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辺境令嬢と、退屈知らずの執事  作者: 猫野ひかる
第4章「売れるもの、売れないもの」

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第76話「カルセドの軟膏」

 下流の集落で、知らない女が「カルセドの軟膏ありますか」と聞いてきた。


 一瞬、何を言われたのかわからなかった。


 カルセドの軟膏。その言葉が、自分の耳に入ってくるまでに妙な時間がかかった。ここはハウゼの集落だ。うちの屋敷から馬で半日かかる。この人は——どこで、その名前を知った。


***


 ハウゼの集落に来たのは、虫除け束の追加納品のためだった。


 ハウゼが荷を受け取りながら「最近な、下流のほうからも聞かれるんだ」と言ったのが始まりだった。口髭の下で唇が動いて、笑い皺が深くなる。


「あんたの軟膏の評判が、川沿いに流れてるらしい。嬢さんの作った虫除けもだ」


 嬉しい。素直にそう思った。口元が緩んで、それを慌てて引き締めた。令嬢の顔を崩すな。ここは他人の集落だ。


 でも、直後に胃が重くなった。


 評判が広がっているということは、需要が増えているということだ。需要が増えているのに、供給が追いついていない。手元にある軟膏は今日の納品分を除けば三瓶。三瓶で、どうしろと。


「もう少しまとまった数、出せねえかな。月に二十——いや、三十は欲しい」


「努力します」


 令嬢の顔で答えた。内心では計算が回っている。一日二瓶。二十五日で五十瓶。そこから自分の領地の分を差し引いて、ダーヴォへの分を差し引いて、残りは——


 足りない。


 全然足りない。


 女がまだ近くにいた。三十代くらいの、日に焼けた肌の女だ。手の甲がひび割れている。爪の間に泥が詰まっていて、指先が赤黒い。冬の川仕事だろう。わたしは鞄の中から最後の一瓶を取り出した。


「よろしければ、これを」


 女の手に小瓶を渡した時、指先がかさついた肌に触れた。冷たかった。この人の手も、冬の辺境で荒れている。わたしの軟膏が、この手のひび割れに少しでも効くなら。


「ありがとうございます、お嬢様」


 お嬢様、と呼ばれた。知らない人に。カルセドのお嬢様と認識されている。評判と一緒に、わたしの存在も川沿いに流れているらしい。


 帰りの道で、馬の揺れに身を任せながら考えた。冬の街道は風が冷たくて、吐く息が白い。馬の蹄が凍りかけた泥を踏む音が、やけに大きく響く。


 嬉しいのと、重いのと、半々だ。いや、重いほうが少し勝っている。あの女の手のひび割れが、まだ指先に残っている。ああいう手が、あと何十人もいるのだ。一瓶しか渡せなかった。一瓶で、何日保つだろう。


***


 屋敷に戻ると、書斎の椅子に座る前にロクスがお茶を出してきた。湯気の向こうに、いつもの琥珀色の目がある。


「お帰りなさいませ。ハウゼ殿のところはいかがでしたか」


「売れすぎて困る」


「嬉しい悲鳴ですね。お嬢様の事業は成長期に入りました」


「成長より睡眠が欲しい」


 木板を取り出して、炭筆で数字を書き始めた。


 現在の生産量。一日二瓶。月産五十瓶。そこから領内消費分を引く。ダーヴォへの分を引く。ハウゼへの分を引く。下流からの需要を足す。


 差し引きが赤字だ。赤字というか、物理的に足りない。瓶の数と日数と手の数が合わない。算術の問題としてはとっくに答えが出ている。答え——無理。


 ——特産品の成績。採点する。


 利益率は悪くない。銅貨の収入は確実に増えている。評判も広がっている。方向性は間違っていない。でも供給が壊滅的に追いついていない。人手は一人。わたし。作業場は台所の片隅。道具は鍋と木べらと乾燥棚。


 点数をつけるなら、五十五点。利益が出ているのに五十五点。おかしな話だ。


「ロクス」


「はい」


「足を引っ張っている工程がわたし自身だった場合、どうすればいいの」


 ロクスが一瞬だけ目を細めた。面白がっている目だ。


「お嬢様が二人に増えれば解決しますが、それは現実的ではありませんね」


「増えたくない。一人でも手一杯なのに」


「では、仕組みを変えるしかありません。お嬢様一人に依存しない生産体制を」


 ——「全部わたしが手を動かさないと回らない」を、別の形にする。それが答えなのは頭ではわかっている。わかっているけど、今の辺境に人手はない。教える時間もない。教える相手もいない。仮に教えたとして、配合の加減を言葉で伝えられるか。火加減と撹拌の速度を、わたしの手の感覚でしかわからないそれを、他人に渡せるか。


 蝋燭の炎が揺れた。お茶が冷めていく。木板の数字を見つめたまま、ため息をついた。


「ロクス。もうひとつ」


「はい」


「ガレドの件、何か動きはある?」


 ロクスの表情が変わった。面白がっていた目が、静かな事務の目になる。白手袋の右手を引き直してから、口を開いた。


「ございます。ガレド殿は特産品にも通行税を適用するよう、領主間協議に議題を出したようです」


 通行税。その二文字が、胃の底に落ちた。


 今までは原材料——薬草の取引に通行税がかかっていた。ガレドの領地を通る街道を使うから。でもわたしが作っているのは加工品だ。加工品は通行税の対象外だった。それを、対象に含めようとしている。


「ガレド殿は市場の変化に敏感な方です。お嬢様の成功を正確に観測しておいでです」


 ——「あいつが邪魔しに来る」って言えばいいのに。


「つまり、うまくいけばいくほど目をつけられる」


「そのとおりです。お嬢様。ガレド殿の行動は予想の範囲内です。予想外なのは、お嬢様がまだ起きていることのほうです」


「寝かせて」


「お茶のおかわりを淹れましょう」


「それは起きてろってこと?」


「お嬢様のご判断にお任せします」


 任せるな。判断力はとっくに限界だ。


 窓の外を見た。いつの間にか、白いものが混じっている。雪だ。十一月の終わり。冬が本格的に来る。道が凍れば行商人も来ない。ダーヴォの次の来訪は未定。ハウゼへの納品ルートも細くなる。


 そして来月——監査官が来る。


 五十五点。評判は広がった。生産は追いつかない。ガレドは邪魔をしてくる。


 五十五点で足りるわけがない。


 蝋燭が一本、燃え尽きた。芯が赤く縮まって、煙が一筋立ち上る。ロクスが新しい蝋燭に火を移す。白手袋の指先が、薄暗がりの中でほんのわずかに光を掬う。右手の手袋を引き直す仕草が、最近やけに目につく。


 窓の外に目を向けた。雪が、少しずつ強くなっていく。白い粒が闇に舞って、ガラスの向こうで音もなく地面に落ちる。


 冬だ。本当に、冬が来たのだ。

お読みいただきありがとうございました!


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