第83話「質で殴る。量はあとから」
グリムの小屋は薬草の匂いで充満していた。
乾燥棚に並ぶ葉を一枚ずつ裏返しながら、老人は「まず、ここからじゃ」と言った。
——共同生産、初日。わたしは炭筆を握りしめてメモを取る。
小屋の中は薄暗い。窓から差し込む光が、空気中に舞う埃をきらきら照らしている。壁際には煎じ薬の道具が並び、棚には陶器の瓶がぎっしりと詰まっていた。
薬草の青臭い匂いの奥に、かすかに蜜蝋の甘い香りが混じっている。グリムが普段から軟膏を練っている証拠だ。
「お嬢さん、急かんでいいぞ」
グリムが振り返った。白髪を短く刈り込んだ頭。日焼けの深い皺。指先は薬草の汁で茶色く染まっている。爪の間にまで緑が滲んでいて、四十年の仕事が手そのものに刻まれている。背は曲がりかけだが、乾燥棚から葉を取る手つきは驚くほど素早かった。
「急いでないです。ちょっと焦ってるだけで」
「同じじゃろうて」
——同じだった。
わたしが木板に書いた手順を見せると、グリムは目を細めてしばらく眺めた。軟膏の作り方を、工程ごとに分けて書いたものだ。
「ふむ。順番はこれでいいが、分量が違うのう」
「え?」
「広葉草はな、乾燥の具合で薬効が変わる。同じ分量でも、天日で三日干したものと五日干したものでは、練り上がりが別物になるんじゃ」
そこまで考えてなかった。
前の世界なら、工場の品質管理は機械が数値を揃えてくれる。でもここでは、全部手作業だ。温度も湿度も、その日の天気で変わる。同じ山の斜面で採れた薬草でも、日当たりの違いで成分が変わるなんて、木板の手順書には書けない。
手順を書くだけじゃ足りない。「何を見て判断するか」まで書かないと、誰がやっても同じ品にはならない。
「つまり——同じ手順で作っても、同じ品にならない?」
「ならんな。だから、ここを見るんじゃ」
グリムが乾燥棚から広葉草を一枚取り、わたしの手に乗せた。
「触ってみい。指で擦って、粉が出なければまだ乾いておらん。粉が出て、なおかつ葉脈が折れずにしなるなら、ちょうどいい具合じゃ」
指先で葉を擦る。微かな粉が指についた。乾いた草の匂いが、擦った瞬間にふわりと強くなる。葉脈を軽く曲げると——折れずに、しなる。指の腹に、葉の繊維がかすかに抵抗する感触が残った。
「これが、基準?」
「わしの基準じゃ。もう四十年、こうやっておる」
***
外の作業場に移ると、秋の陽射しが肌に柔らかく落ちた。小屋の中の薄暗さに慣れた目が、一瞬だけ眩む。
グリムの小屋の裏手にある石台の上で、わたしたちは実際に軟膏を練り始めた。蜜蝋を火にかけて溶かし、乾燥させた薬草を刻んで混ぜる。蜜蝋が溶ける甘い匂いと、刻んだ薬草の青い匂いが混じり合って、鼻の奥がくすぐったい。木のへらで練る手応えが、じわじわと腕に伝わってくる。最初はごわごわしていた感触が、練るにつれてなめらかに変わっていく。
ロクスは少し離れた場所に立ち、こちらの作業を静かに見守っていた。
「グリム殿の製法に、最適化のご提案をされてはいかがですか」
——要は「おじいちゃんのやり方を変えろ」。言い方が丁寧なだけだ。
でも、ロクスの言うことは正しい。グリムの四十年の経験は素晴らしいけれど、それは「グリムにしかできない品質」でもある。他の人が同じものを作るには、経験を手順に落とし込む必要がある。
「グリムさん」
「ん?」
「さっきの乾燥の見分け方、木板に書いていいですか。指で擦って粉が出るか、葉脈がしなるか。それを基準にして、誰がやっても同じ判断ができるようにしたい」
グリムの手が止まった。
「わしのやり方を変えるんか」
「変えません。グリムさんのやり方を、他の人にも伝えられるようにするんです」
老人がわたしの顔をじっと見た。しわの奥の目が、少しだけ柔らかくなった気がした。
「ふん。悪くないのう」
——前の世界のバイト先を思い出す。コンビニの店長が「数じゃなくて質で売れ」と口癖のように言っていた。安い惣菜でも、並べ方一つで売れ行きが変わると。品揃えを増やすより、一個一個の見栄えを整えるほうが先だって。
あの人、元気かな。
いや——もうあの世界には帰れないんだった。
木のへらの手が、一瞬だけ止まる。へらの先から、練りかけの軟膏がゆっくり垂れた。
でも、あの店長の言葉は、この世界でも同じだ。数を揃えるより先に、質を揃える。「カルセドの軟膏」を手に取った人が、いつ買っても同じ品質だと信じられること。それが、数字以上の価値になる。
***
夕方近く。作業場の石台の上に、完成した軟膏が六つ並んでいた。
陶器の容器に詰め替えた軟膏の表面は滑らかで、薬草と蜜蝋の混ざった香りがほんのり漂っている。
「共同生産初日の成果。品質七十点。量は——聞かないでほしい」
「六瓶ですね」
ロクスが容赦なく数えた。
「聞かないでって言ったのに」
「事実の確認は聞くこととは異なります」
——それは詭弁だと思う。
でも、六瓶。これが共同生産初日の実績。月産五十瓶から、六十瓶、七十瓶へと積み上げるための、最初の六瓶。
わたしは一つ手に取って、蓋を開けた。指先に軟膏をすくうと、するりと滑らかに伸びる。昨日までのものと比べて、粘りが均一だ。グリムの基準を木板に書いて、それに沿って薬草を選別したおかげだろう。
「質で殴る」
「つまり、品質を以て市場における競争優位性を確立なさると。勇ましい宣戦布告ですね」
「言い方」
ロクスが口角を微かに上げた。白手袋の右手を、さりげなく引き直す仕草。最近、この仕草が増えた気がするけれど——気のせいだろう。
「グリムさん」
小屋の入り口でこちらを見ていた老人に声をかけた。
「明日も、来ていいですか」
「来んでもいいが、来るなら朝一番がいい。薬草の選別は、朝の光のほうがよく見える」
——それは「来い」と同じだ。
帰り道。夕暮れの街道を歩く。足元の影が長く伸びて、枯葉の上を滑っている。踏みしめるたびに乾いた葉が割れて、ぱきりと小さな音を立てた。今日一日で腕が重い。軟膏を練るのは、見た目以上に体力を使う。
ロクスがさらりと言った。
「ところでお嬢様。評価に向けた報告書の件ですが、締め切りはご存知ですか」
——報告書。
やばい。完全に忘れてた。
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