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辺境令嬢と、退屈知らずの執事  作者: 猫野ひかる
第4章「売れるもの、売れないもの」

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第77話「ラディス様がいらっしゃいます」

 馬車の音が聞こえた。


 車輪が石畳を転がる、硬くて重い音。屋敷の前でペトラが走り、ヨルダが前掛けを外し、ロクスが一歩前に出た。


 わたしは息を整えて、令嬢の顔を作った。


***


 玄関の扉が開いた時、最初に見えたのはラディス様の地味な官服だった。


 灰色の上着。飾り気のない襟元。胸元に小さな王国の紋章が縫い込まれているだけで、それ以外は商人と見分けがつかない。背は高くもなく低くもなく、痩せた体に服が少し余っている。書類鞄を右手に提げて、左手で帽子を取った。


「お久しぶりでございます、ラディス様。ようこそお越しくださいました」


 ——胃が痛い。帰ってほしい。


「ミレイア嬢。定期中間チェックのため参りました」


 事務的な声だ。表情に温度がない。視線がわたしの顔を一瞬見て、すぐに屋敷の外観に移った。壁のひび。屋根の瓦。雨樋の錆。全部見られている。


 ロクスが「どうぞ、客間へ」と案内した。完璧な執事の所作だ。ラディス様が歩き出す。わたしもその後ろにつこうとした時——


「ミレイア」


 聞き覚えのある声が、背後から来た。


 振り返った。


 馬車からもう一人降りてきた。花と柑橘の混ざった香水の匂い。淡い色の旅装。亜麻色の髪をきちんとまとめた、品のいい女性。


 母だ。


「お母様もご一緒に」


 ——なんで。今日来る意味がある? この人は社交と刺繍と庭園管理の人であって、領地経営の中間チェックに同席する理由がない。


「ラディス様のお供で。久しぶりにあなたの顔を見たくて」


 微笑み。社交的な、完璧な微笑み。でも目が笑っていない。セラ・カルセドの目は、微笑みの奥でいつも何かを値踏みしている。わたしはそれを知っている。


 客間に四人が座った。ロクスがお茶を淹れる。カップが並ぶ。湯気が上がる。ラディス様が書類鞄を開けた。


「では、報告をお聞きします」


***


 令嬢モードを全力で回した。


 薬草加工品の開発と販売。品質の安定化。下流への評判拡大。虫除け束の開発と納品。水路の補修計画。道の改善状況。答弁書の準備状況。


 声が震えないように、背筋を伸ばして、ゆっくりと話した。木板に書いた報告用の要点を手元に置いて、一項目ずつ。


「領地の特産品として薬草加工品を確立し、近隣への販路を拡大しております。品質は安定しており、継続的な供給体制の構築に取り組んでおります」


 方向性の話。大きな絵。こういう話なら、わたしはそれなりに話せる。前の世界で、上司に報告する時に覚えた話し方だ。全体像を先に示して、詳細は後から。


 ラディス様は黙って聞いていた。ペンを持っているが、ほとんど動いていない。


 セラがカップを持ち上げた。静かに口をつけて、静かに置いた。音がしない。この人の所作はいつもそうだ。


「方向性は理解しました」


 ラディス様が口を開いた。


「では、具体的な数字を教えてください。月産量、販売量、収益、支出。可能であれば、前月比も」


 数字。


 来た。わかっていた。この人は数字の人だ。ロクスが言っていた。「数字以外のものを見る方です。ただし、数字がなければ見てもくれません」と。


「月産量は現在、軟膏が五十瓶。虫除け束が三十束。販路はダーヴォ殿の行商ルートと、ハウゼ殿の集落への直接納品でございます。収益は——」


 数字を並べた。正直に。隠しても仕方がない。


 ラディス様のペンが動き始めた。紙の上を走る音が、客間に響く。数字を書き取っている。計算している。わたしの言った数字を、別の数字と照合している。


 ペンが止まった。


「ミレイア嬢」


「はい」


「改善の方向性は認めます。特産品の開発は妥当な判断です。ですが——」


 ペンの先が紙を叩いた。小さな、でも硬い音。


「規模が、極端に小さい。月産五十瓶と三十束。これは領地の歳入に対して、どの程度の改善に相当しますか」


 わかっている。わかっているから苦しい。


「現時点では、全体の改善幅として——」


 数字を言った。言いたくなかったけど、言った。


 令嬢モードの完成度。七十五点。声は震えていない。姿勢も崩れていない。でも報告の中身が弱い。数字が小さすぎる。方向性は合っているのに、規模が話にならない。


 ラディス様が帳面をめくった。別の頁を開いて、ペンの先で数字をなぞっている。


「なお、ガレド商会の四半期報告も手元にあります。売上が前年比で二割ほど落ちているようですが」


 二割。


 うちは二割どころの話じゃない。ゼロから始めて、やっと五十五点なのに。


「訴訟費用も計上されていますね。商業裁判所への申立費用、往復の使者代。商売以外の出費が嵩んでいるようです」


 ラディス様の声に感情はない。帳面の数字を読み上げているだけだ。ガレド商会がどうなろうと、この人にとっては監査対象の一行にすぎない。


「ラディス様。ガレド商会のことより、うちの数字の話を続けていただけますか」


 ラディス様のペンが一瞬止まった。それから帳面を閉じ、書類を揃えた。


「本日の確認は以上です。明日、領地内を実際に見せていただきます。水路と道と、加工場を」


「かしこまりました」


 ラディス様が立ち上がった。ロクスが客間の扉を開けた。ラディス様が部屋を出ていく。足音が廊下に遠ざかる。


 残されたのは、わたしとセラと、冷めたお茶。


***


「ミレイア」


 セラの声は柔らかかった。でも目が変わっていない。


「あなた、いつからそんなに話せるようになったの?」


 息が止まった。指先が、一瞬だけ冷たくなる。


 この質問が一番怖い。ラディス様の数字要求よりも。ガレドの通行税よりも。母の「いつから」が、一番答えにくい。


「お母様のおかげでございます。日頃のご教育が」


「嘘おっしゃい」


 セラが微笑んだ。社交の微笑みではなかった。娘を見る目だ。でも、娘の中の変化を見抜こうとする目でもある。


「あなたは半年前まで、人前で三文以上話せなかったでしょう。ラディス様の前であれだけ堂々と報告できる子ではなかったわ」


 ——お母様、今驚くところそこじゃないです。数字が足りないんです。取り潰しの話をしているんです。


「努力いたしました」


「そう。努力。そうね」


 セラがカップを手に取った。もう冷めているはずなのに、口をつけた。飲み干して、カップを置いた。


「頑張っているのね」


 その一言だけ、声の温度が違った。社交でも値踏みでもない、ただの母の声だった。


 返す言葉が出なかった。令嬢モードが一瞬だけ崩れかけて、わたしは唇を引き結んだ。


「ありがとうございます、お母様」


 セラは立ち上がった。裾を払って、廊下に出ていった。花と柑橘の香りが、残り香のように漂っている。


 一人になった客間で、わたしは椅子に沈んだ。


***


 夜。書斎で報告用の木板を並べ直した。


 明日、見せるものは全部見せる。水路も道も加工場も。数字が足りないのはわかっている。でも隠しても意味がない。


「お嬢様」


 ロクスが茶を淹れ直して持ってきた。二杯目。今日はよく茶を飲む日だ。


「明日、大丈夫かな」


「お嬢様の準備は十分です」


「数字は十分じゃない」


「数字は、これから作るものです。今あるものを全て見せれば、ラディス殿は方向性を見ます」


「方向性だけじゃ足りないって、今日言われたばかりなんだけど」


 ロクスは答えなかった。お茶を置いて、蝋燭の芯を整えて、部屋を出ていった。


 沈黙煽り。あれはずるい。何も言わないことで、「自分で考えろ」と言っている。


 蝋燭の光で報告用の木板を読み返した。数字は足りない。わかっている。加工場という名の台所の片隅も、月産五十瓶という小さな数字も、全部さらけ出すしかない。


 見せるか、隠すか。


 全部見せる。足りないものも含めて。


 それが、わたしのやり方だから。

お読みいただきありがとうございました!


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