第82話「交渉は笑顔で、腹の内は別」
下流の集落は、朝靄の中で眠たそうな顔をしていた。
山羊の鳴き声と、どこかで薪を割る音。空気が湿っていて、土と草の匂いがする。
——さて。ここで、わたしは商売相手を口説かなくてはいけない。
隣を歩くロクスは、いつもの黒い執事服に白手袋という出で立ちで、辺境の泥道をまるで舗装された廊下でも歩くように進んでいる。靴底が泥を踏むたびにぐちゃりと音がする——のはわたしの足だけで、ロクスの足音は不思議と静かだった。この男には泥がつかないのだろうか。
集落の広場——と呼ぶには少々寂しい、井戸の周りの開けた場所に、ハウゼが腕組みをして立っていた。
痩せた長身。日焼けの深い皺。灰白の短髪に、骨ばった手。
「嬢さん。今日は何の用だ」
挨拶もなし。相変わらずの直球だ。
わたしは背筋を伸ばし、令嬢モードを起動した。
「おはようございます、ハウゼさん。本日はお忙しいところ恐れ入りますが、互いの利となるお話がございまして。共に歩める道があれば幸いですわ」
——なんだこの台詞。自分で言っておいてぞわっとした。
ハウゼは眉をぴくりとも動かさなかった。腕組みのまま、こちらを見下ろしている。
「で、本題は」
令嬢モード、一秒で無効化。わたしの半年間の社交訓練が、ハウゼの前では一切通用しない。
ロクスがほんの僅かに口角を上げたのが、視界の端に映った。笑うな。
***
「うちに何の得がある」
集落の小屋の中は薄暗かった。窓は一つだけ。天井の梁に干し肉がぶら下がっていて、燻した匂いが鼻につく。
木の卓を挟んで、ハウゼが座っている。こちらの提案書——木板に炭筆で書いた共同事業の概要を、ぶっきらぼうに受け取って眺めていた。
「得は三つあります」
わたしは指を折った。
「一つ目、軟膏の売上の一部がそちらに入る。二つ目、うちの販路をそちらの産物にも使える。三つ目、監査で領地が維持されれば、水路改修も継続できる」
「三つ目は嬢さんの都合だろ」
「ハウゼさんの都合でもあります。この領地が潰れたら、水路の管理は誰がやるんですか」
ハウゼの指が、卓の上でとんと鳴った。一度だけ。
沈黙が落ちた。小屋の外で山羊がまた鳴いている。窓から差す光の筋が、卓の上の木板を斜めに照らしていた。埃が光の中をゆっくり漂っている。
わたしは内心で数えていた。一秒、二秒、三秒。この沈黙は、考えている沈黙だ。拒絶の沈黙なら、もうとっくに席を立っているはず。ハウゼの目が木板の数字を追っている。こちらが出した条件を、頭の中で計算している顔だ。
「具体的に、何をすればいい」
来た。
「まず人手を借りたい。薬草の選別と乾燥、それから容器への詰め替え。難しい工程はうちで引き受けます。そちらにお願いしたいのは、量をこなせる単純な作業の部分」
「うちの連中に、軟膏づくりを教えるってことか」
「手順は木板に書きます。誰がやっても同じ品になるように」
ハウゼが腕組みを解いた。片方だけ。
「利益の配分は」
「売上の三割をそちらに。人手と場所の提供分として」
「四割」
「三割五分」
「四割だ」
わたしは息を吐いた。卓の下で、膝の上に置いた手をぎゅっと握った。
ハウゼの目は本気だった。この人、穏やかな顔の裏で、しっかり計算している。辺境で生き残ってきた人間の目だ。甘い条件では首を縦に振らない。
こっちが出せるものと、向こうが出せるもの。互いが持ち寄って、合わさった時に両方が得する形を組む。それが取引の基本だ。
でも、四割は正直きつい。粗利の半分近くが持っていかれる計算になる。
「ロクス」
背後に控えていたロクスに声をかけた。
「お嬢様。利益配分を四割とした場合の月次収支は、現行の六掛けとなります。ただし生産量が二倍に達すれば、絶対額では現行の一・二倍です」
——要は、一瓶あたりの取り分は減るけど、瓶数が増えれば総額は増える。
「それと」
ロクスが続けた。穏やかな声のまま。
「単独で月産百瓶を達成する手段が他にあるのであれば、そちらを選ぶのも一案ですが」
——要は「他に手がないでしょ」。分かってる。分かってるけど、さらっと追い詰めないでほしい。
わたしはハウゼに向き直った。
「分かりました。ただし、条件があります。品質の基準はこちらで決めさせてください。『カルセドの軟膏』の名前で出す以上、中身がばらばらでは困る」
ハウゼが片眉を上げた。
「品質がどうとか、嬢さんが決めるのか」
「わたしが決めます。値段はそっちの意見も聞くけど、品質だけは譲れない」
数秒の沈黙。
「——検討する」
ハウゼの口から出たのは、その一言だった。腕組みが戻っている。でも、さっきまでのそれとは力の入り方が違う。考え込んでいる姿勢だ。
——要は「断りたいけど断れない」。微妙に、脈はある。
わたしは立ち上がった。深く頭を下げる。令嬢モードではなく、素の礼として。
「お時間いただいて、ありがとうございました」
ハウゼが微かに顎を引いた。それだけで十分だった。
***
帰り道の街道は、落ち葉が風に舞っていた。
秋から冬への境目。木々の色が褪せて、空気が乾き始めている。踏みしめるたびに、枯葉がかさかさと音を立てた。
「ハウゼ殿の反応は、七割方肯定的でしたね」
ロクスが、何でもない口調で言った。
「七割をどこから出した」
「腕組みが途中で片方外れていました。あれは無意識に受け入れ態勢に移行した証拠です」
「それだけで七割?」
「加えて、利益配分の交渉を自ら切り出されました。拒否する人間は条件の話をしません」
——なるほど。確かに、断るつもりなら「検討する」とは言わずに「帰れ」と言う。あの人はそういう人だ。
少しだけ肩の力が抜けた。街道の風が頬を撫でて、秋の乾いた匂いを運んでくる。呼吸が少しだけ楽になった気がした。
でも、七割は七割。残りの三割は、まだ分からない。
ハウゼの条件は、正直きつい。利益配分は六対四で、こっちが四。
でも——手を組まなければ、三十二点は三十二点のままだ。
「ロクス。明日、もう一度行く。今度は計算結果を持って」
風が強くなった。冬の匂いがする。
三十二点を六十点にするための、最初の一歩。踏み出すなら、今しかない。
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