第80話「使わなくても、退かない」
夜半。屋敷が静まり返ったのを確かめてから、ロクスは白手袋を外した。
自室の窓際。月明かりが細く差し込む場所で、右手を光にかざした。
鱗は、手の甲から手首にかかっていた。
***
時刻は深夜を過ぎた頃だった。ロクスの自室は屋敷の二階、東の端にある。使用人の部屋としては広すぎるが、カルセド家には他に住み込みの使用人がいない。ペトラもヨルダも、日中のみだ。
右手を月明かりに晒した。
鱗は銀灰色をしている。手の甲の中央から広がり、指の付け根を覆い、手首の内側にまで達していた。人の肌と鱗の境界には、わずかな隆起がある。そこだけ皮膚が盛り上がって、鱗の縁が浮き上がっている。触れると硬い。人の爪よりも硬く、金属よりは柔らかい。
あれ以来、力は使っていない。
一度も。
崖崩れの時——あれは先月だ。あの時は使った。ミレイアが落ちかけた斜面を、片手で止めた。人間の体では不可能な握力で岩を掴み、反対の手で彼女の腕を引き上げた。あの時、鱗は手の甲の半分まで広がった。
その後、退くはずだった。
力を使わなければ、鱗は退く。以前はそうだった。数日で元に戻った。手の甲の端に小さく残る程度で収まった。それが——今回は退いていない。一ヶ月以上、退いていない。むしろ広がっている。手首にかかっている。
使わなくても、退かない。
ロクスは右手を握った。鱗の表面が月光を反射して、小さく光った。手を開いた。握った時の感触が違う。手袋なしで物を持つと、鱗の凹凸が指先の感覚を鈍らせる。お茶のカップの温度が、前よりわかりにくくなっている。
三度目の干渉だった。一度目は南の森で薬草の場所を彼女に教えた時。二度目は崖崩れ。三度目は——いつだ。明確に力を使った記憶がない。ただ、鱗が退かなくなった。
蓄積か。
使わなくても、存在しているだけで蓄積するのか。人の形をとっていること自体が、代償を生んでいるのか。答えは出ない。千年以上、人の形をとってきた。鱗が退かなくなったのは、今回が初めてだ。
手袋を脇に置いたまま、窓辺に立った。冬の月が白い。庭に雪がうっすらと積もっている。南側の花壇が見える。花はもうほとんど枯れている。ただ一種類だけ、霜に耐えて小さな花をつけているものがある。
橙色の、丸い花弁。
***
昼間、ミレイアがラディスに改善計画を差し出した時の顔を思い出した。
背筋を伸ばして、木板を両手で差し出して、声が震えないように唇を引き結んでいた。数字が足りないことを知っていて、それでも全部見せると決めた顔。降伏ではなく作戦変更だと言い切った顔。
面白い、と思った。
面白い。その言葉はこの数ヶ月、何度も使った。この小さな令嬢が薬草を煮て、数字を書いて、令嬢の顔と本音を切り替えて、一日二瓶ずつ積み上げていく様を見て、何度も。
だが最近、「面白い」では足りないものが混ざり始めている。
名前はつけない。まだ。
ロクスは視線を庭に戻した。橙色の花。あの花は——以前、この屋敷の庭師が植えたものだ。カルセド家に仕え始めた頃、庭にはもっと多くの花があった。代を重ねるごとに減り、今はほとんど残っていない。あの橙色の花だけが、しぶとく咲き続けている。
ミレイアが森で見つけた宝物箱。
ロクスはそれを知っている。あの日、ミレイアが手ぶらで帰ってきた時の泥のついた手を見た。爪の間に黒い土が入り込んでいた。森の奥の、湿った場所の土だ。薬草を採りに行く北向き斜面の土ではない。
問い詰めはしなかった。ミレイアは「散歩に切り替えた」と言った。嘘だとわかっていた。彼女は嘘が下手だ。嘘をつく時に目を逸らすのではなく、逆にまっすぐ見てくる。
宝物箱の中に何があったかは知らない。だが、押し花があったのだろうと推測はしている。ミレイアがあの日以降、南側の花壇をよく見るようになったから。窓から見下ろす視線の先が変わった。
橙色の花。
あれは元の令嬢——ミレイアの体の前の持ち主が、子供の頃に庭で見ていた花だ。
あの娘は、この屋敷が好きだったのか。
ロクスは窓枠に指先をかけた。鱗のある右手で。月明かりが鱗を照らし、銀灰色の光沢が浮かぶ。
ロクスがカルセド家に仕え始めたのは、当主がミレイアの祖父の代だった。人の時間の感覚で言えば、四十年以上前になる。その頃から顔は変わっていない。使用人が入れ替わるたびに「先代の執事の息子」と名乗り、同じ名前を受け継いだことにしてきた。誰も疑わなかった。辺境の小領地に、名前の整合性を調べる者はいない。
この屋敷で何代もの当主を見送った。衰退していく領地を見た。花壇の花が減っていくのを見た。庭師がいなくなり、使用人が減り、領地の収入が細くなっていくのを。
面白いから、ここにいた。
人間の営みを間近で見ることが、暇つぶしだった。領地が栄えようが衰えようが、竜にとっては泡沫のようなものだ。百年経てば人間は入れ替わる。五百年経てば領地の名前すら変わる。
だが。
ミレイアが来てから、何かが変わった。
泡沫が、目を逸らせないものになった。
***
窓辺に気配を感じた。
ミケだ。
灰色の猫が、廊下側の窓の桟に座っている。ロクスの部屋の中には入らない。いつもそうだ。部屋の敷居を越えない。大きな目が、暗がりの中でわずかに光っている。月光を反射して、金色に近い色に見える。
ロクスはミケを見た。ミケはロクスを見た。
この猫は最初から、ロクスに対して距離を置いている。懐かない。威嚇もしない。ただ、一定の距離を保って、見ている。判断を保留しているような目で。
「お前にも、わからないか」
声に出した。小さく。ミケの耳がぴくりと動いた。
なぜ、ここにいるのか。
この問いに、ロクスは千年以上の間、同じ答えを返してきた。面白いから。暇だから。人間が滑稽で、愚かで、それでも何かを積み上げようとする様を見るのが、退屈しのぎになるから。
その答えが、最近は嘘くさい。
自分の嘘に自分で気づくのは、不愉快な体験だった。ミレイアの嘘が下手だと思っていたが、自分も大差ない。
右手を見た。鱗が月光で光っている。手袋を取り上げた。左手で右手に嵌めた。布が鱗の凹凸を覆う。前より確かに——分厚い。鱗が高くなっている。手袋の内側の圧迫感が増している。
使わなくても、退かない。
それでも。
手袋を嵌め直した。指先まで丁寧に。皺を伸ばして、袖口に収めた。明日も、この手でお茶を淹れる。ミレイアの改善計画を支える。数字を揃える手伝いをする。降伏しないと決めた小さな令嬢の隣に立つ。
鱗がどこまで広がるのか。腕を覆い、肩を覆い、やがて——人の形を保てなくなるのか。その時が来たら。
答えない。まだ。
ミケが窓辺から飛び降りた。廊下の暗がりに消えていく。小さな足音が遠ざかる。
月が雲に隠れた。
部屋が暗くなった。鱗の光沢が消えて、ロクスの右手はただの白手袋に戻った。
冬が、深くなっていく。
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