第79話「降伏じゃなくて、作戦変更」
朝、目が覚めた時、最初に浮かんだ言葉は「間に合わない」だった。
二番目に浮かんだ言葉は「だから何だ」だった。
三番目は「朝ごはん」だった。腹が減っていた。
***
書斎に入ると、ロクスがもう茶を準備していた。朝の光が窓から差し込んで、木板の上の昨日の数字を照らしている。五十五点。赤い数字が残っている。消さなかった。消す必要がない。
「お嬢様。今日のお顔、昨日とは別物ですね」
「何か変?」
「予言しておきますが、その目をした時のお嬢様は大抵、仕事量を三倍にします」
「うるさい。二倍にしかしない」
椅子に座った。木板を新しいものに替えた。炭筆を握った。
昨日の夜、寝る直前に考えていたことがある。間に合わない。速度が足りない。同じやり方では無理。それはわかった。ラディス様に言われるまでもなく、数字が証明している。
じゃあ、やり方を変えればいい。
月産五十瓶。これを百にする。百にするには、一日二瓶を四瓶にする必要がある。わたし一人では無理だ。でも——工程を分割できないか。
軟膏の製造工程。薬草の採取。洗浄。乾燥。粉砕。煮出し。混合。充填。冷却。検品。全部わたしがやっている。全部を一人でやるから、一日二瓶が限界になる。
でも、この中で「わたしでなければできない工程」はどれだ。
炭筆が走った。
採取——わたし以外でもできる。場所と種類を教えれば。洗浄——同じ。乾燥——棚に並べるだけ。粉砕——力仕事。誰でも。煮出し——ここが肝だ。温度と時間の管理。これはわたしの経験が要る。混合——配合比率を覚えれば。充填——手先の器用さ。冷却——待つだけ。検品——わたしの目が要る。
つまり、わたしでなければならないのは煮出しと検品だけだ。それ以外は——教えれば、他の人にもできる。
問題は「他の人」がいないことだが。
「ロクス」
「はい」
「ペトラに、薬草の洗浄と乾燥を教えることはできると思う?」
ロクスが一瞬だけ目を細めた。
「ペトラは手先が器用です。教えれば覚えるでしょう。ただし、お嬢様の品質基準を満たすかどうかは別問題です」
「最初は検品で弾けばいい。弾く回数が減ってきたら合格」
「なるほど。品質管理の仕組みとしては合理的です」
——「やり方を変えたらうまくいくかも」を上品に言っただけだ。
木板に改善計画の骨子を書いた。工程分割。部分委託。品質検品の二段階化。月産目標の段階的引き上げ。五十→七十五→百。半年で百に到達する工程表。
朝のパンの匂いが廊下から流れてきた。ヨルダが朝食を準備している。腹が鳴った。考えるのは食べてからでもいいが、今の勢いを止めたくない。
炭筆がもう一枚の木板に移った。ラディス様に見せる形に整える。方向性ではなく、数字を。月ごとの目標生産量。必要な人手の見積もり。原材料の確保計画。全部、数字で。
ロクスがパンと茶を書斎に運んできた。木板を避けて、端に皿を置いた。
「お嬢様。朝食は食べたほうがよろしいかと」
「食べる。食べながら書く」
「お行儀が」
「お行儀より改善計画」
パンをかじった。固い。冬のパンだ。小麦粉の配合が変わったのか、夏のものより歯応えがある。噛みながら数字を書いた。炭筆の粉がパンの端についた。気にしない。
***
ラディス様は午前中に出発する予定だった。
客間で旅装のラディス様に、木板を差し出した。昨夜と今朝で書き上げた改善計画。数字入り。
「ラディス様。昨日のご指摘を踏まえ、改善計画を作成いたしました。お目通しいただけますでしょうか」
令嬢モード全開。背筋を伸ばして、声を落ち着かせて、手が震えないように木板を両手で差し出した。
ラディス様が木板を受け取った。目が数字を追う。ペンを取り出して、余白に何かを書き込んだ。計算している。わたしの数字を検算している。
沈黙が長かった。
客間の窓から冬の朝日が差し込んで、ラディス様の手元を照らしている。ペンの先が止まった。
「確認します」
それだけだった。
認めるとも、不足だとも言わなかった。「確認します」。持ち帰って検討するという意味だ。手応えがあるのかないのか、この人の表情からは読めない。
「ありがとうございます」
ラディス様が立ち上がった。書類鞄に木板を——いや、木板は入らない。紙に書き写してから返してくれるのだろう。ラディス様は木板の数字をメモに写し取り、木板をわたしに返した。
「半年後に、また参ります」
馬車が屋敷の前から動き出した。車輪の音が小さくなっていく。冬の風が玄関から吹き込んで、わたしの髪を揺らした。
息を、ゆっくり吐いた。全部さらけ出した。数字も、足りない部分も、これからの計画も。あとはラディス様の判断を待つしかない。
——と思った矢先だった。
***
午後、屋敷の前に馬が一頭やってきた。
ガレドの使者だった。
書面を受け取った。封蝋が赤い。ガレドの家紋——鷲と天秤——が押されている。ただ、鷲の翼が半分潰れていた。蝋が固まる前に指で触れたか、押し方が雑だったか。前に届いた書面では、一文字ずつ整った筆跡だった。今回は行の終わりが右に流れている。冬の風が書面の端を揺らした。封を切って、中を読んだ。
ロクスが隣で同じ文面に目を通した。
「王都から良い返事が来る、と」
「そのようです」
通行税の適用拡大。特産品も対象に含める申請が、王都の商務局に受理された。ガレドの「良い返事」とはそういう意味だ。まだ決定ではない。でも、受理された。審議される。
「ガレド殿の動きは速い。お嬢様の改善計画が形になる前に、上から蓋をしようとしています」
「上品に言うのやめて。要は邪魔」
「邪魔です」
珍しく、ロクスがそのまま返した。
書面を畳んで、書斎に戻った。さっき壁に立てかけた改善計画の木板が目に入る。その隣に、ずっと前から残してある木板。「品質で殴る」。最初に書いた方針だ。
椅子に座った。深く息を吸った。冬の書斎は冷えている。でも蝋燭の灯りが、小さな温もりを作っている。ロクスが茶を淹れ直してくれた。蒸気が立つ。
「ロクス」
「はい」
「降伏はしない」
「お嬢様は降伏という言葉をお使いになるような方ではないと、私は理解しております」
「降伏じゃなくて、作戦変更。やり方を変える。数字を作る。ガレドの上からの蓋が閉まる前に」
「事業計画の抜本的見直しと、新規施策の導入を同時並行で進めるわけですね」
——「全部やり直して新しいこともやれ」って、それわたしの仕事量が倍になるやつ。
「やる。絶対やる」
「素晴らしいご決断です」
「上品に言うな」
「では率直に。お嬢様の睡眠時間が心配です」
「寝る。ちゃんと寝る。寝ないと軟膏の品質が落ちるから」
「その理由づけが、お嬢様らしい」
ロクスが小さく笑った。白手袋の右手を引き直す仕草。いつの間にか癖になっている。その仕草の意味を、わたしは知らない。知らないままでいい。
木板に書いた改善計画を壁に立てかけた。隣に、最初の「品質で殴る」がまだ残っている。
「ロクス」
「はい」
「次は数字で殴る」
「殴る系しかないのですか、お嬢様の戦略は」
うるさい。勝てばいいの。
窓の外の冬の日差しが、木板の文字を白く照らした。雪はやんでいる。道はまだ凍っていない。間に合うかどうかはわからない。でも、止まるつもりはない。
お茶を飲んだ。温かかった。
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