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辺境令嬢と、退屈知らずの執事  作者: 猫野ひかる
第4章「売れるもの、売れないもの」

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第78話「間に合わないかもしれない」

 ラディス様は、朝から黙って歩いた。


 水路を見た。道を見た。畑を見た。台所の片隅——加工場と呼んでいるそれを見た。全てに目を通して、メモを取って、質問はほとんどしなかった。


 わたしは横を歩きながら説明を続けた。


「こちらが薬草の加工場でございます。現在はこの台所の一角を使用し、日産二瓶のペースで軟膏を製造しております」


 ——台所の片隅です。加工場って言えるレベルじゃない。


***


 視察は午前中いっぱいかかった。


 水路の補修状況。わたしが設計した迂回路。道の改善箇所。崖崩れの応急処置。北向き斜面の薬草採取エリア。ロクスが三歩後ろを歩き、必要な書類を差し出し、それ以外は完璧に沈黙を守った。


 ラディス様は水路の石組みに手を触れた。指の腹で表面をなぞるように確かめて、手を離した。道の砂利の厚みを靴先で確認した。加工場では薬草の瓶を一つ手に取り、蓋を開けて匂いを嗅いだ。鼻先に寄せて、少し間を置いて、蓋を閉じた。それだけだ。表情は変わらない。良いとも悪いとも言わない。


 朝の霜が溶けて、地面がぬかるんでいた。わたしの靴底が泥を踏む感触が、足裏から伝わってくる。冬の空気は冷たくて、息を吐くと白い。ラディス様は薄い官服で平然としている。寒くないのだろうか。


 客間に戻った。


 お茶がもう準備されていた。ロクスの仕事だ。ラディス様が椅子に座り、書類を広げ、ペンを取った。


「ミレイア嬢」


「はい」


「方向性は認めます」


 呼吸が止まった。視界が一瞬、狭くなる。認めると言った。方向性を。薬草加工品の開発、販路の拡大、水路の補修、道の改善。わたしがやってきたことの方向性を——


「ですが、速度が足りません」


 続きが来た。


 わかっていた。わかっていたけど、実際に声に出して言われると、胸の真ん中を押されたような感覚がある。


「現在の生産規模では、領地の歳入改善に必要な数字に到達するまでに、率直に申し上げて——年単位の時間がかかります」


 ラディス様のペンが止まった。書類の上に目を落としたまま、静かに続けた。


「次の本格評価は半年後です。そこまでに改善が認められなければ、上への報告には取り潰し勧告を含めざるを得ません」


 取り潰し。


 その言葉が、客間の空気を変えた。ロクスが微動だにしない。ラディス様の目が、初めてわたしの目をまっすぐ見た。事務の目ではなかった。評価の目だ。この人がこの瞬間に見ているのは、数字でも報告書でもない。わたしの反応を見ている。


「承知いたしました」


 声が出た。自分でも驚くほど平静だった。膝の上で握った手のひらに、爪が食い込んでいる。令嬢モードが支えてくれている。中身が崩れかけているのを、外側の殻が保っている。この殻がなかったら、今ごろ椅子の上で丸くなっていたかもしれない。


「半年後までに、具体的な改善計画をお示しいたします」


「期待しております」


 ラディス様が書類を閉じた。ペンを鞄にしまった。立ち上がった。


「それでは、本日はこれで。お世話になりました」


 ロクスが見送りに出た。馬車の車輪が石畳を転がる音が、遠ざかっていく。セラも昨夜のうちに別の馬車で帰っていた。


 客間に一人、残された。


 カップに口をつけた。冷めていた。舌の上にお茶の渋みだけが残って、温もりはもうない。カップを両手で包んでも、指先は冷たいままだった。


 ——令嬢モードの完成度。今日は何点だ。


 声は震えなかった。姿勢も崩れなかった。でも報告の中身が弱いのは昨日と同じだ。方向性は認められた。速度が足りない。この二つの評価の間に、わたしの半年間がある。


***


 自室に戻った。


 扉を閉めて、ベッドに座って、天井を見た。


 間に合わないかもしれない。


 初めて、本当にそう思った。


 方向性は認められた。やっていることは間違っていない。でも速度が足りない。規模が足りない。半年で、どこまで伸ばせる。月産五十瓶を、百に? 二百に? そのための人手は? 設備は? 原材料の確保は?


 全部、答えが出ない。木板を取り出す気力もない。数字を書いたところで、足りないという結論は変わらない。


 ベッドの端の壁に背中を預けた。冷たい石壁の感触が、服越しに背骨に伝わってくる。


 ミケがベッドの端に飛び乗ってきた。丸まって、わたしの太ももに体を押しつけてくる。小さな体の温もりが、布越しに伝わる。


 ——まあ、なんとかなるでしょ。


 口から出た。前の世界で何百回も使った言葉だ。残業が終わらない時。企画が通らなかった時。上司に理不尽を言われた時。「まあなんとかなるでしょ」。便利な言葉だった。何も解決しないけど、とりあえず今日を終わらせる力がある。


 でも今、その言葉の響きが違う。


 前の世界で使っていた時は、諦めの言葉だった。もう期待しない。頑張っても報われない。だから「なんとかなるでしょ」。結果がどうなっても、わたしには関係ない。会社が潰れても、異動になっても、別にどうでもいい。自分の人生に、そこまでの価値を感じていなかった。


 今は違う。


 今のわたしには、五十五点の特産品がある。三瓶しかない在庫がある。評判を聞いて訪ねてきた知らない女の、ひび割れた手がある。ハウゼの笑い皺がある。ダーヴォの「売れる」がある。ロクスの沈黙煽りがある。


 なくなったら困るものが、ある。


「ミケ」


 猫が顔を上げた。薄暗い部屋の中で、大きな目がわたしを見ている。


「嘘ついた。なんとかなるかどうか、わかんない」


 ミケは答えない。当たり前だ。猫だ。でもその目が、不思議と責めてこない。ただ見ている。丸い瞳に、わたしの顔が小さく映っている。泣いてはいない。泣くほどの余裕もない。


 窓の外は暗い。蝋燭を灯していないから、月明かりだけが床に細い線を引いている。冬の月は白くて冷たい。


 前の世界では、「なんとかしたい」と思う相手がいなかった。自分のためだけに頑張るのは、とっくに限界が来ていた。残業が終わって帰る電車の窓に映る自分の顔が、毎日少しずつ薄くなっていく気がしていた。でも今は——このぼろ屋敷と、ぼろ領地と、薬草の匂いと、うるさい執事と、膝の上の猫。


 なんとかなるかは、わからない。


 でも、「なんとかする」は——まだ嘘じゃない。


 ミケの背中を撫でた。温かい毛並みが指の間を通る。猫が喉を鳴らした。小さくて、ほとんど聞こえないくらいの音。


 目を閉じた。明日、考える。今日はもう、考えない。

お読みいただきありがとうございました!


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