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辺境令嬢と、退屈知らずの執事  作者: 猫野ひかる
第1章「ここ、辺境です」

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第4話「窯が壊れていただけです」

 朝日が昇る前に台所に忍び込んだ。


 完璧な計画の実行には、早朝の静けさと、ヨルダが来る前の二時間が必要だった。


 三日間寝かせた酵母種は、ちゃんと泡を吹いていた。瓶の蓋を開けると、小さな気泡がぷつぷつと上がってくる。酸っぱくて甘い匂い。前の世界のパン屋の前を通った時に嗅いだ匂いと同じだ。


 ここまでは、完璧。百点満点。


 雑穀の粉を台に広げる。粉は粗い。前の世界の小麦粉のようなきめ細かさはないけれど、指で擦ると穀物の香ばしい匂いが立つ。悪くない素材だ。


 酵母種と水と粉を混ぜて、こねる。


 べたつく。手にくっつく。前の世界のパン作り動画では、職人がすいすいまとめていたのに。でも焦らない。焦ったら失敗する。粉を少しずつ足しながら、ゆっくりこねる。手のひらの付け根で押して、折って、回す。


 十分。二十分。腕が痛い。令嬢の腕はパン生地と格闘するようにはできていない。


 でも、生地がまとまってきた。べたつきが収まり、指で押すと押し返してくる弾力が生まれている。酵母がちゃんと活きている証拠だ。


「よしよしよし。いい子だ、生地」


「お嬢様。おはようございます」


 ロクスが台所の入口に立っていた。白手袋の手を後ろに組んで、わたしの粉まみれの顔を眺めている。


「おはよう。見ないで」


「結構な仕上がりのようですね。頬にも粉の仕上げが」


「それは要らない仕上げ!」


 袖で頬を拭う。ロクスの口元がわずかに動いた。笑ってる。絶対笑ってる。


***


 生地を布で包んで、温かい場所に三時間置いた。窯の余熱のそばで、じっくり発酵させる。


 布をめくると、生地が倍近く膨らんでいた。指で押すと、ゆっくり戻ってくる。酸っぱい匂いが強くなって、生地の表面にうっすら気泡の跡が見える。


「膨らんでる」


 声が上ずった。前の世界の知識が、この世界で、ちゃんと動いている。酵母が糖を食べて、気体を出して、生地を膨らませている。理屈通りだ。理屈通りに世界が動くこの感覚が、たまらなく嬉しい。


 生地を四つに分割して丸める。表面を張らせるように、手のひらで包み込んで底を閉じる。


「あとは焼くだけ」


 村の共用窯に向かった。ロクスが後ろをついてくる。


 朝の空気が冷たい。吐く息がうっすら白い。道の脇に生えた草に露がついていて、陽の光を受けてきらきら光っている。


 窯は村の広場のそばにあった。石を組んだ大きな窯で、入口に薪が積まれている。朝の早い時間帯で、使っている人はまだいなかった。


「よし。まず火を入れる」


 薪を窯に組んで、火打ち石で火をつけた。


 炎が薪に移り、ぱちぱちと音を立てる。煙が窯の中を巡りはじめた。


 しかし——おかしい。


 薪がまともに燃えない。炎がつくのに、すぐに勢いが落ちる。ぱち、じゅう、と湿った音がして、白い煙ばかりが出てくる。


「何これ」


 薪を一本手に取って、指で押した。ずっしり重い。断面が湿っている。含水率が高い薪だ。長いこと屋根のない場所に放置されて、雨に打たれ続けたのだろう。これではまともな火力が出ない。


 前の世界で読んだ本の知識が浮かぶ。薪の含水率が高いと燃焼温度が上がらない。水分を蒸発させるのにエネルギーが使われて、肝心の熱が窯に回らない。


「薪が湿ってるのか。まあ、何本か重ねれば——」


 窯の中を覗き込んで、手をかざした。


 全然熱くない。右手側はそこそこ温まっているのに、左手側はほとんどぬるい。熱の分布が均一じゃない。


 わたしは窯の内側に顔を突っ込んだ。煤で目が沁みる。


「ああ」


 見えた。窯の天井部分、石と石の間に亀裂が走っている。幅は指一本分くらい。そこから外の空気が入り込んで、熱の対流が乱れている。窯の左側に特にひびが集中していて、熱がそこから逃げているのだ。


 わたしは窯から顔を引いて、煤を拭った。


「窯が壊れてる」


「おや」


 ロクスが窯を覗き込む。琥珀の瞳が煤と炎の光を映して、金色に揺れた。


「確かに。ひびが入っていますね」


「右側はまだ熱が回るけど、左側は完全に抜けてる。それに薪もこれ、ずっと雨ざらしだったでしょ。含水率が高くてまともに燃焼しない」


 つまり——わたしの腕が悪いんじゃない。窯が終わっている。


 前の世界なら設備不良で店を開けられないレベルだ。採点するなら窯の状態は12点。薪は8点。合わせて20点。合格ラインの半分以下。


「お嬢様。この状態で焼かれますか」


「焼けるわけないでしょ。ひびから熱が逃げてるんだから、どれだけ薪を足しても温度が安定しない。外は焦げて中は生焼けになる」


 ——待って。今わたし、すごく冷静だ。


 いつものわたしなら「まあ、感覚でいけるでしょ」とか言って突っ込んでいた。三日前のわたしなら確実にやらかしていた。でも今は違う。原因が分かっている。原因が分かっているなら、やることは一つだ。


「直す」


「窯を、ですか」


「窯を」


***


 窯の周辺を歩き回った。


 広場の外れに、石切り場から運んだらしい石の欠片が積まれている。灰白色の、きめの細かい石だ。手で触ると、ざらざらしているが崩れない。耐火性がありそうだ。


 窯のそばの地面を掘ると、粘土質の土が出てきた。赤みがかった、ねっとりとした土。これを水で練れば、補修材になる。前の世界の窯作りの本に書いてあった——粘土と砂を混ぜて練ったものは、高温に耐える接合材になる。


「ロクス、この石を割って、窯のひびに詰める大きさにしたい」


「承知いたしました」


 ロクスが上着を脱いで、袖をまくった。白手袋のまま石を手に取り、別の石で叩く。あっさりと、ちょうどいい大きさの破片が三つに割れた。


 ——いや、力加減おかしくない? あの石、結構硬かったんだけど。


「お嬢様、このくらいの大きさで」


「完璧。ありがとう」


 疑問を飲み込んで作業に集中する。粘土を水で練って、砂を混ぜる。手が泥だらけになる。爪の間に粘土が入り込んで、気持ち悪い。令嬢がやることじゃない。でもわたしは令嬢じゃなくて、パンを焼きたいだけの人間だ。


 窯の中に潜り込んで、ひびの部分に石の破片を詰めていく。隙間に粘土の接合材を塗り込む。指先の感触で、ひびが塞がっていくのが分かる。


「左側の上にもう一箇所、ひびがあります」


 ロクスが窯の外から声をかけた。見えているのか、と思ったけれど聞かない。確認すると、確かにもう一本、細い亀裂が走っていた。


 そっちも塞ぐ。粘土が乾くまでに時間が要るけれど、薪の火で窯を温めれば粘土の乾燥も早まる。一石二鳥だ。


「次、薪の問題」


 湿った薪の山を前に腕を組んだ。全部が使い物にならないわけじゃない。表面だけ湿っているものと、芯まで水を吸っているものがある。


 乾いた細い枝を集めて、まず種火を作る。その種火で、比較的乾いている薪の表面を炙って水分を飛ばす。段階的に太い薪に移していく。前の世界のキャンプの知識だ。


 火が安定してきた。窯の中の温度がじわじわと上がっていく。


「お嬢様、なぜそのようなことをご存知なのですか」


 ロクスが石の破片をもう一つ割りながら、さらりと聞いた。声は平坦だけど、目が少しだけ——ほんの少しだけ、いつもと違う色をしている。


 ——「なぜ令嬢が窯の直し方を知っているのか」。そりゃ気になるよね。


「昔、本で読んだの。窯の構造と、薪の燃焼の仕組み」


「大変博識な本でございますね」


 ——つまり「怪しい」ってこと。知ってる。でも今は突っ込まないでくれ。


「本っていうのは便利なものよ」


「さようですか」


 ロクスはそれ以上何も聞かなかった。ただ、白手袋を引き直す仕草をした。何か考えている時の癖だ。


***


「何してるんだ、お嬢様」


 声がして振り返ると、村人が二人、窯の前に立っていた。パンの生地を抱えた男と、後ろに籠を持った女性。朝のパン焼きの順番に来たのだろう。


「あ、おはようございます。窯をお借りしています」


 令嬢モード発動。棒読み。


「借りるのはいいけど、何やってんだ、その泥は」


 わたしの手も顔も泥だらけだった。令嬢の体裁はとっくに崩壊している。


「この窯、ひびが入ってるんです。天井の石の間に亀裂が走っていて、熱が逃げています。だから直しているところです」


 男が目を丸くした。窯の入口を覗き込んで、中を見る。


「ああ、本当だ。こんなところにひびが」


「ここ数年、火の回りが悪いって話はあったんだよな」


 後ろの女性が籠を地面に置いて言った。


「うちの婆さんも言ってた。昔はもっとよく焼けたって」


「ひびが原因だったんですね」


「多分、長年の使用で石が膨張と収縮を繰り返して、接合部分が劣化したんだと思います。あと、薪が湿っているので、乾いたものから段階的に使った方が温度が安定します」


 男が隣の女性と顔を見合わせた。


「......お嬢様、窯に詳しいんだな」


「本で読んだだけです」


「ロクスの仕込みか?」


「いいえ」


 ロクスが涼しい顔で否定した。わたしを見る目が面白がっている。


 ——つまり「俺は関係ない。全部あの令嬢の独断です」。ありがとう、ロクス。全然助けてくれないね。


 補修した粘土が窯の熱で乾き始めている。もう少しだ。


「あの、もう少しだけ待っていただけますか。乾いたら、すぐに使えるようになりますので」


「待つよ。直してくれてるんだろ?」


 男がそう言って、窯の脇に腰を下ろした。女性も並んで座る。


 待ってくれている。文句じゃなく。


***


 粘土が固まった頃合いを見て、改めて火を入れた。


 乾いた細い薪から火を起こして、段階的に太い薪に移す。窯の中の温度がじわじわと上がっていく。ひびを塞いだおかげで、熱の偏りが消えている。右も左も、均一に熱い。


 手をかざすと、さっきとは別物の熱が押し返してきた。右も左も同じ熱さだ。


 いける。


「焼く」


 丸めておいた生地を窯に入れた。四つの丸い生地が、窯の底の石の上に並ぶ。


 待つ。


 十分。いい匂いがしてきた。穀物の焼ける甘い匂い。


 二十分。匂いが変わらない。焦げていない。


 三十分。


 窯を開けた。


 きつね色だった。


 四つのパンが、きれいなきつね色に焼き上がっている。表面がぱりっと乾いて、ところどころに焼き割れが走っている。叩くと、コンコンと乾いた、でも軽い音がする。中に空気が詰まっている音だ。


「焼けた」


 声が震えた。手も震えている。


 一つ手に取って、割った。湯気が立ち上る。断面に小さな気泡の跡が散っていて、中はふわりと柔らかい。指で押すと、ちゃんと弾力がある。


 かじった。


 ——美味しい。


 硬くない。焦げてない。穀物の甘みがちゃんとある。噛むほどに味が広がる。前の世界のパン屋には負ける。当たり前だ、あっちには何百年もの製パン技術の蓄積がある。でもこの世界の黒パンと比べたら、天と地だ。


 85点。あの黒パンが3点だとすれば。


「お嬢様。一つ、よろしいですか」


 ロクスが手を差し出した。パンを渡すと、一口かじる。咀嚼して、飲み込む。


 琥珀の瞳が一瞬だけ、ほんの一瞬だけ、見開かれた。


「これは——」


「どう?」


「お嬢様の自己評価をお聞きしてから申し上げましょう」


 ——つまり「先に言え」ってこと。


「85点」


「75点、です。食感に改善の余地があります。ですが——」


 ロクスが窯を見た。補修された石と粘土の跡を。


「窯の修繕を含めれば、95点を差し上げてもよろしいかと」


 待って。ロクスが点数をつけた。しかも95点。この人がそんな高い点を出すの、初めて見た。


 記録。ロクスが95点を出した。レア中のレア。


「おい、俺にも一つくれないか」


 窯の脇で待っていた男が立ち上がった。わたしは残りのパンを一つ渡す。


 男がかじった。咀嚼が止まった。


「......何だこれ。柔らかい」


「え、本当?」


「本当だ。うちの婆さんのパンより柔らかいぞ。どうやって焼いたんだ」


「酵母が——えっと、果物の皮を水に浸けて発酵させたものを生地に混ぜて、それで膨らませたんです」


「意味は分からんが、美味いのは分かる」


 女性も一口もらって、目を丸くしている。


「これ、すごいね。ふわふわじゃないか」


「あと、窯を直してくれたんだろ。ここ何年もおかしかったんだ、この窯。火の回りが悪くて、いつも焼きムラができてた」


「ああ、うちの息子もいっつも文句言ってたよ。右側ばっかり焦げるって」


 ——それ、ひびのせいだったんだ。左側から熱が逃げるから、右側に熱が偏っていた。


「令嬢様が直してくださったんだなあ」


 男がしみじみと言った。感謝の声だ。いつもの「お嬢様の道楽だろ」とは、全然違う温度の声。


 嬉しい。単純に嬉しい。でも顔に出すと令嬢の品位がどうとかなるので、令嬢モードで返す。


「いえ、たまたま気づいただけですので」


 棒読み。完全な棒読み。令嬢演技力、今日も2点。


***


 帰り道。空が高くて、風が温かかった。


 手はまだ泥だらけで、爪の間に粘土がこびりついている。髪にも煤がついているらしい。令嬢としては最悪の見た目だ。


 爪の間の粘土をもう一度確認した。まだ赤い。落ちてない。落ちなくていい。これは今日の証拠だ。


「結果——百点。パンは焼けたし、窯も直したし、村の人にも喜ばれた。完璧じゃん」


「お嬢様」


「何?」


「次の問題がございます」


 ロクスが一通の手紙を差し出した。いつの間に持っていたのか。封蝋で封がされている。


「明日、お客様がいらっしゃるそうです。商人の方が」


 手紙を開いた。差出人の名前を見る。


 ——ガレド商会。


 知らない名前だ。でも、炭筆が木板の上で止まった。


「どういう商人なの?」


「この辺りの流通を取り仕切っておられる方かと」


 ロクスの声は平坦だった。いつもと何も変わらない。


 でも——さっき窯のそばで白手袋を引き直した時と、同じ仕草をしていた。


 今日は百点だった。パンを焼いて、窯を直して、村の人に「ありがとう」と言われた。


 なのに、この手紙を見た瞬間、百点が少しだけ揺らいだ。


 ——まあ、なんとかなるでしょ。


 口に出して、自分でもちょっとだけ信じた。

【挿絵あり】


村の共用窯を占拠して、焼き加減を読み違えて真っ黒になったパン。

「焼き加減のこと、考えてなかった」——ドヤ顔から崩壊までの距離、人生最短かもしれません。

立ち上る煙と、遠巻きの村人の視線。お嬢様、村デビューの形がこれでよかったんでしょうか。


挿絵(By みてみん)


お読みいただきありがとうございました!


この話の点数、いかがでしたか?

【☆☆☆☆☆】やブックマークで採点いただけると、作者の執筆意欲が50点くらい上がります。

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