第81話「三十二点。伸びしろとは言わないで」
本格評価まで、あと一ヶ月。
書斎の壁に立てかけた木板を睨みつけて、わたしは盛大にため息をついた。
——領地回復進捗、三十二点。合格ラインが六十点だとして、倍近く足りない。
朝の書斎は冷えていた。暖炉にくべた薪はとっくに燃え尽きて、灰だけが白く残っている。指先がかじかむ。息を吐くと、白い靄がほんの一瞬だけ唇の前に浮かんで消えた。
炭筆を握ると、木板の上で微かにかさりと音がした。指の腹に炭の粒子がざらつく。この半年で、わたしの指先はすっかり炭筆に馴染んでしまった。前の世界ではボールペンすらろくに使わなかったのに。
一つずつ確認する。
水路改修。これは四十五点。手を入れた区間は順調に流れているし、下流への水量も安定している。ただし、全区間の改修にはまだ手が回っていない。
特産品売上。二十点。「カルセドの軟膏」の評判自体は広がっているのに、月産五十瓶では需要に追いつかない。注文を断っている時点で、売上が伸びるわけがなかった。
住民の生活水準。三十点。まあ、半年前よりはましになった。少なくとも冬越えの食料備蓄は去年の倍にはなっている。
合計——計算するのやめよう。三十二点に「伸びしろ」とルビを振ったところで、足りないものは足りない。
平均を出したところで、監査官ラディスが求めているのは平均点じゃない。全項目が最低ラインを超えているかどうかだ。一つでも赤点があれば、取り潰し勧告の材料になる。
木板に並ぶ数字を眺めていると、じわじわと焦りが胸の底から込み上げてきた。指先がかじかんでいるのか、それとも緊張なのか、炭筆を持つ手が微かに震えた。
半年、頑張ったつもりだった。水路を直して、軟膏を作って、下流との関係も少しずつ築いて。
でも、数字は正直だ。
——三十二点。これが、わたしの半年の答え。
***
「足りない」
書斎に戻ってきたロクスに、開口一番そう告げた。
ロクスは片手に茶器を持ち、もう片方の手で白手袋をさりげなく引き直しながら、木板に視線を落とした。朝の光が琥珀色の瞳を明るく照らしている。こっちがこんなに焦っているのに、この執事は一切動揺しない。いっそ清々しいほどの温度差だ。
「つまりお嬢様は、半年の成果を『伸びしろが豊富』と表現なさりたいのですね。前向きで結構です」
「ポジティブすぎる変換やめて」
茶器を受け取ると、指先に熱が伝わった。ほうじ茶のような、少し焦げた香りがする。ロクスがどこから見つけてくるのか知らないが、この辺境にしては悪くない茶葉だ。
「冗談はさておき」
ロクスは木板の前に立ち、琥珀色の目で数字を順に追った。
「水路改修は予定通り。特産品が課題ですね。月産五十瓶では、監査官の求める経済活動の規模を証明できません」
「知ってる」
「生産量を上げるか、付加価値を上げるか。あるいはその両方か」
「それも知ってる。問題はどうやるか、でしょ」
ロクスが小さく口角を上げた。面白がっている顔だ。こっちは焦っているのに、この執事は涼しい顔をしている。温度差がひどい。
「本格評価に向けた準備期間は十分に——」
——要は「間に合わないかもしれないけど頑張れ」。励ましが下手か。
「ロクス。数字を並べてて気づいたんだけど」
わたしは木板の「特産品売上」の横に、炭筆で線を引いた。
「足りないのは、量だけじゃない。仕組みが足りてない」
「ほう」
「今、軟膏を作れるのはわたしとペトラだけ。グリムさんが薬草を持ってきて、わたしたちが加工する。でも、それだと月産五十瓶が天井になる。手が足りないから」
炭筆の先が木板を滑る。書きながら、頭の中で優先順位が組み上がっていく。
「もっと頑張るんじゃなくて、作り方の仕組みを変える。どこが一番詰まってるか探して、そこから手をつける。それが先」
ロクスが黙ってこちらを見ていた。その琥珀色の瞳に、何か——感心とも、別の何かとも取れる光が一瞬よぎった気がしたけれど、すぐにいつもの穏やかな表情に戻る。
「具体的には?」
「下流を巻き込む。グリムさんの知識と、ハウゼさんの集落の人手。うちが持ってる加工の手順と販路。それを合わせれば、月産を倍にできる可能性がある」
「共同事業ですか」
「そう。こっちが出せるものと、向こうが出せるものを並べて、合わさった時に両方得するように組む。——取引として成り立つ形で」
お願いじゃなくて、取引。それが大事だった。施しを受ける側と与える側の関係では、長続きしない。
***
書斎を出ると、廊下の空気は書斎よりさらに冷たかった。
木床が足裏からじんわりと熱を奪っていく。辺境の冬は、もうすぐそこまで来ている。
「待って、これもやって、あれもやって、いやまず下流で——でも報告書も——」
口に出した瞬間、自分の声が廊下に反響した。
——落ち着け。優先順位。やらないことを決めること。それが、ものごとを前に進める基本でしょ。
深く息を吸う。冷たい空気が肺を満たして、少しだけ頭が冴えた。吐いた息が白く漂って、窓から差す薄い光の中を流れていった。
一番詰まっているところから手をつける。今の最大の障壁は、生産量の天井。それを突破するには、下流との共同事業が必要。
だから明日、下流に行く。
ハウゼさんに共同事業を提案する。条件を出して、利のある形を見せて、首を縦に振らせる。
廊下の角で、何かがもぞりと動いた。
ミケだ。三毛の丸い体がこちらを見上げて、小さく「にゃ」と鳴いた。
「ミケ、わたし明日から忙しくなるよ」
ミケは目を瞬かせただけで、とことこと暗がりの奥へ消えていった。三毛の尻尾が角の向こうに吸い込まれるのを見送る。相変わらず、返事はくれない。
——まあいいか。猫に返事を期待するほうが間違ってる。
書斎に戻ると、ロクスが木板の数字を整理してくれていた。項目ごとに線で区切り、優先順位の高い順に並べ替えてある。
この執事、気が利くのか利かないのか分からないけれど、仕事は確かだ。
「明日、下流に行く」
ロクスが目を細めた。
「共同事業の正式提案ですか。なかなか思い切りましたね」
「思い切らないと間に合わないの。——三十二点を、一ヶ月で六十点にするんだから」
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