第73話「監査官への見栄え、15点」
ラディス様からの通知は短かった。
「来月十五日、中間チェックのため訪問する」
たった一行。なのに、胃が痛い。
***
通知書を書斎の机に置いた。
事務的な筆跡。飾り気のない文面。余白が多い。監査官という人種は言葉を節約するのが仕事なのだろうか。必要なことだけ書いて、あとは相手に考えさせる。
考えている。考えすぎて胃が痛い。
「ロクス、中間チェックって、何を見られるの」
「領地経営の進捗です。前回の改善勧告に対し、具体的な取り組みと成果を示すことが求められます」
「具体的な取り組みと成果」
木板を出した。炭筆を握る。棚卸しだ。今の自分に何があるか、数字にしてみる。
売上。銅貨二十枚。ダーヴォへの初出荷の分。
道の整備状況。崖崩れ区間は片側通行。馬車は通れない。六十点。いや、片側通行に修復しただけでも上等か。でも監査官には「まだ馬車が通れない」と映る。
人口の増減。なし。一人も増えていない。一人も減っていない。これは——良いことなのか。辺境で人が減らないだけ健闘しているとも言えるが、増えていないのは事実だ。
産業の多角化。薬草加工品の製造を開始。品目は軟膏と虫除け束。ただし量産体制とは言い難い。一日二瓶。
以上。
木板を見つめた。数字が並んでいる。どれも小さい。
——監査官への見栄え、十五点。致命的。
こんなに働いた。朝から晩まで薬草を煮て、品質を調整して、失敗して、やり直して、訴状まで来て答弁書を書いて。それで十五点。百点満点の十五点。
努力は成果とは違う。成果は数字で測られる。数字が小さければ、努力の量は見えない。前の世界でも同じだった。残業しても売上が上がらなければ評価されない。あの頃の無力感が、喉の奥にこみ上げてくる。
「お嬢様」
ロクスの声で我に返った。書斎の空気が冷えている。窓の外は曇天で、冬の日差しが届かない。
「成果の棚卸しは終わりましたか」
「終わった。惨憺たるものだけど」
「拝見しても?」
木板を渡した。ロクスが数字を眺める。琥珀色の目が行を追う。表情は変わらない。
***
「お嬢様。予言しておきますが、ラディス殿は数字以外のものを見る方です。ただし、数字がなければ見てもくれません」
「救いがあるのかないのかどっち」
「両方です」
ロクスの声のあと、一瞬だけ間があった。
ロクスが木板を机に戻した。白手袋の右手を軽く引き直す。
「数字が小さいのは事実です。しかし、ラディス殿が見るのは『数字の大きさ』ではなく『数字の方向性』です」
方向性。その言い方に、少しだけ引っかかった。
「銅貨二十枚は小さい。しかし、半年前のゼロと比較すれば、方向は上を向いています」
「二十枚が上向きって言える?」
「ゼロから二十への変化は、二十から四十への変化より大きい意味を持ちます。最初の一歩は、二歩目より重い」
ロクスの言葉が頭の中で転がる。
——未来を想像してみる。
中間チェック不合格。本格評価に響く。猶予期間の短縮。取り潰し勧告。父が書斎で通知書を読む。「ああ、そうか」とだけ言う。母が居間で刺繍の手を止める。「あら」とだけ言う。
そして、ロクスが台所でお茶を淹れている。
——最悪の未来でも、この人はお茶を淹れてる。
少しだけ、笑いが漏れた。不謹慎な笑いだ。最悪の想像をしているのに、ロクスだけが変わらない。世界が崩れても執事はお茶を淹れる。何なんだこの人は。
「お嬢様、何か思いつかれましたか」
「いや。最悪の未来を想像してた」
「結論は」
「あんたがお茶を淹れてた」
「当然です。お嬢様がどのような状況であれ、お茶の時間は確保いたします」
本気で言っている。この人は本気で言っている。
窓の外を見た。曇天の隙間から、薄い冬の光が差し込んでいる。書斎の床に細い光の筋が落ちた。
胃が痛いのは変わらない。十五点という数字も変わらない。でも、ロクスの言う「方向性」には一理ある。ゼロから二十への変化。軟膏の品質。虫除けの製造。ダーヴォとの取引開始。答弁書の作成。
数字は小さい。でも、半年前には何もなかった。
***
「方向性を見せる、か」
新しい木板を出した。中間チェックまでにできることを書き出す。
軟膏の品質を安定させる。二十瓶の納品実績を作る。虫除け束の増産。答弁書の清書と送付。道の補修計画の素案。
炭筆が木板の上を走る。文字が力を帯びていく。
「数字で勝負できないなら、方向を見せる。ゼロから始めて、今ここまで来たという軌跡を見せる。ラディス様がそれを評価するかどうかはわからない。でも、見せられるものが何もないよりはずっといい」
「はい。加えて、監査官に説明する際は感情ではなく事実をお使いください。銅貨二十枚は小さいですが、取引先が存在するという事実は大きい」
「取引先が存在するという事実」
「はい。辺境の領地で独自の商品を開発し、外部の行商人と定期取引を確立した。これは数字以上の情報です」
そうか。銅貨の枚数だけじゃない。ダーヴォという人間が「もっとくれ」と言ったこと自体が、商品に価値があるという証明になる。
木板の隅に書き足した。「ダーヴォの継続発注意思」。これは数字ではないけれど、方向性を裏づける事実だ。
項目を数えた。十二個。中間チェックまでひと月。
「ロクス、一日に一個片づけたら間に合う?」
「二日に一個でも間に合いますよ。睡眠を捨てれば」
「捨てない。絶対に」
やらないことリストはとっくに破ったが、睡眠だけは守る。これだけは譲れない。前の世界で睡眠を削って何が残ったか、わたしは知っている。眠れなくなった夜と、味のしなくなった朝ごはんが残った。
木板を書斎の壁に立てかけた。十二の項目が並んでいる。どれも小さい。どれも地味だ。でも、一つずつ片づけていけば、来月の十五日に「これだけやりました」と言える。
十五点が三十点になるかもしれない。ならないかもしれない。でも、十五点のまま座っているよりはましだ。
蝋燭の炎が揺れた。冬の風が窓の隙間から入り込んで、書斎の空気をかき混ぜる。
来月までに、見せられるものを全部見せる。
胃は、まだ痛い。
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