第6話「笑顔の裏にそろばんが見える」
先日、「日を改めて書面を持参する」と言っていったガレドが、言った通り来た。
椅子の埃はすでに払ってある。割れていないカップも出してある。花瓶の野花は三日前のものだからそろそろくたびれているけど、そこまで気にしない。わたしは令嬢モードの笑顔を三回練習して、相変わらず全く自然に見えないことを確認した。
「ロクス。今日は書面を持ってくるって言ってたね」
「ええ。取引の改定案、とのことでした」
「どのくらいのやつが来ると思う?」
「お嬢様がご自身でお確かめになるのがよろしいかと」
——要は「開けてみろ」。前回もこういう回答だった。この執事、答えない時ほど言い訳が洗練されている。
ペトラがお茶の準備を整えて、静かに下がった。返事の前に小さくうなずくいつもの癖。あの子は本当に目立たないけど、仕事は確実にやる。
廊下の奥から、靴音が近づいてきた。重い足取り。革靴の底が石を叩く音に、先日と同じ甘ったるい香水の匂いが先行している。窓から差し込む午後の日差しが、埃っぽい客間の空気を白く浮き上がらせた。
来た。指先が冷たい。前回と同じ緊張だ。なぜかと言えば、前回と同じように——この男が何かを取りに来ているから。
***
ガレドは今日も、笑顔を商売道具にしていた。
脂のにじんだ顔に笑みを貼りつけて、目だけが笑っていない。鋭い視線が、客間を一巡して家具の状態を品定めする。前回と同じ動作だ。変わっていない。
「いやぁ、お嬢様。先日に引き続き、お目にかかれて光栄でございますなぁ」
両手を広げるような大仰な挨拶。この動作もいつも通りだ。
「ようこそいらっしゃいませ、ガレドさん」
令嬢モード最大出力。にっこり。
内心——今日こそ演技力テスト本番。前回は「怪しまれなかった」から及第点。今日は「書面を突きつけられても動じない」が合格ライン。自信はない。
「本日は、お取引に関する大切なお話がございまして」
ガレドが鞄から書面を取り出した。上質な紙に丁寧な文字。蝋印が押されている。
「昨今の流通事情を鑑みまして、一部物資の価格を改定させていただきたく」
改定。前の世界でも聞き飽きた言葉だ。改定とは「値上げ」のことである。例外はない。
「具体的には、穀物類の二割の価格改定と、品質検査のための検査料を新たにいただきたく存じます」
二割の値上げ。プラス検査料。
「まあ、品質向上のためでございますか」
「ええ、ええ。品質向上のための必要経費でございます」
——「儲けたい」。それ以外の何だって言うの。
ガレドの目が細くなった。わたしの反応をうかがっている。今のにっこりが本物かどうか、値踏みしている。
この男の笑顔の裏には、そろばんが見える。わたしの令嬢演技の裏には、何もない。空っぽだ。
「ガレド殿」
ロクスが横から声をかけた。淡々とした声。紅茶のカップを置くような自然さで。
「旦那様の頃より、値上げ幅が大きくなっておりますね」
静かな言葉だった。事実をそのまま述べただけ。でもガレドの笑顔が、ほんの一瞬、ずれた。
「いえいえ、執事殿。状況が変わっておりましてですね、流通経路の維持費が」
「ええ。流通経路の維持費。なるほど」
ロクスが復唱した。復唱しただけだ。でもその声の温度が、言葉の嘘を剥がしていく。
ガレドの額に汗がにじんだ。甘い香水の下に、脂汗の匂いが混じる。
「まあ、善処いたしますわ」
わたしは笑顔で言った。にっこり。
内心——善処する気ゼロ。でも代案もゼロ。詰んでる。
「それはそれは。ありがたいことでございます」
ガレドは頭を下げた。ただ今日は、その笑みに勝者の色が混じっていた。わたしには何もできないことを、この男は知っている。
***
ガレドが帰った後、客間には甘ったるい香水の残り香と、飲み残されたお茶の冷めたカップが残されていた。窓を開けたい。この匂いを追い出したい。でも体が動かなくて、しばらくそのまま椅子に沈んでいた。
握りしめていた手を開いた。爪の跡が手のひらについている。いつの間にこんなに力を入れていたのか。
「あいつ、絶対裏で何かやってる」
「ガレド殿は大変ご親切に、当家の財政状況をご心配くださっているようですね」
——結局「値上げで搾り取りに来た」ってことでしょ。ご心配じゃなくてご利用でしょ。
「ロクス、あの人、あなたには弱いの?」
「弱い、とは」
「さっき、値上げ幅のこと言った時。一瞬だけ笑顔が崩れた」
ロクスが窓の外を見た。一拍の間。
「事実は、時に刃物よりも鋭うございます」
答えになっていない。でもなんとなく分かった。ロクスはこの家の事情を知り尽くしている。ガレドも、それを知っている。だからロクスの前では嘘が通じにくい。
お茶を飲んだ。苦い。ペトラが丁寧に淹れてくれたはずなのに、冷めたお茶はただ苦かった。
「構いませんが、お茶の時間は死守させていただきます。あと十五分です」
「え、今お茶じゃないの?」
「これは来客用の茶でございます。わたくしの淹れたものではありませんので」
こだわりが強い。
ガレドの誠意、2点。演技力は80点。わたしの令嬢演技が50点だから、完敗。
でも手がない。ガレドが独占している以上、他に仕入先がない。値上げを受け入れるしかない。前の世界なら別の店を探せばいい。ここにはそんな選択肢がない。
「あいつ、いつか絶対」
言いかけて、やめた。「いつか」は何も解決しない。
ロクスがお茶を淹れ直した。温かい湯気が、冷えた客間の空気を少しだけほぐす。琥珀色の液体が白いカップに落ちていく。ロクスの白手袋がティーポットを傾ける動作には、迷いがない。
わたしにはまだ何もできない。でも、この執事が事実で刺すあの一瞬が、少しだけ頼もしかった。
お茶を飲み終えた頃、ロクスが思い出したように言った。
「そういえば、王都の監査局から通達が来ておりました」
わたしは手を止めた。
「王都の、なに?」
「監査局です。近日中に監査官が巡回にいらっしゃるそうで」
ガレドの次は監査官。
パンだけ考えてればよかった日々が、急速に遠ざかっていく。
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