第1話「目覚めたら粥が不味い」
知らない天井だった。
しかも、やたら高い。わたしの部屋の天井はこんなに——いや、そもそもわたしの部屋ってどこだっけ。
体を起こそうとして、手が滑った。ベッドが、広い。
シーツの手触りが粗い。織り目の荒い亜麻布みたいな感触が、指先にざらつく。しかもこの手、細い。わたしの手じゃない。
いや。
わたしの手じゃない、のか?
頭がぐらぐらする。記憶がふたつ、重なって剥がれて、またくっつく。前の世界のことは覚えている。大学の講義をさぼって図書館にいたこと。帰りに安い弁当を買ったこと。それから——それから、どうなった?
思い出せない。
かわりに知らない記憶がある。この部屋。この屋敷。自分の名前。
ミレイア・カルセド。
辺境貴族の、令嬢。
らしい。
あまりにも現実味がなくて、わたしはベッドの端から足を下ろし、そのまま床に座り込んだ。冷たい石の感触がお尻に染みる。前の世界でも疲れるとこうやって床に座ってた。狭いアパートの床に。
この部屋は広い。無駄に。天井の梁に蜘蛛の巣がかかっていて、壁の装飾は色あせている。古い、としか言いようがない部屋だ。
でも前の世界の六畳一間よりは、まあ、広い。
広いからなんだ、という話だけど。
***
コンコン、と扉が叩かれた。
「お嬢様、お目覚めでしょうか」
低い声だった。丁寧だけど、どこかのんびりしている。急ぐ気配がまるでない。
「……はい」
慌てて立ち上がる。床に座り込んでいたのを見られたくなかった。令嬢なのだ、一応。
扉が開いた。
長身の男が立っている。灰色がかった銀の短髪に、琥珀の瞳。光の加減で金色にも見えるその目が、わたしを見下ろした。黒い執事服に白い手袋。きっちり整った身なりは、この古びた屋敷には少し不釣り合いだ。
「おはようございます、お嬢様。本日も良き日を」
右手を胸に当て、軽く頭を下げる。動作に迷いがない。何百回もやってきた動作だと、見ただけで分かる。
「おはようございます」
反射的に返した。棒読み。完全な棒読み。
わたし、演技力ゼロだな。
「体調がお優れでないようでしたら、本日のご予定はすべて取り消しにいたしましょうか」
——要は「寝てろ」ってことでしょ。
「いえ、大丈夫です。少し、ぼんやりしていただけで」
「さようですか。では朝食の準備が整っておりますので、食堂へご案内いたします」
食堂。朝食。なんだかすごく普通の流れだ。
わたしはこの男——ロクスという名前が自然と浮かぶ。この家に長く仕えている執事だ。どのくらい長くかは分からないけど、この屋敷の隅々を知り尽くしている、という印象だけがある。
元のミレイアの記憶は、ほとんど残っていなかった。名前と、いくつかの断片的な事実だけ。この人がどんな人だったのか、前の持ち主がどんな気持ちでこの部屋にいたのか。気配すら、感じない。
まるで空っぽの器に放り込まれたみたいだ。
「お嬢様?」
「あ、はい。行きます」
ロクスの後をついて廊下に出た。石造りの廊下は朝でもひんやりしていて、裸足の足裏に冷たさが走る。二人分の足音が反響する。ロクスの靴音は規則的で、わたしの裸足のぺたぺたは不規則だ。
「お嬢様、お召し物を」
振り返ると、ロクスが上着とスリッパを差し出していた。いつの間に用意したのか、手際がいい。白手袋の指先が布地を支えている。
「ありがとう」
「どういたしまして」
淡々としている。この人、何考えてるか分からない。でも敵ではなさそうだ。多分。
***
食堂は思ったより狭かった。長テーブルがあるけど、椅子はほとんど片づけられている。使われているのは端の三脚だけ。
テーブルの上に、粥と黒パンが置かれていた。
粥を一口すくって、口に入れた。
水っぽい。風味がない。塩気はあるけど、塩としか言いようがない味だ。前の世界で食べた一番まずい食事——夜中に水だけで作ったおかゆ——の方がまだましだった。あれには少なくとも醤油があった。
この粥、5点。前の世界のあの安い麺が100点だとすれば。
黒パンも試す。硬い。歯が負ける。
3点。
「お口に合いませんか」
ロクスが横に立っている。涼しい顔だ。
「……いえ、美味しいです」
「さようですか。ではもう一杯」
「遠慮します」
「かしこまりました」
何も表情が変わらない。でもほんの少しだけ、口元が動いた気がする。笑ったのか、あれは。
「少し、外を見てみたいんですけど」
「お嬢様のお加減を考えますと、倒れる未来が二通りほど見えますが」
何その予言。
「……大丈夫です。ちょっと見るだけですから」
「では、短い散策ということで。お支えいたしましょうか」
「自分で歩けます」
立ち上がって、ふらついた。ロクスが何も言わずに半歩近づいて、離れた。支えようとして、やめたのだ。
この執事、妙だ。面白がってないか?
***
廊下を歩きながら、屋敷の状態が少しずつ見えてきた。
壁紙が剥がれかけている。燭台は磨かれていない。客間のドアを開けたら、埃が舞い上がって思わずむせた。
朝日が差し込む窓から、光の粒子が漂っている。きれいだと思ったのは一瞬で、あれは全部埃だと気づいて現実に引き戻された。
「なにこれ」
「カルセド男爵家の屋敷です」
「いや、そうじゃなくて」
「お嬢様は現在、ご自分の居場所について疑問をお持ちのようですね。こちらはカルセド男爵家の屋敷であり、お嬢様はそのご令嬢であらせられます」
丁寧に説明されても困る。
「ここ、いつからこうなの」
「ここ数年は、こういった状態かと」
数年。数年放置してこれか。
前の世界の図書館の方が居心地よかった。あそこには少なくとも暖房と清潔な床があった。
でも、と思う。前の世界にも、居場所なんてなかったか。図書館だって閉館すれば追い出される。帰る部屋はあったけど、誰もいなかった。
ここには少なくとも人がいる。変な執事だけど。
「まあ、なんとかなるでしょ」
——口癖が出た。前の世界から持ち込んだやつ。何の根拠もないのに、この言葉だけは勝手に出てくる。
「なんとか、でございますか」
「うん。なんとか」
ロクスが少し間を置いた。窓の外を見る仕草をして、それから戻った。
「お嬢様、お召し物を整えましょう。一日が始まります」
そうだ。ここで暮らすのだ。
わたしは知らない体で、知らない屋敷で、知らない世界にいる。
とりあえず、この粥をなんとかしよう。
前の世界で学んだことがあるなら、せめて食べ物くらいは。
——まあ、なんとかなるでしょ。




