第4話「窯が壊れていただけです」
朝日が昇る前に台所に忍び込んだ。
完璧な計画の実行には、早朝の静けさと、ヨルダが来る前の二時間が必要だった。
三日間寝かせた酵母種は、ちゃんと泡を吹いていた。瓶の蓋を開けると、小さな気泡がぷつぷつと上がってくる。酸っぱくて甘い匂い。前の世界のパン屋の前を通った時に嗅いだ匂いと同じだ。
ここまでは、完璧。百点満点。
雑穀の粉を台に広げる。粉は粗い。前の世界の小麦粉のようなきめ細かさはないけれど、指で擦ると穀物の香ばしい匂いが立つ。悪くない素材だ。
酵母種と水と粉を混ぜて、こねる。
べたつく。手にくっつく。前の世界のパン作り動画では、職人がすいすいまとめていたのに。でも焦らない。焦ったら失敗する。粉を少しずつ足しながら、ゆっくりこねる。手のひらの付け根で押して、折って、回す。
十分。二十分。腕が痛い。令嬢の腕はパン生地と格闘するようにはできていない。
でも、生地がまとまってきた。べたつきが収まり、指で押すと押し返してくる弾力が生まれている。酵母がちゃんと活きている証拠だ。
「よしよしよし。いい子だ、生地」
「お嬢様。おはようございます」
ロクスが台所の入口に立っていた。白手袋の手を後ろに組んで、わたしの粉まみれの顔を眺めている。
「おはよう。見ないで」
「結構な仕上がりのようですね。頬にも粉の仕上げが」
「それは要らない仕上げ!」
袖で頬を拭う。ロクスの口元がわずかに動いた。笑ってる。絶対笑ってる。
***
生地を布で包んで、温かい場所に三時間置いた。窯の余熱のそばで、じっくり発酵させる。
布をめくると、生地が倍近く膨らんでいた。指で押すと、ゆっくり戻ってくる。酸っぱい匂いが強くなって、生地の表面にうっすら気泡の跡が見える。
「膨らんでる」
声が上ずった。前の世界の知識が、この世界で、ちゃんと動いている。酵母が糖を食べて、気体を出して、生地を膨らませている。理屈通りだ。理屈通りに世界が動くこの感覚が、たまらなく嬉しい。
生地を四つに分割して丸める。表面を張らせるように、手のひらで包み込んで底を閉じる。
「あとは焼くだけ」
村の共用窯に向かった。ロクスが後ろをついてくる。
朝の空気が冷たい。吐く息がうっすら白い。道の脇に生えた草に露がついていて、陽の光を受けてきらきら光っている。
窯は村の広場のそばにあった。石を組んだ大きな窯で、入口に薪が積まれている。朝の早い時間帯で、使っている人はまだいなかった。
「よし。まず火を入れる」
薪を窯に組んで、火打ち石で火をつけた。
炎が薪に移り、ぱちぱちと音を立てる。煙が窯の中を巡りはじめた。
しかし——おかしい。
薪がまともに燃えない。炎がつくのに、すぐに勢いが落ちる。ぱち、じゅう、と湿った音がして、白い煙ばかりが出てくる。
「何これ」
薪を一本手に取って、指で押した。ずっしり重い。断面が湿っている。含水率が高い薪だ。長いこと屋根のない場所に放置されて、雨に打たれ続けたのだろう。これではまともな火力が出ない。
前の世界で読んだ本の知識が浮かぶ。薪の含水率が高いと燃焼温度が上がらない。水分を蒸発させるのにエネルギーが使われて、肝心の熱が窯に回らない。
「薪が湿ってるのか。まあ、何本か重ねれば——」
窯の中を覗き込んで、手をかざした。
全然熱くない。右手側はそこそこ温まっているのに、左手側はほとんどぬるい。熱の分布が均一じゃない。
わたしは窯の内側に顔を突っ込んだ。煤で目が沁みる。
「ああ」
見えた。窯の天井部分、石と石の間に亀裂が走っている。幅は指一本分くらい。そこから外の空気が入り込んで、熱の対流が乱れている。窯の左側に特にひびが集中していて、熱がそこから逃げているのだ。
わたしは窯から顔を引いて、煤を拭った。
「窯が壊れてる」
「おや」
ロクスが窯を覗き込む。琥珀の瞳が煤と炎の光を映して、金色に揺れた。
「確かに。ひびが入っていますね」
「右側はまだ熱が回るけど、左側は完全に抜けてる。それに薪もこれ、ずっと雨ざらしだったでしょ。含水率が高くてまともに燃焼しない」
つまり——わたしの腕が悪いんじゃない。窯が終わっている。
前の世界なら設備不良で店を開けられないレベルだ。採点するなら窯の状態は12点。薪は8点。合わせて20点。合格ラインの半分以下。
「お嬢様。この状態で焼かれますか」
「焼けるわけないでしょ。ひびから熱が逃げてるんだから、どれだけ薪を足しても温度が安定しない。外は焦げて中は生焼けになる」
——待って。今わたし、すごく冷静だ。
いつものわたしなら「まあ、感覚でいけるでしょ」とか言って突っ込んでいた。三日前のわたしなら確実にやらかしていた。でも今は違う。原因が分かっている。原因が分かっているなら、やることは一つだ。
「直す」
「窯を、ですか」
「窯を」
***
窯の周辺を歩き回った。
広場の外れに、石切り場から運んだらしい石の欠片が積まれている。灰白色の、きめの細かい石だ。手で触ると、ざらざらしているが崩れない。耐火性がありそうだ。
窯のそばの地面を掘ると、粘土質の土が出てきた。赤みがかった、ねっとりとした土。これを水で練れば、補修材になる。前の世界の窯作りの本に書いてあった——粘土と砂を混ぜて練ったものは、高温に耐える接合材になる。
「ロクス、この石を割って、窯のひびに詰める大きさにしたい」
「承知いたしました」
ロクスが上着を脱いで、袖をまくった。白手袋のまま石を手に取り、別の石で叩く。あっさりと、ちょうどいい大きさの破片が三つに割れた。
——いや、力加減おかしくない? あの石、結構硬かったんだけど。
「お嬢様、このくらいの大きさで」
「完璧。ありがとう」
疑問を飲み込んで作業に集中する。粘土を水で練って、砂を混ぜる。手が泥だらけになる。爪の間に粘土が入り込んで、気持ち悪い。令嬢がやることじゃない。でもわたしは令嬢じゃなくて、パンを焼きたいだけの人間だ。
窯の中に潜り込んで、ひびの部分に石の破片を詰めていく。隙間に粘土の接合材を塗り込む。指先の感触で、ひびが塞がっていくのが分かる。
「左側の上にもう一箇所、ひびがあります」
ロクスが窯の外から声をかけた。見えているのか、と思ったけれど聞かない。確認すると、確かにもう一本、細い亀裂が走っていた。
そっちも塞ぐ。粘土が乾くまでに時間が要るけれど、薪の火で窯を温めれば粘土の乾燥も早まる。一石二鳥だ。
「次、薪の問題」
湿った薪の山を前に腕を組んだ。全部が使い物にならないわけじゃない。表面だけ湿っているものと、芯まで水を吸っているものがある。
乾いた細い枝を集めて、まず種火を作る。その種火で、比較的乾いている薪の表面を炙って水分を飛ばす。段階的に太い薪に移していく。前の世界のキャンプの知識だ。
火が安定してきた。窯の中の温度がじわじわと上がっていく。
「お嬢様、なぜそのようなことをご存知なのですか」
ロクスが石の破片をもう一つ割りながら、さらりと聞いた。声は平坦だけど、目が少しだけ——ほんの少しだけ、いつもと違う色をしている。
——「なぜ令嬢が窯の直し方を知っているのか」。そりゃ気になるよね。
「昔、本で読んだの。窯の構造と、薪の燃焼の仕組み」
「大変博識な本でございますね」
——つまり「怪しい」ってこと。知ってる。でも今は突っ込まないでくれ。
「本っていうのは便利なものよ」
「さようですか」
ロクスはそれ以上何も聞かなかった。ただ、白手袋を引き直す仕草をした。何か考えている時の癖だ。
***
「何してるんだ、お嬢様」
声がして振り返ると、村人が二人、窯の前に立っていた。パンの生地を抱えた男と、後ろに籠を持った女性。朝のパン焼きの順番に来たのだろう。
「あ、おはようございます。窯をお借りしています」
令嬢モード発動。棒読み。
「借りるのはいいけど、何やってんだ、その泥は」
わたしの手も顔も泥だらけだった。令嬢の体裁はとっくに崩壊している。
「この窯、ひびが入ってるんです。天井の石の間に亀裂が走っていて、熱が逃げています。だから直しているところです」
男が目を丸くした。窯の入口を覗き込んで、中を見る。
「ああ、本当だ。こんなところにひびが」
「ここ数年、火の回りが悪いって話はあったんだよな」
後ろの女性が籠を地面に置いて言った。
「うちの婆さんも言ってた。昔はもっとよく焼けたって」
「ひびが原因だったんですね」
「多分、長年の使用で石が膨張と収縮を繰り返して、接合部分が劣化したんだと思います。あと、薪が湿っているので、乾いたものから段階的に使った方が温度が安定します」
男が隣の女性と顔を見合わせた。
「......お嬢様、窯に詳しいんだな」
「本で読んだだけです」
「ロクスの仕込みか?」
「いいえ」
ロクスが涼しい顔で否定した。わたしを見る目が面白がっている。
——つまり「俺は関係ない。全部あの令嬢の独断です」。ありがとう、ロクス。全然助けてくれないね。
補修した粘土が窯の熱で乾き始めている。もう少しだ。
「あの、もう少しだけ待っていただけますか。乾いたら、すぐに使えるようになりますので」
「待つよ。直してくれてるんだろ?」
男がそう言って、窯の脇に腰を下ろした。女性も並んで座る。
待ってくれている。文句じゃなく。
***
粘土が固まった頃合いを見て、改めて火を入れた。
乾いた細い薪から火を起こして、段階的に太い薪に移す。窯の中の温度がじわじわと上がっていく。ひびを塞いだおかげで、熱の偏りが消えている。右も左も、均一に熱い。
手をかざすと、さっきとは別物の熱が押し返してきた。右も左も同じ熱さだ。
いける。
「焼く」
丸めておいた生地を窯に入れた。四つの丸い生地が、窯の底の石の上に並ぶ。
待つ。
十分。いい匂いがしてきた。穀物の焼ける甘い匂い。
二十分。匂いが変わらない。焦げていない。
三十分。
窯を開けた。
きつね色だった。
四つのパンが、きれいなきつね色に焼き上がっている。表面がぱりっと乾いて、ところどころに焼き割れが走っている。叩くと、コンコンと乾いた、でも軽い音がする。中に空気が詰まっている音だ。
「焼けた」
声が震えた。手も震えている。
一つ手に取って、割った。湯気が立ち上る。断面に小さな気泡の跡が散っていて、中はふわりと柔らかい。指で押すと、ちゃんと弾力がある。
かじった。
——美味しい。
硬くない。焦げてない。穀物の甘みがちゃんとある。噛むほどに味が広がる。前の世界のパン屋には負ける。当たり前だ、あっちには何百年もの製パン技術の蓄積がある。でもこの世界の黒パンと比べたら、天と地だ。
85点。あの黒パンが3点だとすれば。
「お嬢様。一つ、よろしいですか」
ロクスが手を差し出した。パンを渡すと、一口かじる。咀嚼して、飲み込む。
琥珀の瞳が一瞬だけ、ほんの一瞬だけ、見開かれた。
「これは——」
「どう?」
「お嬢様の自己評価をお聞きしてから申し上げましょう」
——つまり「先に言え」ってこと。
「85点」
「75点、です。食感に改善の余地があります。ですが——」
ロクスが窯を見た。補修された石と粘土の跡を。
「窯の修繕を含めれば、95点を差し上げてもよろしいかと」
待って。ロクスが点数をつけた。しかも95点。この人がそんな高い点を出すの、初めて見た。
記録。ロクスが95点を出した。レア中のレア。
「おい、俺にも一つくれないか」
窯の脇で待っていた男が立ち上がった。わたしは残りのパンを一つ渡す。
男がかじった。咀嚼が止まった。
「......何だこれ。柔らかい」
「え、本当?」
「本当だ。うちの婆さんのパンより柔らかいぞ。どうやって焼いたんだ」
「酵母が——えっと、果物の皮を水に浸けて発酵させたものを生地に混ぜて、それで膨らませたんです」
「意味は分からんが、美味いのは分かる」
女性も一口もらって、目を丸くしている。
「これ、すごいね。ふわふわじゃないか」
「あと、窯を直してくれたんだろ。ここ何年もおかしかったんだ、この窯。火の回りが悪くて、いつも焼きムラができてた」
「ああ、うちの息子もいっつも文句言ってたよ。右側ばっかり焦げるって」
——それ、ひびのせいだったんだ。左側から熱が逃げるから、右側に熱が偏っていた。
「令嬢様が直してくださったんだなあ」
男がしみじみと言った。感謝の声だ。いつもの「お嬢様の道楽だろ」とは、全然違う温度の声。
嬉しい。単純に嬉しい。でも顔に出すと令嬢の品位がどうとかなるので、令嬢モードで返す。
「いえ、たまたま気づいただけですので」
棒読み。完全な棒読み。令嬢演技力、今日も2点。
***
帰り道。空が高くて、風が温かかった。
手はまだ泥だらけで、爪の間に粘土がこびりついている。髪にも煤がついているらしい。令嬢としては最悪の見た目だ。
爪の間の粘土をもう一度確認した。まだ赤い。落ちてない。落ちなくていい。これは今日の証拠だ。
「結果——百点。パンは焼けたし、窯も直したし、村の人にも喜ばれた。完璧じゃん」
「お嬢様」
「何?」
「次の問題がございます」
ロクスが一通の手紙を差し出した。いつの間に持っていたのか。封蝋で封がされている。
「明日、お客様がいらっしゃるそうです。商人の方が」
手紙を開いた。差出人の名前を見る。
——ガレド商会。
知らない名前だ。でも、炭筆が木板の上で止まった。
「どういう商人なの?」
「この辺りの流通を取り仕切っておられる方かと」
ロクスの声は平坦だった。いつもと何も変わらない。
でも——さっき窯のそばで白手袋を引き直した時と、同じ仕草をしていた。
今日は百点だった。パンを焼いて、窯を直して、村の人に「ありがとう」と言われた。
なのに、この手紙を見た瞬間、百点が少しだけ揺らいだ。
——まあ、なんとかなるでしょ。
口に出して、自分でもちょっとだけ信じた。




