↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
辺境令嬢と、退屈知らずの執事  作者: 猫野ひかる
第4章「売れるもの、売れないもの」

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
75/100

第75話「この手が覚えている場所」

 森の奥に入った時、手が勝手に動いた。


 木の根元の、苔に覆われた石を持ち上げていた。


 ——わたしは、ここに来たことがない。


***


 その日は一人で南の森に入った。


 ロクスには「北向き斜面の広葉草を追加で採ってくる」と言った。本当のことだ。昨日の試作で品質が安定したから、もう少し在庫を増やしておきたかった。ロクスは答弁書の清書があるからと屋敷に残った。


 森は静かだった。


 十一月の落葉が地面を覆い尽くしている。踏むたびに乾いた音がして、それ以外は風の音と、時折聞こえる鳥の声だけだ。一人で歩くと、森の広さが違って感じられる。ロクスがいると気にならなかった空間の奥行きが、今は少し怖い。


 北向き斜面に向かう途中、道を外れた。


 意図したわけではない。足が勝手に左に曲がった。斜面を下って、岩場を越えて、大きな楢の木の下に出た。幹が太くて、腕を広げても抱えきれないほどだ。根が地面から盛り上がって、小さな洞のようなものを作っている。


 その根元に、苔に覆われた石があった。


 手が伸びた。


 自分の意思ではない。少なくとも、そう感じた。指が苔の冷たさに触れて、掌が石の重さを感じて、持ち上げていた。石の下の土は湿っていて、ミミズが一匹、光を嫌って土に潜っていった。


 そして——土の中に、何かがあった。


 布で包まれた、手のひらほどの四角い塊。


 立ち止まった。息が止まっていたことに気づいて、吸った。森の冷たい空気が肺を満たす。腐葉土の匂い。苔の湿った匂い。遠くで木々が風に揺れる音。


 わたしは、ここに来たことがない。


 でも、この体は知っている。


***


 布を剥がすと、小さな木箱が出てきた。


 古い。蓋の木目が風雨に曝されて白っぽくなっている。金具は錆びて、指で触るとざらざらした感触が返ってくる。でも箱自体は壊れていない。しっかりとした作りだ。子供の手で持てるくらいの大きさ。


 開けるべきか迷った。


 これはわたしのものではない。この体の——前の持ち主のものだ。子供の頃に隠したのだろう。森の奥の、大きな楢の木の根元に。苔に覆われた石の下に。誰にも見つからないように。


 指が蓋に触れた。


 また、勝手に。


 金具が軋んだ。錆びた音が森の静寂に小さく響いて、消えた。蓋が開く。


 中には二つのものが入っていた。


 一つは紙。折り畳まれた、黄ばんだ紙。広げると、子供の絵だった。クレヨンのような画材——いや、色のついた蝋で描いたのだろう。人の形をした何かが二つ並んでいる。大きいのと小さいの。背景には家らしき四角い形。屋根には煙突。空には太陽。


 子供の絵だ。上手くはない。でも、丁寧だ。線が何度も重ねて引いてある。大きい人の横に、小さい人がぴったりくっついて立っている。


 もう一つは押し花だった。


 薄い紙に挟まれた、乾燥した花弁。五枚。色は褪せていたが、元は淡い紫だったのだろう。花弁の縁がわずかに縮れて、触れたら崩れそうなほど脆い。茎はまっすぐに押されていて、葉が二枚残っている。


 一つ、二つ、三つ。四枚目の押し花は白い花弁だった。五枚目は——


 息を止めた。


 五枚目は、見覚えのある花だった。小さな橙色の花弁。丸い形。屋敷の庭の、南側の花壇に咲く花だ。名前は知らない。でも、毎朝窓から見える。


 この体の持ち主は、屋敷の庭の花を一輪摘んで、押し花にして、森の奥に隠していた。


 木箱を膝の上に置いて、しばらく動けなかった。木漏れ日が落葉の上に薄い模様を描いている。風が枝を揺らすたびに、光の形が変わる。森の奥は静かで、わたしの呼吸だけが聞こえる。


 子供の絵と、押し花。


 宝物だ。この体の持ち主にとっての、宝物。大きな人と小さな人の絵。庭の花の押し花。誰にも見つからない場所に隠した、小さな宝物。


 紙と花を箱に戻した。蓋を閉めた。布で包み直した。石の下に、元通りに埋め戻した。苔を上から被せて、なるべく元の形に近づけた。


 誰にも言わない。


 これはわたしのものではない。わたしが見ていいものだったかどうかもわからない。でも見てしまった。見て、胸が詰まった。それだけを、抱えて帰る。


***


 森を出る時、光が変わった。


 木々の間から差し込んでいた細い光が、開けた空に出た途端に広がって、冬の冷たい白さが目に沁みた。手のひらに土の感触が残っている。爪の間に黒い土が入り込んでいて、払っても落ちない。


 歩きながら、考えていた。


 宝物。


 前の世界で、わたしには宝物と呼べるものが何もなかった。


 日記は書いていなかった。手紙をもらったこともなかった。写真を撮る習慣もなかった。部屋にあったのは仕事の書類と、着替えと、安い食器だけだ。引っ越しの時に段ボール三つで済んだ。三つ。人生の全部が段ボール三つに収まった。


 あの子供は——この体の前の持ち主は——大きな人と小さな人の絵を描いて、庭の花を押し花にして、森の奥に隠した。誰にも見せない、自分だけの場所に。


 宝物。その言葉自体が、遠い。


 前の世界では、何かを「大事だ」と思う余裕がなかった。明日の仕事、来週の締め切り、来月の家賃。大事なものは常に「片づけなければならないもの」で、「隠しておきたいもの」ではなかった。


 ——でも、今は。


 足が止まった。


 屋敷が見える。冬の薄い日差しの中で、古い石造りの壁が白く光っている。庭の花壇には、まだ枯れきっていない花がいくつか残っている。南側に、あの橙色の小さな花。


 今のわたしには——何がある。


 木板と炭筆がある。六十八点の軟膏がある。虫除け束がある。ダーヴォの「売れる」がある。ロクスのお茶がある。ミケの欠伸がある。書斎の蝋燭の光がある。


 宝物とは、違う。全部、仕事の道具であり、日常の一部だ。隠す必要なんてない。隠したいとも思わない。


 でも、なくなったら困るものだ。


 なくなったら困るもの。前の世界には——段ボール三つの中に、そんなものは一つもなかった。


 屋敷の玄関に着いた。


「ただいま」


 ミケが玄関で鳴いた。小さな体をすり寄せてくる。足元が温かい。


「おかえりなさいませ。早かったですね」


 ロクスが廊下の奥から歩いてきた。白手袋の右手で答弁書の清書を持っている。


「薬草は?」


「あ、忘れた」


 ——忘れてない。持ち帰る気分じゃなかった。


「珍しいですね。手ぶらでお戻りとは」


「散歩に切り替えた。たまには何もしない日があってもいいでしょ」


「もちろんです。やらないことリストの精神ですね」


「あれはもう死んだ」


 ロクスが小さく笑った。ミケがわたしの足元から離れて、ロクスの方を見上げた。あの大きな目で、何かを見定めるように。


 手のひらに、まだ土の感触が残っている。


 この体の持ち主は、あの森で何を隠していたんだろう。大きな人と小さな人の絵。庭の花の押し花。あの子供は、誰と一緒にいる絵を描いたんだろう。


 ——押し花の中に、一輪だけ見覚えのある花があった。屋敷の庭に咲く花だ。


 南側の花壇の、橙色の小さな花。


 名前は、まだ知らない。

お読みいただきありがとうございました!


この話の点数、いかがでしたか?

【☆☆☆☆☆】やブックマークで採点いただけると、作者の執筆意欲が50点くらい上がります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。