第86話「お茶の時間は死守するらしい」
塩がない。
小麦粉もない。干し肉の定期便も、来ない。
朝、台所に足を運んだのは、たまたまだった。ヨルダに頼まれた木板を取りに行っただけ。でも、棚を見た瞬間に足が止まった。
乾物が並んでいたはずの場所が、むき出しの板になっている。塩壺の蓋を持ち上げたら、底にうっすらと白い粉が残っているだけだった。指先でなぞると、ざらりとした感触が残る。
——ガレド。やってくれたわね。
「まあ、想定の範囲内ですわ」
独り言が出た。令嬢モード。誰もいないのに。
想定してなかった。全然してなかった。
一審で勝った。上訴されるのも、監査官に口出しされるのも覚悟していた。でも、物資の供給を実際に絞ってくるとは。書面の末尾にあった「今後の取引について再考する」は、こういう意味だったのか。
台所を出て、足早に書斎へ向かった。廊下の窓から差し込む朝の光が、妙にまぶしい。冬の入り口の冷えた空気が、頬を刺す。
***
書斎の扉を開けた瞬間、インクと古い紙の匂いがした。冷え込んだ朝の空気が、部屋の中にもそのまま滞っている。
ロクスがすでにいた。卓の上に木板が三枚並んでいる。数字がびっしり書き込まれていた。
「ロクス。塩がない」
「存じております。昨日の時点で、定期の荷馬車が来なかったことを確認いたしました」
「知ってたなら先に言ってよ」
「本日の朝にお伝えするつもりでしたが、お嬢様の方が先に台所へ行かれたようで」
ロクスの声は、いつも通りの温度だった。塩がなくなっても、この人の声の温度は変わらない。
「状況を整理します」
ロクスが木板を一枚こちらに向けた。
「ガレド殿は、通行税を盾にしております。正当な商行為として、自身の管轄圏を通過する物資に追加の税を課す形です。直接の取引停止ではなく、運搬費用を引き上げて実質的に供給を止める手法ですね」
「回りくどい嫌がらせだ」
「法的には正当です。通行税は商慣習として認められておりますので」
わたしは椅子に深く座り、額に手を当てた。
怒っても物資は来ない。怒りで小麦粉が湧くならいくらでも怒るけど、残念ながらそういう仕組みにはなっていない。
「——対策を考える。ガレドの供給網を通らない方法」
「賢明です。構いませんが——」
ロクスが立ち上がり、書斎の棚から何かを取り出した。
茶葉の缶だった。
「——お茶の時間は死守させていただきます。あと四十分です」
「は?」
「四十分後にお茶の時間が参りますので、それまでに方向性をお決めいただければ」
わたしは口を開けたまま、三秒ほどロクスの顔を見た。
「塩がないんだけど!」
「正確には、従来の供給経路が遮断されたということですね。お茶は確保してあります」
「優先順位!」
——要は「勝手にやれ」ってこと。でもお茶は出すってこと。この人の優先順位、本当に意味が分からない。
でも。不思議なことに、ロクスの涼しい顔を見ていたら、頭の中でぐるぐる回っていた焦りが少しだけ静まった。
物資が止まっても、お茶の時間は来る。世界が崩れかけても、この人はきっと同じ顔で茶を淹れている。安心感なのか、呆れなのか、その両方なのか、よく分からない。
「分かった。四十分で方向性を出す」
「結構です」
わたしは木板を引き寄せて、炭筆を手に取った。
まず、現状の整理。ガレドの網を通らない供給ルートはいくつあるか。
一つ。ダーヴォの行商ルート。これは生きている。ただし、ダーヴォが一度に運べる量には限りがある。塩も小麦粉も重い。辺境まで来るのに日数がかかるから、頻度も上げにくい。
二つ。下流の集落。ハウゼのところだ。下流経由で別の街道から物資を引っ張れないか。ガレドの管轄圏を迂回する形で。
三つ。自前で賄えるものを増やす。塩は無理だけど、乾燥肉なら猟師がいれば作れる。野菜は冬で難しいが、根菜の備蓄を増やすことはできる。
仕入れ先が一つしかないから詰む。二つ、三つあれば、一つ止まっても持ちこたえられる。
炭筆が木板の上を走る。数字を並べる。ダーヴォの運搬量、下流経由の距離と日数、自前で補える品目のリスト。
「ロクス。下流経由で物資を引けるとしたら、どの街道を使う?」
ロクスが白手袋の指で地図を広げた。——右手の手袋を引き直す仕草が、一瞬だけ見えた。
「南回りの旧街道が使えます。ガレド殿の管轄圏を通りません。ただし、距離は倍になります」
「倍か......」
「しかし、距離が倍でも完全に止まるよりは遥かに良い。それに、下流の集落に中継地の機能を持たせれば、日数は短縮できます」
木板に書き込む。南回りの旧街道。中継地としての下流集落。ダーヴォの行商ルートと組み合わせれば、ガレドの網を完全に迂回できる。
「——これなら、いける」
「あと七分で、お茶の時間です」
「聞いてた?」
「聞いておりました。方向性は固まったようですので、お茶にしましょう」
***
お茶の時間は、結局きっちり守られた。ロクスが淹れた茶は、いつもと同じ温度で、いつもと同じ香りがした。湯気が立ち上る先に、窓の外の灰色の空が見える。物資が止まっても、この茶葉だけはしっかり確保してある。
どういう優先順位なんだろう、本当に。
でも、温かい茶を飲んで、椅子に背を預けて、ふうと息をついたら——頭がすっきりした。木板に書いた数字を改めて見る。ダーヴォルート、南回りルート、自前調達。三本の柱。完璧じゃない。でも、一本しかなかった頃よりずっとましだ。
「ロクス。明日、下流に行く。ハウゼさんに中継地の話を持ちかける」
「承知いたしました」
「それと、ダーヴォさんの次の巡回はいつ?」
「十日後の予定です」
「塩と小麦粉の追加を頼む。量は——多めに。冬を越せるだけ」
ロクスが軽くうなずいた。白手袋の指が木板の数字をなぞる。
「ところで、お嬢様。下流との共同出荷の初回日程ですが」
ロクスが木板をこちらに向けた。
「三日後です」
——三日。
物資の代替ルートの構築と、初回出荷の準備を、同時にやらなきゃいけない。
準備、全然できていない。
茶碗を置いた。かちん、と乾いた音が書斎に響いた。指先から温もりが抜けていく。さっき「いける」と思った自分を殴りたい。やること、増えただけだった。
窓の外で、風が枯れ枝を揺らしている。冬が近い。時間は待ってくれない。
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