第75話「この手が覚えている場所」
森の奥に入った時、手が勝手に動いた。
木の根元の、苔に覆われた石を持ち上げていた。
——わたしは、ここに来たことがない。
***
その日は一人で南の森に入った。
ロクスには「北向き斜面の広葉草を追加で採ってくる」と言った。本当のことだ。昨日の試作で品質が安定したから、もう少し在庫を増やしておきたかった。ロクスは答弁書の清書があるからと屋敷に残った。
森は静かだった。
十一月の落葉が地面を覆い尽くしている。踏むたびに乾いた音がして、それ以外は風の音と、時折聞こえる鳥の声だけだ。一人で歩くと、森の広さが違って感じられる。ロクスがいると気にならなかった空間の奥行きが、今は少し怖い。
北向き斜面に向かう途中、道を外れた。
意図したわけではない。足が勝手に左に曲がった。斜面を下って、岩場を越えて、大きな楢の木の下に出た。幹が太くて、腕を広げても抱えきれないほどだ。根が地面から盛り上がって、小さな洞のようなものを作っている。
その根元に、苔に覆われた石があった。
手が伸びた。
自分の意思ではない。少なくとも、そう感じた。指が苔の冷たさに触れて、掌が石の重さを感じて、持ち上げていた。石の下の土は湿っていて、ミミズが一匹、光を嫌って土に潜っていった。
そして——土の中に、何かがあった。
布で包まれた、手のひらほどの四角い塊。
立ち止まった。息が止まっていたことに気づいて、吸った。森の冷たい空気が肺を満たす。腐葉土の匂い。苔の湿った匂い。遠くで木々が風に揺れる音。
わたしは、ここに来たことがない。
でも、この体は知っている。
***
布を剥がすと、小さな木箱が出てきた。
古い。蓋の木目が風雨に曝されて白っぽくなっている。金具は錆びて、指で触るとざらざらした感触が返ってくる。でも箱自体は壊れていない。しっかりとした作りだ。子供の手で持てるくらいの大きさ。
開けるべきか迷った。
これはわたしのものではない。この体の——前の持ち主のものだ。子供の頃に隠したのだろう。森の奥の、大きな楢の木の根元に。苔に覆われた石の下に。誰にも見つからないように。
指が蓋に触れた。
また、勝手に。
金具が軋んだ。錆びた音が森の静寂に小さく響いて、消えた。蓋が開く。
中には二つのものが入っていた。
一つは紙。折り畳まれた、黄ばんだ紙。広げると、子供の絵だった。クレヨンのような画材——いや、色のついた蝋で描いたのだろう。人の形をした何かが二つ並んでいる。大きいのと小さいの。背景には家らしき四角い形。屋根には煙突。空には太陽。
子供の絵だ。上手くはない。でも、丁寧だ。線が何度も重ねて引いてある。大きい人の横に、小さい人がぴったりくっついて立っている。
もう一つは押し花だった。
薄い紙に挟まれた、乾燥した花弁。五枚。色は褪せていたが、元は淡い紫だったのだろう。花弁の縁がわずかに縮れて、触れたら崩れそうなほど脆い。茎はまっすぐに押されていて、葉が二枚残っている。
一つ、二つ、三つ。四枚目の押し花は白い花弁だった。五枚目は——
息を止めた。
五枚目は、見覚えのある花だった。小さな橙色の花弁。丸い形。屋敷の庭の、南側の花壇に咲く花だ。名前は知らない。でも、毎朝窓から見える。
この体の持ち主は、屋敷の庭の花を一輪摘んで、押し花にして、森の奥に隠していた。
木箱を膝の上に置いて、しばらく動けなかった。木漏れ日が落葉の上に薄い模様を描いている。風が枝を揺らすたびに、光の形が変わる。森の奥は静かで、わたしの呼吸だけが聞こえる。
子供の絵と、押し花。
宝物だ。この体の持ち主にとっての、宝物。大きな人と小さな人の絵。庭の花の押し花。誰にも見つからない場所に隠した、小さな宝物。
紙と花を箱に戻した。蓋を閉めた。布で包み直した。石の下に、元通りに埋め戻した。苔を上から被せて、なるべく元の形に近づけた。
誰にも言わない。
これはわたしのものではない。わたしが見ていいものだったかどうかもわからない。でも見てしまった。見て、胸が詰まった。それだけを、抱えて帰る。
***
森を出る時、光が変わった。
木々の間から差し込んでいた細い光が、開けた空に出た途端に広がって、冬の冷たい白さが目に沁みた。手のひらに土の感触が残っている。爪の間に黒い土が入り込んでいて、払っても落ちない。
歩きながら、考えていた。
宝物。
前の世界で、わたしには宝物と呼べるものが何もなかった。
日記は書いていなかった。手紙をもらったこともなかった。写真を撮る習慣もなかった。部屋にあったのは仕事の書類と、着替えと、安い食器だけだ。引っ越しの時に段ボール三つで済んだ。三つ。人生の全部が段ボール三つに収まった。
あの子供は——この体の前の持ち主は——大きな人と小さな人の絵を描いて、庭の花を押し花にして、森の奥に隠した。誰にも見せない、自分だけの場所に。
宝物。その言葉自体が、遠い。
前の世界では、何かを「大事だ」と思う余裕がなかった。明日の仕事、来週の締め切り、来月の家賃。大事なものは常に「片づけなければならないもの」で、「隠しておきたいもの」ではなかった。
——でも、今は。
足が止まった。
屋敷が見える。冬の薄い日差しの中で、古い石造りの壁が白く光っている。庭の花壇には、まだ枯れきっていない花がいくつか残っている。南側に、あの橙色の小さな花。
今のわたしには——何がある。
木板と炭筆がある。六十八点の軟膏がある。虫除け束がある。ダーヴォの「売れる」がある。ロクスのお茶がある。ミケの欠伸がある。書斎の蝋燭の光がある。
宝物とは、違う。全部、仕事の道具であり、日常の一部だ。隠す必要なんてない。隠したいとも思わない。
でも、なくなったら困るものだ。
なくなったら困るもの。前の世界には——段ボール三つの中に、そんなものは一つもなかった。
屋敷の玄関に着いた。
「ただいま」
ミケが玄関で鳴いた。小さな体をすり寄せてくる。足元が温かい。
「おかえりなさいませ。早かったですね」
ロクスが廊下の奥から歩いてきた。白手袋の右手で答弁書の清書を持っている。
「薬草は?」
「あ、忘れた」
——忘れてない。持ち帰る気分じゃなかった。
「珍しいですね。手ぶらでお戻りとは」
「散歩に切り替えた。たまには何もしない日があってもいいでしょ」
「もちろんです。やらないことリストの精神ですね」
「あれはもう死んだ」
ロクスが小さく笑った。ミケがわたしの足元から離れて、ロクスの方を見上げた。あの大きな目で、何かを見定めるように。
手のひらに、まだ土の感触が残っている。
この体の持ち主は、あの森で何を隠していたんだろう。大きな人と小さな人の絵。庭の花の押し花。あの子供は、誰と一緒にいる絵を描いたんだろう。
——押し花の中に、一輪だけ見覚えのある花があった。屋敷の庭に咲く花だ。
南側の花壇の、橙色の小さな花。
名前は、まだ知らない。
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