第77話「ラディス様がいらっしゃいます」
馬車の音が聞こえた。
車輪が石畳を転がる、硬くて重い音。屋敷の前でペトラが走り、ヨルダが前掛けを外し、ロクスが一歩前に出た。
わたしは息を整えて、令嬢の顔を作った。
***
玄関の扉が開いた時、最初に見えたのはラディス様の地味な官服だった。
灰色の上着。飾り気のない襟元。胸元に小さな王国の紋章が縫い込まれているだけで、それ以外は商人と見分けがつかない。背は高くもなく低くもなく、痩せた体に服が少し余っている。書類鞄を右手に提げて、左手で帽子を取った。
「お久しぶりでございます、ラディス様。ようこそお越しくださいました」
——胃が痛い。帰ってほしい。
「ミレイア嬢。定期中間チェックのため参りました」
事務的な声だ。表情に温度がない。視線がわたしの顔を一瞬見て、すぐに屋敷の外観に移った。壁のひび。屋根の瓦。雨樋の錆。全部見られている。
ロクスが「どうぞ、客間へ」と案内した。完璧な執事の所作だ。ラディス様が歩き出す。わたしもその後ろにつこうとした時——
「ミレイア」
聞き覚えのある声が、背後から来た。
振り返った。
馬車からもう一人降りてきた。花と柑橘の混ざった香水の匂い。淡い色の旅装。亜麻色の髪をきちんとまとめた、品のいい女性。
母だ。
「お母様もご一緒に」
——なんで。今日来る意味がある? この人は社交と刺繍と庭園管理の人であって、領地経営の中間チェックに同席する理由がない。
「ラディス様のお供で。久しぶりにあなたの顔を見たくて」
微笑み。社交的な、完璧な微笑み。でも目が笑っていない。セラ・カルセドの目は、微笑みの奥でいつも何かを値踏みしている。わたしはそれを知っている。
客間に四人が座った。ロクスがお茶を淹れる。カップが並ぶ。湯気が上がる。ラディス様が書類鞄を開けた。
「では、報告をお聞きします」
***
令嬢モードを全力で回した。
薬草加工品の開発と販売。品質の安定化。下流への評判拡大。虫除け束の開発と納品。水路の補修計画。道の改善状況。答弁書の準備状況。
声が震えないように、背筋を伸ばして、ゆっくりと話した。木板に書いた報告用の要点を手元に置いて、一項目ずつ。
「領地の特産品として薬草加工品を確立し、近隣への販路を拡大しております。品質は安定しており、継続的な供給体制の構築に取り組んでおります」
方向性の話。大きな絵。こういう話なら、わたしはそれなりに話せる。前の世界で、上司に報告する時に覚えた話し方だ。全体像を先に示して、詳細は後から。
ラディス様は黙って聞いていた。ペンを持っているが、ほとんど動いていない。
セラがカップを持ち上げた。静かに口をつけて、静かに置いた。音がしない。この人の所作はいつもそうだ。
「方向性は理解しました」
ラディス様が口を開いた。
「では、具体的な数字を教えてください。月産量、販売量、収益、支出。可能であれば、前月比も」
数字。
来た。わかっていた。この人は数字の人だ。ロクスが言っていた。「数字以外のものを見る方です。ただし、数字がなければ見てもくれません」と。
「月産量は現在、軟膏が五十瓶。虫除け束が三十束。販路はダーヴォ殿の行商ルートと、ハウゼ殿の集落への直接納品でございます。収益は——」
数字を並べた。正直に。隠しても仕方がない。
ラディス様のペンが動き始めた。紙の上を走る音が、客間に響く。数字を書き取っている。計算している。わたしの言った数字を、別の数字と照合している。
ペンが止まった。
「ミレイア嬢」
「はい」
「改善の方向性は認めます。特産品の開発は妥当な判断です。ですが——」
ペンの先が紙を叩いた。小さな、でも硬い音。
「規模が、極端に小さい。月産五十瓶と三十束。これは領地の歳入に対して、どの程度の改善に相当しますか」
わかっている。わかっているから苦しい。
「現時点では、全体の改善幅として——」
数字を言った。言いたくなかったけど、言った。
令嬢モードの完成度。七十五点。声は震えていない。姿勢も崩れていない。でも報告の中身が弱い。数字が小さすぎる。方向性は合っているのに、規模が話にならない。
ラディス様が帳面をめくった。別の頁を開いて、ペンの先で数字をなぞっている。
「なお、ガレド商会の四半期報告も手元にあります。売上が前年比で二割ほど落ちているようですが」
二割。
うちは二割どころの話じゃない。ゼロから始めて、やっと五十五点なのに。
「訴訟費用も計上されていますね。商業裁判所への申立費用、往復の使者代。商売以外の出費が嵩んでいるようです」
ラディス様の声に感情はない。帳面の数字を読み上げているだけだ。ガレド商会がどうなろうと、この人にとっては監査対象の一行にすぎない。
「ラディス様。ガレド商会のことより、うちの数字の話を続けていただけますか」
ラディス様のペンが一瞬止まった。それから帳面を閉じ、書類を揃えた。
「本日の確認は以上です。明日、領地内を実際に見せていただきます。水路と道と、加工場を」
「かしこまりました」
ラディス様が立ち上がった。ロクスが客間の扉を開けた。ラディス様が部屋を出ていく。足音が廊下に遠ざかる。
残されたのは、わたしとセラと、冷めたお茶。
***
「ミレイア」
セラの声は柔らかかった。でも目が変わっていない。
「あなた、いつからそんなに話せるようになったの?」
息が止まった。指先が、一瞬だけ冷たくなる。
この質問が一番怖い。ラディス様の数字要求よりも。ガレドの通行税よりも。母の「いつから」が、一番答えにくい。
「お母様のおかげでございます。日頃のご教育が」
「嘘おっしゃい」
セラが微笑んだ。社交の微笑みではなかった。娘を見る目だ。でも、娘の中の変化を見抜こうとする目でもある。
「あなたは半年前まで、人前で三文以上話せなかったでしょう。ラディス様の前であれだけ堂々と報告できる子ではなかったわ」
——お母様、今驚くところそこじゃないです。数字が足りないんです。取り潰しの話をしているんです。
「努力いたしました」
「そう。努力。そうね」
セラがカップを手に取った。もう冷めているはずなのに、口をつけた。飲み干して、カップを置いた。
「頑張っているのね」
その一言だけ、声の温度が違った。社交でも値踏みでもない、ただの母の声だった。
返す言葉が出なかった。令嬢モードが一瞬だけ崩れかけて、わたしは唇を引き結んだ。
「ありがとうございます、お母様」
セラは立ち上がった。裾を払って、廊下に出ていった。花と柑橘の香りが、残り香のように漂っている。
一人になった客間で、わたしは椅子に沈んだ。
***
夜。書斎で報告用の木板を並べ直した。
明日、見せるものは全部見せる。水路も道も加工場も。数字が足りないのはわかっている。でも隠しても意味がない。
「お嬢様」
ロクスが茶を淹れ直して持ってきた。二杯目。今日はよく茶を飲む日だ。
「明日、大丈夫かな」
「お嬢様の準備は十分です」
「数字は十分じゃない」
「数字は、これから作るものです。今あるものを全て見せれば、ラディス殿は方向性を見ます」
「方向性だけじゃ足りないって、今日言われたばかりなんだけど」
ロクスは答えなかった。お茶を置いて、蝋燭の芯を整えて、部屋を出ていった。
沈黙煽り。あれはずるい。何も言わないことで、「自分で考えろ」と言っている。
蝋燭の光で報告用の木板を読み返した。数字は足りない。わかっている。加工場という名の台所の片隅も、月産五十瓶という小さな数字も、全部さらけ出すしかない。
見せるか、隠すか。
全部見せる。足りないものも含めて。
それが、わたしのやり方だから。
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