第2話「この屋敷、15点」
二日目の朝は、一日目よりマシだった。
少なくとも、天井が知らない天井であることには慣れた。粥が不味いことにも。
まだ慣れないのは、この体と、この家の状態だ。
「ロクス、今日は屋敷を全部見て回りたいんだけど」
「全部、でございますか」
「全部」
「承知いたしました。では、覚悟をお決めください」
覚悟って何。
***
覚悟の意味は、すぐに分かった。
ロクスの後ろについて歩き出すと、廊下の床板がぎしりと軋んだ。古い木が悲鳴を上げるような音だ。
屋敷は、思っていた以上にひどかった。
一階の大広間は天井から雨漏りの染みが広がっていて、壁紙は湿気でめくれ上がっている。15点。部屋として成立しているだけマシだから。
客間は三部屋あって、使えるのは一部屋だけ。残りは家具に布がかけられたまま埃を被っている。合わせて10点。
庭に出た。雑草が膝まで伸びていて、かつて花壇だったらしい石囲いの中からも草が生えている。8点。緑があるだけ、まあ。
「ここ、やばくない?」
「お嬢様の仰る『やばい』が、どの程度の『やばい』かによりますが。崩落の恐れがあるという意味でしたら、東棟の一部のみです」
「東棟、崩落するの?」
「可能性の話でございます」
可能性の時点で十分やばい。
「修繕の優先度を検討する段階かと存じます」
——つまり「手がつけられません」。知ってた。
使える部屋を指折り数える。わたしの寝室、食堂、台所、父の書斎、母の居間。使用人はヨルダとペトラの二人だけで、彼女たちの部屋を合わせても、この広い屋敷のほんの一角しか生きていない。
残りは全部、埃と蜘蛛の巣と放置の年月に占領されている。
この屋敷、15点。
いや、人が住んでいるだけ加点して、15点。
***
庭の隅を歩いていた時だった。
足元に、何かが触れた。
柔らかくて、温かい。見下ろすと、三毛猫がわたしの足首にすり寄っている。丸い顔に、ふくよかな体。のんびりとした目でこちらを見上げている。
「……猫」
しゃがんで手を伸ばすと、猫はためらいなく頭をこすりつけてきた。喉がゴロゴロと鳴る。毛並みが陽の光を含んで温かい。
前の世界で行った猫カフェの猫は、ここまで懐かなかった。人に懐かれた記憶が薄いわたしには、この無防備な信頼がちょっとだけ刺さる。
「あなた、名前あるの?」
「屋敷に住み着いた野良猫ですね。名前は特には」
ロクスが少し離れた場所から答えた。猫はロクスの方を見ようともしない。体の向きすら変えない。ミレイアの膝にぐりぐりと額を押しつけるだけだ。
「ミケ」
「は?」
「この子、ミケ。今決めた」
「三毛猫だからミケ、と」
「何か問題ある?」
「いえ。分かりやすくてよろしいかと」
ミケは喉を鳴らし続けている。ロクスには見向きもしない。面白い猫だ。
***
屋敷巡りのあと、父の書斎を訪ねた。
「旦那様は、そうですね。期待される回答は得られないかと」
ロクスが書斎の前でそう言った。予言か忠告かよく分からない。
ノックして入ると、蝶番がきいと鳴いた。書斎は本と書類の山だった。古い革装の本が崩れそうなほど積まれていて、窓際の椅子に男が座っている。ベルク・カルセド。わたしの父だ。
白髪混じりの髪に疲れた目。投げやりな姿勢で本を開いているが、ページをめくっている様子はない。
「お父様」
「ん」
「屋敷のことなんですけど。東棟の壁が」
「ああ、あれな。前から言われてる」
「修繕とか、しないんですか」
ベルクは本から目を上げた。わたしを見て、また本に戻す。
「まあ、好きにやれ」
それだけだった。
好きにやれって。この人、領主だよね?
書斎を出た。廊下でロクスが待っている。
「言った通りだろ」とは言わない。ただ白手袋の指先を揃えて、次の行き先を目で促すだけだ。
「好きにやれって言われた」
「さようでございますか」
「……好きにやるしかないじゃん」
***
母には、居間で出くわした。
「おはようございます、お母様」
令嬢モードで挨拶する。この人が何を考えているか、全然分からない。前の世界の教授より怖い。
セラ・カルセド。きっちり整えた髪に、淡い色のドレス。手元では鵞ペンが手紙の上を走っている。社交の手紙らしい。蝋印の道具が脇に置かれていた。
「あら、ミレイア。おはよう」
顔を上げたセラの目が、わたしを上から下まで見た。
「お顔色がいいわね」
甘い香水の匂いが鼻に届く。涼やかな声。そして目が、笑っていない。
「ありがとうございます」
「最近、よく歩き回っているそうじゃない。いいことだわ」
知ってるんだ。屋敷の中をうろうろしていたこと。誰に聞いたのか。ペトラか、ロクスか。
「ええ、少し運動を、と思いまして」
「そう。無理はしないでね」
優しい言葉のはずなのに、観察されている感覚がぬぐえない。この人は何かに気づいているのか、ただ単に鋭いだけなのか。
前の世界では、家族にこんなふうに見られたことがなかった。関心を持たれること自体が、久しぶりすぎて居心地が悪い。
居間を出ると、背中に視線を感じた。振り返りたくなったけど、やめた。
***
日が傾き始めた頃、廊下の窓から夕日が差し込んでいた。風が窓枠をかたかたと鳴らしている。
橙色の光が埃っぽい廊下を染めている。ロクスが隣を歩いている。
「ねえ、ロクス」
「はい」
「あなた、この家にどのくらいいるの?」
「さあ。長いですね」
「長いって、どのくらい」
「覚えていないくらい、です」
覚えていないくらい。没落した貴族の屋敷に、いつからか分からないほど長く仕えている執事。変な話だ。もっといい職場はいくらでもあるだろうに。
「昔のお約束がありまして」
ロクスは窓の外を見ながら、世間話のように言った。
「お約束?」
「ええ。あまり手を出さないことにしておりますので」
何の話だ。聞き返そうとして、やめた。今の言葉は、答えをくれる種類の言葉じゃない。
——今は、それどころじゃない。
屋敷は15点。父は放置。母は怖い。食事は5点。使用人は二人。崩落しそうな東棟。
でも猫がいる。ミケがいる。
そして、この変な執事がいる。
何から始めればいいか、まだ分からない。でも、始めないといけないことだけは分かった。
わたしは窓の橙色を眺めながら、さっき父に言われた言葉を反芻した。
好きにやれ。
——好きにやるよ。まずは、あの粥からだ。




