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辺境令嬢と、退屈知らずの執事  作者: 猫野ひかる
第5章「半年の答え合わせ」

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第84話「完璧な報告書を、書式から直す羽目になった」

 徹夜した甲斐があった。


 わたしは完成した報告書の木板を掲げ、満足げに頷いた。


「できた。見て、ロクス。見てよこれ」


 書斎の窓から差し込む朝の光が、木板の表面を白く照らしている。蝋燭はとっくに燃え尽きて、蝋の溶けた匂いがかすかに残っていた。目の下に隈ができているのは自覚しているが、この出来栄えなら睡眠の対価として十分だ。


 ロクスが木板を受け取り、上から下まで視線を通した。


 数秒。


 十秒。


 ——長い。


「お嬢様」


「何」


「王国の公式書式をご存知ですか」


「......え?」


「項目の記載順序が異なります。数値の単位表記も独自の方式をお使いですね。また、公印の押印位置は右下ではなく左上が正式です」


「——全部違うの?」


「はい。お嬢様が書式を調べずに書かれたのではないかと、三通りほど心配しておりましたが」


「三通りも心配してたなら先に言ってよ!」


 ロクスは白手袋の右手をさりげなく引き直しながら、涼しい顔で答えた。


「お嬢様の集中を妨げるのは本意ではありませんでしたので」


 ——徹夜。六時間。全部書き直し。


 木板を握ったまま、わたしはゆっくりと椅子に座り直した。全身から力が抜けていく。六時間分の集中が、一瞬で砂になって崩れた気がした。


 目の前が暗い。いや、暗いのは蝋燭が消えているからだ。物理的に暗い。でも精神的にも暗い。


***


「まず、項目の順序を直しましょう」


 ロクスが新しい木板を取り出し、炭筆で枠線を引き始めた。その手つきは迷いがない。この人、公式書式を頭に入れている。


「王国の報告書は、冒頭に領地名と報告者、次に期間、そして成果の概要。数値は銀貨換算で統一します」


「銀貨換算......うちの帳簿、銅貨混じりなんだけど」


「換算いたします」


 わたしは木板に書いた数字を読み上げ、ロクスがそれを公式の形式に書き直していく。炭筆が木板を滑る音だけが、書斎に響く。わたしの声と、ロクスの筆記音。そのリズムが噛み合ってくると、少しずつ頭の霧が晴れていく。


 窓の外は、もう明るくなっている。朝靄が晴れて、薄い陽射しが書斎に差し込んでいた。鳥が一声鳴いて、遠くで犬が応えた。辺境の朝は、いつだって穏やかだ。報告書の中身がどれだけ焦っていても。


「生産量の項目ですが」


「うん」


「『前年比三〇〇パーセント増』と記載しましょう」


「元がゼロだから三〇〇パーセントも何もないでしょ」


「では『驚異的な成長率』と」


「嘘はダメ」


「嘘ではありません。事実です。ゼロから始まったのですから」


「それはゼロから始まったこと自体が問題なんであって——」


「であれば、『創業初年度において月産五十瓶の生産体制を確立』と記載するのはいかがでしょう」


 わたしは口を開きかけて、閉じた。


 ——要は「ちょっとはマシになった」。でもロクスの書き方だと、十倍くらい立派に聞こえる。


「改善の兆候が顕著に見られ——」


「それもう盛ってるでしょ」


「事実に基づいた肯定的表現です」


「もう好きにして!」


 投げやりに言ったわたしに、ロクスは微かに口角を上げた。


「では、お嬢様。少し落ち着かれましたところで」


「落ち着いてないけど」


「数字を正直に見せるか、見栄えよく整えるか。どちらを選びますか」


 その問いに、わたしの手が止まった。


 正直に見せる。月産五十瓶。売上は銀貨で三十枚。住民の生活水準は微増。水路改修は半分。


 飾らない数字は、みすぼらしい。でも——嘘の数字を並べても、ラディスは見抜く。あの監査官は、数字の裏にあるものを読む人だ。


「正直に」


「ほう」


「正直に書く。ただし、ゼロからどこまで積み上げたかが分かるように。前提がゼロだったこと自体を、正直に記載する」


 ロクスが少しだけ目を見開いた。琥珀色の瞳が、窓からの光を受けてほんの一瞬、揺れた。——珍しい。この執事が驚く顔は、あまり見たことがない。


 その表情を見た瞬間、採点が止まった。自分の判断が、この切れ者の想定を超えた。——今日はたぶん、九十点くらいある。


「成長の幅を見せるのですね。到達点ではなく」


「そう。三十二点だけ見たら落第だけど、ゼロから三十二点まで半年で上げたなら——まあ、少しはまともに見えるでしょ」


「賢明なご判断です」


 それから二時間。わたしたちは木板の数字を一つ一つ洗い直し、「ゼロからの推移」が見える形に整え直した。何度も消して書き直すうちに、木板の表面が炭で薄黒く染まった。指先も真っ黒だ。爪の間に入った炭の粉が、なかなか取れない。


 ロクスの書く文字は整っていて読みやすい。わたしの炭筆のがさがさした文字と並ぶと、差が歴然だ。


「ロクス、字がきれい」


「恐れ入ります」


「報告書の本番用、全部書いてくれない?」


「公式提出用は羊皮紙にインクで記します。お嬢様の名前で提出するものですので、署名だけはご自身で」


 ——結局、ほぼ全部ロクスが書くことになった。


***


 報告書の下書きが仕上がった頃には、窓の外の陽射しはすっかり高くなっていた。書斎の中を光が横切って、壁に立てかけた木板の文字を白く照らしている。


 ロクスが淹れた茶を受け取る。熱い。両手で包むと、徹夜で冷えた指先にじわりと温度が戻ってきた。茶の香りが鼻をくすぐって、空腹を思い出させる。そういえば昨夜から何も食べていない。


 報告書は、たぶん及第点だ。数字は正直に、でも見せ方は工夫して。ゼロから三十二点への道のりが、ちゃんと読める形になっている。


「——でも」


 わたしは茶碗を見つめた。湯気が細く立ち上っている。


「報告書ができても、まだ訴訟の件がある」


 ロクスが茶碗を置いた。かちり、と小さな音。


「お嬢様。商業裁判所からの書面が、近日届くはずです」


 ロクスの声は、いつもより静かだった。


 訴訟の結果。ガレドが起こした、独自交易ルートに対する契約違反の訴え。答弁書はロクスが作って送った。結果は——まだ分からない。


 勝てば、交易ルートを維持できる。負ければ、報告書に書いた数字の前提が崩れる。


「ロクス」


「はい」


「結果が来たら、まず中身を確認して。わたしが取り乱す前に、要点だけ教えて」


「承知いたしました」


 訴訟の結果。——それ次第で、この報告書の意味が変わる。

お読みいただきありがとうございました!


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