第3話「完璧な計画と不完璧なわたし」
三日目にして確信した。この世界のパンは、石だ。
いや、石の方がまだマシかもしれない。石は少なくとも歯を折る以外の害はない。
わたしは決めた。パンを、焼く。
朝食のテーブルで、今日の黒パンをかじる。硬い。昨日より硬い気がする。3点。退化してる。
粥はいつも通りの水っぽさ。もう採点する気力もない。
「ロクス」
「はい」
「このパンをまともにしたい」
ロクスが一瞬、目を細めた。面白がっている顔だ。この数日で分かってきた。この執事は面白いことが好きだ。
「つまり、お嬢様は当家の百年来の食文化に改革の旗を立てようと」
「大げさにするな。パン焼くだけ」
「パンを焼く。なるほど。お嬢様ご自身の手で」
「他に誰がやるの」
「ごもっともです」
ロクスの声に、楽しそうな色がにじんでいる。こいつ、絶対面白がってる。
***
わたしには知識がある。前の世界で覚えたこと。パンが膨らむのは酵母のおかげだ。酵母が糖を食べて、出した気体が生地の中に閉じ込められて、焼くと膨らむ。原理は単純。
問題は、この世界に市販のイーストなんてあるわけがないということだ。
でも酵母は自然界のどこにでもいる。果物の皮にも、穀物にも。前の世界でも天然酵母のパンを作る人はいた。果物の皮を水に浸けて、数日待てば発酵が始まる。
理屈は分かっている。あとはやるだけだ。
「ロクス、この辺りで果物って手に入る?」
「庭の奥に果樹が数本。季節柄、実がついているものもあるかと」
「それでいい。あと、小麦粉。パンを焼くなら小麦粉が要る」
「材料の調達先にいくつかの懸念がございます」
——「ない」んでしょ、材料。
「辺境では小麦が高価でございまして。普段は雑穀の粉を使用しております」
「じゃあ雑穀でいい。前の世界の——あの、つまり、昔読んだ本に、雑穀でもパンは焼けると書いてあった」
危ない。前の世界、と口が滑りかけた。
「さようですか。お嬢様は博識でいらっしゃる」
嫌味なのか本気なのか分からない。多分、両方だ。
台所へ向かう。廊下の奥から、ヨルダが鍋を洗う水音が聞こえてきた。計画が頭の中で回り始めている。
果物の皮で天然酵母を起こす。二、三日で発酵させて、種を作る。雑穀の粉と混ぜて生地にする。こねて、寝かせて、窯で焼く。
待って、窯。この屋敷に窯はあるのか。
「ロクス、窯は」
「屋敷の台所に小さなかまどが一つ。パンを焼くのであれば、村の共用窯の方が適しているかと」
「村に窯があるんだ」
「村人が交代でお使いになっています」
よし。段取りが見えてきた。
台所の入口に着いた瞬間、声が飛んできた。
「お嬢様、台所はあたしの城ですよ」
丸顔に灰茶の髪を布巾で包んだ女性が、太い腕を組んで立っていた。ヨルダだ。屋敷の料理人。前掛けに粉が付いている。
「台所を少しお借りしてもよろしいかしら」
令嬢モード発動。占拠する気しかないのにお借りとか言ってるわたし。
「何をなさるおつもりで」
「パンを。自分で焼いてみたくて」
ヨルダの太い眉が動いた。困ったように前掛けで手を拭く。
「お嬢様がパンをねえ......」
「駄目、ですか?」
「駄目とは言いませんけど。道具は元の場所に戻してくださいね」
許可が出た。条件つきだけど。
「失敗する未来が三通り見えますが、どうぞお続けください」
ロクスが後ろから言った。予言者か。
***
計画を立てる。木板に炭筆で書き出していく。この世界の筆記用具は不便だけど、頭の中だけで整理するよりはましだ。
一、果物の皮を水に浸ける。
二、三日待つ。泡が出たら発酵している。
三、雑穀の粉と混ぜて生地にする。
四、こねる。寝かせる。膨らむのを待つ。
五、村の窯で焼く。
簡単だ。
待って、温度管理は? 前の世界ならオーブンのダイヤルを回せばいい。この世界の窯は薪の量で温度を調節する。どのくらいの薪で、どのくらいの温度になるのか。
まあ、それは焼く時に考えよう。
待って待って、発酵の温度も管理しないと。酵母は高すぎても低すぎても死ぬ。窯の余熱を使えば......いや、余熱の温度も分からない。
でも大丈夫。原理さえ分かっていれば応用はきく。
「待って、これいけるかも。果物の皮で酵母を起こして、温度は窯の余熱で管理して、生地は二段階で仕込んで——いや待って、全部同時にできるかも。いやいける!」
「お嬢様」
「雑穀の粉を一次発酵させてる間に窯の温度を確認して、二次発酵は窯の近くに置けば温度が保てるし、焼く時間は——」
「お嬢様」
「何」
「息継ぎを」
ロクスが真顔だった。ヨルダが台所の隅で前掛けの紐をいじりながら、微妙な顔をしている。
「計画は順調なようですね。お嬢様のご構想はつまり、当家の食事革命の第一歩であり、百年来の惰性に終止符を打つ壮大なる挑戦と理解してよろしいでしょうか」
「パン焼くだけだって言ってるでしょ」
「ええ、パンを焼くだけ。ただ、材料が不足し、道具が足りず、技術が未知で、窯の温度管理も未経験というだけです」
「全部言うな」
ロクスの口元がわずかに緩んだ。この人は、わたしが突っ走るのを止めない。止める気がない。面白がっているだけだ。
分かっている。でも、止められないのだ。
***
夕暮れの庭で、果樹の実を集めた。
小さな、丸い実だ。前の世界のリンゴに似ているけど、もっと小ぶりで酸っぱそうな色をしている。皮がべたつく。これなら酵母がいる可能性は高い。
瓶に水を入れて、皮を浸す。あとは待つだけ。
夕日が庭を赤く染めている。果樹の葉が風に揺れて、足元には踏みしめた草の匂いが立ち上っていた。
前の世界では、半額の惣菜を探すのが小さな楽しみだった。閉店間際のスーパーで、黄色い値引きシールを見つけた時のあのささやかな勝利感。
今日の果物集めは、あれに似ている。果物の皮の感触が指に残って、わたしはもう一度だけ深く息を吸い込んだ。草の匂いと、かすかに甘い発酵のはじまりの匂い。
部屋に戻って、計画を木板にびっしり書き出した。一から五の工程。材料の一覧。温度の目安。発酵の見極め方。
よし。これなら、いける。工程の数だけ自信がある。五つ全部、筋が通ってる。
——明日の自分が泣くことになるとは、この時のわたしは知らない。




