第85話「一安心、とは言わせてくれないらしい」
その日の朝、ロクスが書斎に入ってきた時、手に封蝋つきの書面を持っていた。
商業裁判所の紋章。
——来た。
羊皮紙の封筒は、手にずしりと重かった。封蝋は濃い赤紫。紋章の凹凸が指先に触れる。
わたしは深く息を吸い、ロクスの顔を見た。
「先に読んだ?」
「未開封です。お嬢様宛ての書面ですので」
「......そう」
椅子に座る。木板と炭筆を脇にどけて、書斎の卓の上に封筒を置いた。
手が、微かに震えている。
封蝋にナイフの刃を当てた。かちり、と乾いた音がして、蝋が割れた。
羊皮紙を引き出す。厚みのある、ざらりとした手触り。インクの匂いがかすかに鼻に届く。黒々とした筆記体が、紙面にびっしりと並んでいた。
読む。
——商業裁判所第一審判決。原告ガレド・ヴェルメス。被告カルセド家当主代行ミレイア・カルセド。
文字が、目の前で踊っている。法律の文言は回りくどくて、一読しただけでは頭に入らない。
「ロクス」
「はい」
「これ、要は何て書いてあるの」
ロクスが羊皮紙を受け取り、視線を通した。五秒。十秒。
「一審において、当方の主張が認容されました。独自交易ルートの開拓は既存契約の違反に当たらない、という判断です」
「——勝った?」
「はい」
「勝った!」
「正確には、一審において当方の主張が認容されたということですね。控訴審は別です」
「素直に喜ばせてくれない?」
でも、勝った。勝ったのだ。
椅子の背にどさりと体を預けた。全身から、ぎゅっと絞られていた力がほどけていく。肩が下がる。首の後ろがじんじん痺れている。ずっと、無意識に力を入れていたらしい。
窓の外から小鳥の声が聞こえた。いつもと同じ朝なのに、世界がほんの少しだけ明るく見える。
半年間。ガレドの訴えがどうなるか、ずっと頭の隅にあった。答弁書を出した後も、結果が来るまでの間、何度も木板の数字を眺めながら「もし負けたら」を考えていた。
交易ルートを潰されたら、軟膏の販路がなくなる。報告書の数字が根底から崩れる。
でも——勝った。
***
安堵が体を満たしている時間は、長くは続かなかった。
ロクスが、別の書面を取り上げた。
「お嬢様。もう一通、書面が届いております」
紙質が違った。羊皮紙ではなく、上質な白い紙。——金をかけている。封蝋はなく、折り畳まれただけだが、筆跡に見覚えがあった。
ガレドの書面。
ロクスが広げて読み上げた。
「『一審の判決については遺憾であり、上訴の手続きを進める所存である。また、近く行われる監査官による評価に際し、カルセド領の運営状況について当方の見解を王都に申し述べる予定である』」
わたしの手が、卓の上で止まった。
「——上訴するの?」
「はい。一審で終わりではないようです」
「しかも、監査官の評価にも口を出す?」
「この展開は、三通りほど予想しておりました」
「全部悪い展開でしょ」
「はい」
ロクスの声は淡々としていた。でも、その淡々さの中に「覚悟してください」が透けて見える。
さっきまでの安堵が、急速に萎んでいく。風船に針を刺したみたいに、すうっと抜けていった。胃の奥がきゅっと縮む。さっきまで明るく見えた窓の外が、なんだか色褪せて見えた。
勝ったのに。一審では勝ったのに。
***
「整理しましょう」
ロクスが白手袋の指で書面を卓に広げた。右手の手袋を引き直す仕草が、一瞬だけ見えた。
「まず、上訴について。控訴審には時間がかかります。半年から一年。つまり、監査官の本格評価までには結論が出ません」
「ということは?」
「一審の判決が有効なまま評価を受けられます。交易ルートは維持できる」
少しだけ、息がつけた。
「次に、ガレド殿が監査官に意見を申し述べる件ですが」
ロクスが書面の末尾あたりを指で示した。
「ガレド殿の書面は、今後の関係の再構築を示唆しておりますね」
——要は「嫌がらせを続ける」ってこと。再構築って言葉、そういう使い方する?
「だからそれ、嫌がらせの婉曲表現でしょ」
「否定はいたしません」
わたしは椅子に深く座り直して、天井を見上げた。
一つ勝っても、次が来る。訴訟に勝っても、上訴が来る。上訴だけじゃなく、監査官への口出しまで。
手のひらを見た。封蝋を割った時の赤紫の粉が、まだ親指の腹に残っている。
——成功したら楽になるって、誰が言ったの。
成功は、新しい面倒の入り口だ。問題を一つ解決しても、その解決自体が次の問題を連れてくる。
「ロクス」
「はい」
「報告書、もう一回見直す。ガレドが監査官に何か吹き込むなら、こっちの報告書の完成度がより重要になる」
「賢明です」
「それと、もう一つ」
わたしはガレドの書面を手に取った。文末に一行、他の文章とは少し筆圧の違う文字がある。
「『今後の取引について再考する』。これ——物資の供給を絞るってことだよね」
「可能性は高いかと」
ガレドは、もともとカルセド領への物資供給元の一つだ。直接の取引量は大きくないが、ガレドの息がかかった商人たちが動きを止めれば、冬越えの物資に影響が出かねない。
一審で勝った。でも、全然楽になっていない。
***
夜。
自室の寝台に腰かけると、ミケがいつの間にか足元に来ていた。三毛の丸い体が、わたしの足首に擦り寄る。
「ミケ、聞いて」
ミケが顔を上げた。丸い目がこちらを見ている。
「今日は勝ったの。でも勝ったのに全然楽にならなかったの。おかしいでしょ」
ミケは目を細めて、答えなかった。
「ガレドって人がね、諦めてくれないの。上訴するって。しかも監査官にも余計なこと言うって。勝ったのに、やること増えたの。意味分かる?」
ミケの尻尾がゆらりと揺れた。分かっていない。間違いなく分かっていない。
「——まあいいか。猫に愚痴ったところで、解決はしない」
でも、少しだけ胸が軽くなった気がする。声に出すと、頭の中でぐるぐる回っていたものが、ほんの少し整理される。
ミケの背中を撫でた。三毛の毛並みは柔らかくて、指の間をするりと抜けていく。夜の屋敷は静かで、遠くで虫の声がかすかに聞こえる。もうすぐ、それも聞こえなくなる季節だ。
ガレドの書面の一文を思い出す。
「今後の取引について再考する」。
具体的に何が起きるか分からない。でも、あの書き方は——穏やかではない。
明日もやるか。やるしかない。
三十二点から六十点まで。一ヶ月。
勝ったのに増えた宿題を抱えて、わたしは蝋燭を吹き消した。
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