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辺境令嬢と、退屈知らずの執事  作者: 猫野ひかる
第5章「半年の答え合わせ」

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第82話「交渉は笑顔で、腹の内は別」

 下流の集落は、朝靄の中で眠たそうな顔をしていた。


 山羊の鳴き声と、どこかで薪を割る音。空気が湿っていて、土と草の匂いがする。


 ——さて。ここで、わたしは商売相手を口説かなくてはいけない。


 隣を歩くロクスは、いつもの黒い執事服に白手袋という出で立ちで、辺境の泥道をまるで舗装された廊下でも歩くように進んでいる。靴底が泥を踏むたびにぐちゃりと音がする——のはわたしの足だけで、ロクスの足音は不思議と静かだった。この男には泥がつかないのだろうか。


 集落の広場——と呼ぶには少々寂しい、井戸の周りの開けた場所に、ハウゼが腕組みをして立っていた。


 痩せた長身。日焼けの深い皺。灰白の短髪に、骨ばった手。


「嬢さん。今日は何の用だ」


 挨拶もなし。相変わらずの直球だ。


 わたしは背筋を伸ばし、令嬢モードを起動した。


「おはようございます、ハウゼさん。本日はお忙しいところ恐れ入りますが、互いの利となるお話がございまして。共に歩める道があれば幸いですわ」


 ——なんだこの台詞。自分で言っておいてぞわっとした。


 ハウゼは眉をぴくりとも動かさなかった。腕組みのまま、こちらを見下ろしている。


「で、本題は」


 令嬢モード、一秒で無効化。わたしの半年間の社交訓練が、ハウゼの前では一切通用しない。


 ロクスがほんの僅かに口角を上げたのが、視界の端に映った。笑うな。


***


「うちに何の得がある」


 集落の小屋の中は薄暗かった。窓は一つだけ。天井の梁に干し肉がぶら下がっていて、燻した匂いが鼻につく。


 木の卓を挟んで、ハウゼが座っている。こちらの提案書——木板に炭筆で書いた共同事業の概要を、ぶっきらぼうに受け取って眺めていた。


「得は三つあります」


 わたしは指を折った。


「一つ目、軟膏の売上の一部がそちらに入る。二つ目、うちの販路をそちらの産物にも使える。三つ目、監査で領地が維持されれば、水路改修も継続できる」


「三つ目は嬢さんの都合だろ」


「ハウゼさんの都合でもあります。この領地が潰れたら、水路の管理は誰がやるんですか」


 ハウゼの指が、卓の上でとんと鳴った。一度だけ。


 沈黙が落ちた。小屋の外で山羊がまた鳴いている。窓から差す光の筋が、卓の上の木板を斜めに照らしていた。埃が光の中をゆっくり漂っている。


 わたしは内心で数えていた。一秒、二秒、三秒。この沈黙は、考えている沈黙だ。拒絶の沈黙なら、もうとっくに席を立っているはず。ハウゼの目が木板の数字を追っている。こちらが出した条件を、頭の中で計算している顔だ。


「具体的に、何をすればいい」


 来た。


「まず人手を借りたい。薬草の選別と乾燥、それから容器への詰め替え。難しい工程はうちで引き受けます。そちらにお願いしたいのは、量をこなせる単純な作業の部分」


「うちの連中に、軟膏づくりを教えるってことか」


「手順は木板に書きます。誰がやっても同じ品になるように」


 ハウゼが腕組みを解いた。片方だけ。


「利益の配分は」


「売上の三割をそちらに。人手と場所の提供分として」


「四割」


「三割五分」


「四割だ」


 わたしは息を吐いた。卓の下で、膝の上に置いた手をぎゅっと握った。


 ハウゼの目は本気だった。この人、穏やかな顔の裏で、しっかり計算している。辺境で生き残ってきた人間の目だ。甘い条件では首を縦に振らない。


 こっちが出せるものと、向こうが出せるもの。互いが持ち寄って、合わさった時に両方が得する形を組む。それが取引の基本だ。


 でも、四割は正直きつい。粗利の半分近くが持っていかれる計算になる。


「ロクス」


 背後に控えていたロクスに声をかけた。


「お嬢様。利益配分を四割とした場合の月次収支は、現行の六掛けとなります。ただし生産量が二倍に達すれば、絶対額では現行の一・二倍です」


 ——要は、一瓶あたりの取り分は減るけど、瓶数が増えれば総額は増える。


「それと」


 ロクスが続けた。穏やかな声のまま。


「単独で月産百瓶を達成する手段が他にあるのであれば、そちらを選ぶのも一案ですが」


 ——要は「他に手がないでしょ」。分かってる。分かってるけど、さらっと追い詰めないでほしい。


 わたしはハウゼに向き直った。


「分かりました。ただし、条件があります。品質の基準はこちらで決めさせてください。『カルセドの軟膏』の名前で出す以上、中身がばらばらでは困る」


 ハウゼが片眉を上げた。


「品質がどうとか、嬢さんが決めるのか」


「わたしが決めます。値段はそっちの意見も聞くけど、品質だけは譲れない」


 数秒の沈黙。


「——検討する」


 ハウゼの口から出たのは、その一言だった。腕組みが戻っている。でも、さっきまでのそれとは力の入り方が違う。考え込んでいる姿勢だ。


 ——要は「断りたいけど断れない」。微妙に、脈はある。


 わたしは立ち上がった。深く頭を下げる。令嬢モードではなく、素の礼として。


「お時間いただいて、ありがとうございました」


 ハウゼが微かに顎を引いた。それだけで十分だった。


***


 帰り道の街道は、落ち葉が風に舞っていた。


 秋から冬への境目。木々の色が褪せて、空気が乾き始めている。踏みしめるたびに、枯葉がかさかさと音を立てた。


「ハウゼ殿の反応は、七割方肯定的でしたね」


 ロクスが、何でもない口調で言った。


「七割をどこから出した」


「腕組みが途中で片方外れていました。あれは無意識に受け入れ態勢に移行した証拠です」


「それだけで七割?」


「加えて、利益配分の交渉を自ら切り出されました。拒否する人間は条件の話をしません」


 ——なるほど。確かに、断るつもりなら「検討する」とは言わずに「帰れ」と言う。あの人はそういう人だ。


 少しだけ肩の力が抜けた。街道の風が頬を撫でて、秋の乾いた匂いを運んでくる。呼吸が少しだけ楽になった気がした。


 でも、七割は七割。残りの三割は、まだ分からない。


 ハウゼの条件は、正直きつい。利益配分は六対四で、こっちが四。


 でも——手を組まなければ、三十二点は三十二点のままだ。


「ロクス。明日、もう一度行く。今度は計算結果を持って」


 風が強くなった。冬の匂いがする。


 三十二点を六十点にするための、最初の一歩。踏み出すなら、今しかない。

お読みいただきありがとうございました!


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