければ、取り潰しを勧告いたします」
取り潰し。
その二文字が、重石のようにテーブルの上に落ちた。
「こちらが改善勧告書です」
テーブルの上に、一枚の厚い紙が置かれた。堅い筆跡で項目が並んでいる。数字が、文字が、目の前でぐるぐる回っている。
「記録に残します」
三度目のその言葉を最後に、ラディスは椅子から立ち上がった。
「星の導きを」
形式的な別れの挨拶。ラディスは書類を鞄に収め、振り返りもせずに客間を出た。
馬車の車輪が砂利を踏む音が遠ざかっていく。屋敷の前庭を通り、門を抜け、道の向こうへ消えた。
静寂が戻った。
わたしは改善勧告書を見つめていた。
もし半年後に失敗したら。取り潰される。家を追い出される。行くあてがない。路頭に迷う。その先は——。
やめよう。考えるのやめよう。考えたら止まる。止まったら終わる。
「お嬢様」
ロクスの声が、思考を遮った。
「半年って、短すぎない?」
「お嬢様の時間感覚でございますか。半年はちょうど季節が二つ変わる程度です」
間があった。ロクスが窓の外を一瞬だけ見て、戻った。
「パンを焼くのに三日かかったことを考えますと、なかなかの挑戦ですね」
煽りだ。これは煽りだ。でもその煽りの中に、いつもの温度がある。面白がっているのではなく——いや、やっぱり面白がっているのかもしれない。でもそれが今は、少しだけ救いだった。
「なかなかの挑戦、ね」
冷めたお茶に口をつけた。渋い。渋いけど、飲めなくはない。
窓から見える庭の雑草が、夕日を受けて揺れていた。ぼうぼうに伸びた雑草なのに、光の加減でほんの少しだけ、きれいに見えた。
「ゼロじゃない」
「は?」
「ゼロじゃないよ。パンは焼けた。台所は動いてる。ゼロじゃないから、まだ終わってない」
「さようですか」
ロクスがそっと改善勧告書を整えた。角を揃えて、テーブルの端に置く。白手袋の指先が紙の端を正確に合わせていく。
改善勧告書を広げた。
項目は十七個。全部ダメだと書いてあった。
半年で、十七個。一つも解決できなかったら、この家は終わる。
わたしは炭筆を取った。まず、何からやる?
お読みいただきありがとうございました!
この話の点数、いかがでしたか?
【☆☆☆☆☆】やブックマークで採点いただけると、作者の執筆意欲が50点くらい上がります。




