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辺境令嬢と、退屈知らずの執事  作者: 猫野ひかる
第1章「ここ、辺境です」

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第5話「愛想のいい敵の話」

 爪の間に、まだ粘土が残っていた。


 洗面台の水で指先をこすりながら、昨日のことを思い出す。ひびだらけの窯を直して、パンを焼いて、村の人に「ありがとう」と言われた。百点の一日だった。


 爪の隙間に入り込んだ赤い粘土は、なかなか落ちない。ごしごしやると指先が痛い。令嬢の手じゃない。前の世界でバイトの面接に行った時、「手がきれいですね」と言われたことがある。もう無理だろう、この手では。


 でも、悪くない手だ。パンを焼いて、窯を直した手。


「お嬢様、お支度をお急ぎください」


 ロクスの声が扉の向こうから聞こえた。


「急ぐって何を?」


「本日、お客様がいらっしゃいます。昨日お渡しした手紙の件です」


 ああ。ガレド商会。昨日の帰り道にロクスから渡された手紙。百点の一日の最後に、胸をちくりと刺した名前。


 わたしは爪の粘土を諦めて、タオルで手を拭いた。


***


 客間の掃除をペトラに頼んだ。かろうじて使える椅子を並べて、割れていないカップを出す。花瓶には庭の——野花を飾った。雑草だけど、それっぽく見える。多分。


「ロクス、ガレド商会って、結局何者なの」


「この辺りの流通を取り仕切っておられる方です」


「取り仕切る。独占、ってことでしょ」


「お嬢様は言葉の選び方が率直ですね」


 ——つまり「独占で正解だけど、本人の前では言うなよ」。了解。


「どんな人?」


「お嬢様がご自身の目でお確かめになるのがよろしいかと」


「情報をくれる気はないのね」


「先入観は判断を曇らせます」


 ——つまり「面白そうだから自分で見ろ」。この執事、本当に楽しんでいる時ほど言い訳が上手い。


 廊下の奥から足音が近づいてきた。重い足取り。革靴の底が石の床を叩く音と一緒に、甘い匂いが漂ってくる。香水だ。この辺境でこの匂いは浮いている。


 指先が冷たくなった。


***


 ガレドという男は、太っていた。


 小太りで額が広くて、顔に脂がにじんでいる。でも身なりは整っている。上等な布地の外套に、磨かれた革の鞄。目は——笑っている。顔全体で笑っている。にこにこ。ふくふく。まるで田舎のいいおじさんだ。


 第一印象、55点。減点理由は、目の奥が笑っていないから。


「いやあ、お嬢様。お目にかかれて光栄でございます」


 両手を広げて大仰なお辞儀。慣れた動作だ。この人は人に頭を下げるのが上手い。上手すぎて、逆にそれが商売道具だと分かる。


「ようこそいらっしゃいませ、ガレドさん。遠方からお越しいただいて」


 令嬢モード起動。にっこり。


 ——演技力テスト開始。合格ラインは「不快に思われない」。自信はない。


「いえいえ、遠方だなんて。この辺りはわたくしの庭のようなものでございますから」


 庭。この領地が、あなたの庭。


 聞き流す。にっこり。胸の中でメモを取る。


「最近の若い令嬢様のご活躍をお耳にしまして、ぜひご挨拶にと思いまして」


「まあ、活躍だなんて。恐れ入ります」


「いえいえ。パンを焼かれたとか、窯の修繕までなさったとか。村でも大変な評判でございますよ」


 ——情報が早い。昨日のことをもう知っている。


 わたしは笑顔を維持したまま、頭の中で計算した。昨日の夕方にパンを焼いた。今日の昼前にガレドが来ている。この男には、村に目と耳がある。


 ガレドが椅子に腰を下ろした。革の鞄を膝の上に置いて、鷹揚に客間を見回す。家具の傷。壁の染み。天井の隅のひび。全部見ている。視線は笑顔の下で忙しく動いて、この家の懐具合を値踏みしている。


 採点。ガレドの観察力、78点。隠す技術、70点。目の動きが速すぎて、見ていることがバレている。


「カルセド家は古い名家でいらっしゃいますからなあ。このような辺境で、ご不便も多いことでしょう」


「ありがたいことに、不便はあまり」


 嘘だけど。


「ですが、このあたりの流通事情は少々厳しくなっておりましてですね。山越えの道が荒れて、輸送費がかさんでおりまして」


 来た。本題の匂いがする。


「まあ、大変でございますわね」


「ええ、ええ。わたくしのような者が間に入って、なんとか物を届けておりますが——正直なところ、大変なご時世でございまして」


 ——つまり「俺がいなきゃ物が届かないぞ」。


「ですから、お嬢様のような若くてご聡明な方がこの土地を盛り立ててくださるのは、わたくしどもにとっても心強い限りでございます」


 ——つまり「お前にどれだけ力があるか見せてみろ」。


「ぜひ、わたくしにもお力添えをさせていただきたく」


 ——つまり「頭を下げろ」。


 笑顔のまま、怖いことを言う人だ。


 一つ一つの言葉は丁寧で、善意に満ちている。でも全部つなげると、浮かび上がるのは一枚の絵だ。「カルセド領は弱い。お前には力がない。だから俺を頼れ。俺に依存しろ」——その絵。


 わたしはお茶を一口飲んだ。ペトラが淹れてくれたお茶は、少しぬるかった。


「ありがたいお申し出です。ぜひ今後ともよろしくお願いいたします」


 にっこり。中身のない返事。時間を稼ぐための言葉。


 ガレドの目が一瞬、鋭くなった。この返事が「はい」でも「いいえ」でもないことを嗅ぎ取っている。賢い人だ。嫌な方向に。


「もちろんでございます。何かございましたら、いつでもお申し付けを。このガレド、お嬢様のお味方でございますよ」


 味方。この人が味方だと言うなら、敵は誰だろう。


「ところで、近々改めてお取引のお話をさせていただきたく存じますが」


「ええ、ぜひ」


「では、日を改めまして。書面をお持ちいたします」


 ガレドが立ち上がった。鞄を抱え、もう一度にこやかにお辞儀をする。完璧な商人のお辞儀だ。角度も間合いも申し分ない。わたしの令嬢演技が30点だとすれば、この人の商人演技は90点。完敗。


 ロクスが客間の扉を開けた。ガレドが出て行く間際、ロクスの方をちらりと見た。その目が、ほんの一瞬だけ——探るように動いた。


「執事殿は、相変わらずお元気そうで」


「おかげさまで」


 ロクスの返事は平坦だった。温度がない。挨拶の形をした無だ。


 ガレドの笑顔が、わずかに硬くなった。ほんの一拍。それからまたにこにこと笑って、「では」と言って去っていった。


 甘い香水の残り香が、客間の空気にべったりと張りついている。窓を開けたい。


***


 ガレドが去って、しばらく黙っていた。


 椅子に座ったまま、握りしめていた手を開いた。手のひらに爪の跡がついている。いつの間にこんなに力を入れていたのか分からない。


「あの人、嫌い」


 ぽつりと言った。深く考えて出た言葉じゃなくて、口から勝手に落ちた言葉だった。


 ロクスが窓を開けた。風が入ってきて、甘い香水の匂いを少しだけ押し出す。初夏の草の匂いが混じった風だ。さっきまでの空気より、ずっと息がしやすい。


「嫌い、ですか」


「嫌い。全部が丁寧で、全部が怖い。笑いながら『お前は弱い』って言ってくる。ああいう人が一番厄介だって、前の世界でも知ってた」


 前の世界にもいた。にこにこ笑って、善意の皮をかぶせて、相手の足場を少しずつ削る人。バイト先の店長がそうだった。「君のためを思って」と言いながら、シフトを減らしていく。あの手の人間に対抗するには、こちらが強くなるしかない。


「でも今の自分には、あの人に対抗する手札が何もない」


 お茶が冷めていた。飲み干す気にもならず、カップを持ったまま膝の上に置いた。陶器の冷たさが指に伝わる。


「あの人は、この辺りの物の流れを全部握っている。穀物も、塩も、布も、道具も。あの人の機嫌を損ねたら、物が届かなくなる。分かってる。分かってるから、腹が立つ」


 ロクスが窓辺に立ったまま、外を見ていた。何か考えている顔だ。普段の「面白がっている」目とは違う。もう少し深い場所を見ているような目。


「ロクスは、あの人のこと前から知ってるでしょ」


「はい」


「さっき、あの人がロクスを見た時だけ顔が変わった。探るような目。あれは『知らない相手』に向ける目じゃない」


 ロクスが窓の外から視線を戻した。わたしを見る。琥珀の目が、午後の光を受けて金色に揺れている。


「お嬢様は、よく見ていらっしゃいますね」


「観察は得意なの」


「あの人の言葉、全部言い換えてた。『お力添えしたい』は『頭を下げろ』。『わたくしの庭のようなもの』は『ここは俺の縄張りだ』。『ご時世でございまして』は『お前は俺に逆らえない』」


 ロクスの口元が動いた。微かに。笑ったのか、それとも何か飲み込んだのか。


「なかなかの精度ですね」


「ロクスもやってみてよ。あの人のやつ」


「わたくしもですか。そうですね——」


 ロクスが間を置いた。白手袋の指先が、窓枠に触れている。


「『この家が弱い間に、首輪をつけておきたい』。おおよそ、そのようなところかと」


 首輪。


 わたしより、ずっと鋭い。90点。いや、95点。


「ロクスの方がわたしより上手いのがちょっと悔しい」


「恐れ入ります」


「ロクス。あの人に対して、何かできることはあるの? 今のわたしに」


 ロクスが一拍、黙った。窓の外を見る仕草ではなく、白手袋を引き直す仕草でもなく——ただ、息を一つ吸って、吐いた。


「昔のお約束で、あまり手出しはしない方がよいのですが」


 また、あの言葉。「お約束」。前にも聞いた。


「昔のお約束って、何?」


 ロクスの琥珀の目が、一瞬だけ遠い場所を見た。ここではない、ずっと昔の場所を。


「いつか、お話しできる機会があるかもしれません」


「それ、答えになってない」


「ええ。なっておりません」


 悪びれない。全く悪びれない。この執事は、自分が答えていないことを完全に自覚した上で、堂々と答えていない。


 普段なら腹が立つところだけど——今日は、少しだけ違った。


「ロクス。さっき、あの人が帰る時。ロクスの顔を見て、一瞬だけ笑顔が固まったでしょ」


「そうでしたか」


「あの人、ロクスのことは怖いんだ」


 ロクスは否定しなかった。肯定もしなかった。ただ、白手袋の右手を左手の上に重ねて、執事の姿勢に戻った。


「お嬢様。お茶を淹れ直しましょう。先ほどのものは冷めておりますし、わたくしの淹れたものではありませんので」


「こだわりが強い」


「品質管理は執事の基本です」


 ——つまり「ペトラのお茶は採点対象外」ってこと。ペトラに聞かせたくないセリフだ。


 ロクスがティーポットを手に取った。白手袋がポットの取手を包む動作に迷いがない。湯を注ぐ音が、しんとした客間に小さく響く。


 あの香水の匂いが、少しずつ薄れていく。代わりに、茶葉の渋い匂いが広がる。ロクスが淹れるお茶は、いつも温かくて、いつもちょうどいい。


「ありがとう」


 カップを受け取りながら言った。お茶のお礼だ。多分。お茶だけの、お礼だ。


「さっきのお礼じゃないからね。お茶のお礼。それだけ」


「ええ。お茶のお礼ですね。承知いたしました」


 ロクスの声が、ほんのわずかに柔らかかった。気のせいかもしれない。でも気のせいだと思うことにした。


***


 夕方。自室の窓から、沈んでいく陽を眺めた。


 今日の採点。ガレドの脅威度、80点。わたしの対応力、35点。ロクスの読み、95点。ペトラのお茶、68点。ロクスのお茶、88点。


 勝てない。今は、勝てない。


 あの男は流通を握っている。物を止められたら、この領地は干上がる。昨日焼いたパンだって、穀物が届かなければ作れない。窯を直したところで、焼くものがなければ意味がない。


 でも——記録はした。あの男が何を言ったか。どんな目をしたか。何を握っていて、何を狙っているか。全部、頭の中にメモした。


 木板を取り出して、炭筆で走り書きする。


 「流通独占。価格決定権あり。情報網あり(村に耳目)。弱点——ロクスを警戒している。理由は不明」


 炭筆の先が折れた。力を入れすぎた。


 窓の外では、夕焼けが山の稜線を赤く染めている。風が吹いて、カーテンの端が揺れた。草と土の匂い。昨日、窯のそばで嗅いだ匂いと同じだ。


「道楽だって思われるうちは勝てない」


 呟いた。昨日、村の人が言った「令嬢様の道楽」。あの言葉は、ガレドの笑顔より痛くなかった。でも、ガレドの言葉は別の種類の痛さだ。「お前は弱い」と笑顔で言われるのは、「道楽だろ」と言われるより、ずっと——ずっと腹が立つ。


 次は結果で黙らせる。あの笑顔の裏のそろばんを、ひっくり返す方法を見つける。


 まだ方法は分からない。でも「分からない」と「諦める」は違う。


 爪の間の粘土は、まだ落ちきっていなかった。赤い土の色が、指先にこびりついている。


 ——まあ、落ちなくていいか。これは昨日の百点の証拠だ。


 ガレドが次に来る日までに、もう少しだけ爪の間を汚す予定でいる。

お読みいただきありがとうございました!


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【☆☆☆☆☆】やブックマークで採点いただけると、作者の執筆意欲が50点くらい上がります。

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